第一章 朱色の獅子 <1>
「将軍。あと一日で、ペルシスに到着します。全軍に戦闘態勢に入るべく指示を・・・・・」 岩山と砂礫が何処までも続く荒涼たる風景の中。走っている馬をパルコスの側に寄せて来たのは、騎兵隊長のクレオンであった。
鋭い眼は、今にも獲物に襲い掛からんとする猛禽類のようである。
パルコスを尊敬すること甚だしく、許しをえてパルコスと同じ朱の兜を被っている。年の頃は三十代半ば、肌は日に焼け赤銅色をしている。髭を蓄えた偉丈夫が戦いを待ちかねているかのように、白い歯を出してパルコスに指示を仰いだ。
「うーむ・・・・・そろそろかな、よし、野営の用意をしろ・・・・・明日は早いぞ・・・・・」
パルコスは、朱の兜をポンと叩き、悠然と答えた。
「え! 将軍、あと半日進むべきでは?・・・・・攻撃のためにも・・・・・」
クレオンは、怪訝そうにそう言うと、同意を求めるかのように、将軍の傍らの副官ネストルの方をむいた。
ネストルは二十代半ば、上背のある颯爽とした若者だ。精悍な顔つきをしているが、どことなく気品を漂わせている。メディア王キュアクレサスの姻戚にあたり、王の懇願により、パルコスの副官として、影のごとく付き従っている。
彼も又、パルコスに心酔すること甚だしいものがある。
彼の兜も朱色であった。
「将軍、私も隊長の申されるように・・・・・」
「まあ、焦るでない。私に策がある・・・・・明日、夜明けとともに各部署の指揮官は、私の幕舎に集合するように伝えよ・・・・・さあ、ここらで野営だ・・・・・」
そういうと、パルコスは手綱を引き、馬の歩調を弛めた。
理由を説明する気は無いらしい。
「行軍をやめ、野営地を探すよう探索隊を出しなさい」
「は!」
将軍にそこまで言われると、まさか逆らうことは出来ない。
訳が分からぬ儘、短く答えると、クレオンとネストルは、馬群の中に姿を消した。
野営地を定め、十数個の幕舎を設置したのは、数刻後のことであった。
戦闘態勢下の行軍の途中である。幕舎は幹部用に限られている。
約一万人の野営地の設置には大変な労力を要した。
各所で焚き火の煙が流れ出した。そろそろ、夕食の準備に入ったらしい。
ざわめきも、聞こえてくる。
岩影で、いびきをかいて寝ていたパルコスは、のっそり起き出し、兜を手に提げボリボリ頭を掻きながら、幕舎の方へ歩き出した。
二メートルを越す長身に、巌の様な体型をしている。赤い髪に色白の肌、そして、赤い髭を蓄えている。
怒ると、怒髪天を突くの言葉どおり、色白の肌が真っ赤になり、琥珀色の瞳が炯々と燃えだし、正視できるものは、まずいない。
人をして、その兜の色から『朱の獅子』とあだなされ、敵に取っては恐怖の的であるその名は、メディア王国の周辺地域へも鳴り響いている。
しかし、怒ることは、滅多にない。いつも茫洋としていて、単なる中年の軍人という雰囲気を醸し出していた。
「おーい、飯は出来たか?」
パルコスは、焚き火を囲み、料理に入った司厨士の間にぬーと顔を出し、情けなさそうに呻いた。
「将軍、まだです。もう少しお待ち下さい」
「一寸だけ・・・・・味見みを・・・・・」
「まだ、駄目です」
「じゃ、もう一回寝てくる」
とぼとぼと、大きな背を丸め、本当に又、岩影に向かうのだった。
将軍の姿が見えなくなると、司厨士たちは、堪えていた笑いを一気に吹きだし、腹を抱えて大笑いした。
「将軍、策をお知らせ下さい。一部なりとも・・・・・いったい、なにを考えて・・・・・」
クレオン隊長はその一本気な性格をむき出しに将軍に迫った。多少、不遜のおもむきもあるが、それを言わせるのもパルコスの人徳と言えるだろう。
「今は、なにも考えてはおらん。昨日まで此の数年間、死ぬほど考えた・・・・・考えて考え抜いた。あとは実行するのみである・・・・・」
クレオンは副官ネストルの方を見た。
ネストルは下唇を突き出し気味に、肩をすぼめた。その態度は『将軍が考えること?・・・・・そんなもの、私ごときに解ろうはずがない・・・・・』と言いたげに見えた。
ネストルにも、まったく見当がつかないようだ。
朱の獅子は、本当になにも考えず、羊の肉にかぶりついているように見える。
「とにかく、明日夜明けとともに、各部署の指揮官は此処に集合するように、もれなく、再度確認してくれ・・・あわてるな、クレオン。まず、此の肉を喰ってからにしろ・・・・・旨いぞ・・・・・」
立ち上がりかけた、クレオンは座り直すと、多少不満げでふて腐されたたように、肉を掴むとかぶりつく。
それを見たネストルは、二人のやりとりに、呆れたように溜息をつくと微笑んだ。
言葉を交わすこともなく暫く食事がつづいた。
「あー、旨かった・・・・・」
しこたま、食べ続けたパルコスは、大きく腹をポンと叩くと、その儘、後ろに寝そべったかと思う間もなく、いびきをかき始めた。
「おい、ネストル・・・・・俺は将軍を尊敬してやまないが、時々、ほんとうにバカに見えることがある・・・・・」
「クレオン隊長、バカは言い過ぎですが、自分もまったく同じです。白兵戦では信じられない強さを見せます・・・・・作戦も天才的な閃きをみせます、しかし、・・・・・何を、考えているのか? これがどうにも解りません・・・・・」
ザグロス高原の夜はあけようとしている。
岩山がかすかに、白みはじめたころ。
パルコスに心酔し、彼に被ることを許された朱の兜を誇らしげに抱えた、数十人が、次々と幕舎に入っていった。
彼等は見た。
全員の背筋に戦慄が走る。
揺らぐ燈明に照らされ、仁王立ちになり、あたりを睥睨しているのは『朱の獅子』であった。
眼光は燃えさかり、怒髪はまさに天を突いている。
腰には太刀を佩き、今にも戦う気迫である。
言葉を漏らす者は誰一人としていない。
「全員揃ったか! 二度とは言わない。指示をくだす!」
破鐘の様な大声が幕舎じゅうに響きわたった。
気迫は全身から立ち昇り、眼光は岩をも、突き抜けかねない。
「ネストル、なにが起こったんだ?」
「隊長!・・・・・昨日より、将軍の側に控えておりましたが・・・・・さっぱり解りません」
ささやくような小声で二人は言葉を交わした。
「今、この場より進発する。行き先はアッシリアの首都ニネベである! 千qを越す距離を三日以内で走破する」
どよめきが上がった。全員の脳裏を『不可能」』いう文字が走った。
そもそも、なぜ今、『ニネベ』へ行かねばならないのか? 誰もが感じた疑問であった。
パルコスは委細構わず続けた。
「この五年間、この日を待ち続けた。全ての準備はなされている。三千の騎兵は俺のあとに続け! 歩兵も其のあとに続け、行き先は『ニネベ!』」
パルコスは咆哮すると、踵を返し駆け出した。
幕舎を後に、走りながら兜を被り、馬に飛び乗りると手綱を思いっ切り強く引く。
馬は後ろ足で立ち上がり、前足を大きく空中に掲げ、張り裂けんばかりに嘶いた。
パルコスは馬に鞭を当てた。
朱の兜は、大地を疾走する。
後年、伝説となる、『朱の獅子の爆走』という戦いは、今、火ぶたを切った。
クレオン隊長、ネストル副官も訳が分からず、ともかく遅れてはならじと、必死で後に続く。
「ちくしょう! バカヤロー!」
クレオンは無意識に言葉を吐いていた。
陽の昇りかけた、果てしのない大地を、三千の騎兵がほぼ一列縦隊に、狂ったように疾走を始めた。
先頭は『朱の獅子』である。
その後に、数十の朱の兜が、全力で続いている。
大気を突き抜け、一本の錐の先が突き進んでいく。
濛々たる砂塵は、後ろに舞い上がった。
クレオンの馬術の腕は、メディア随一であることは誰しも認めるところである。
自らも許し誇りにしていた。その彼が、必死にパルコスの後を追った。
しかし、朱の兜を被った、大男の背にどうしても追いつくことが出来ない。
『将軍はたしか・・乗馬は下手だったのでは?』
クレオンの頭の中は、何がなんだか解らなくなり、ひたすら後を追いつづけた。
副官ネストル以下の指揮官達は、何とか二人に引き離されまいと、只それだけを考え、必死に馬に鞭をくれ、あがき続ける状態である。
数時間も走り続けると、三千の騎兵隊は数qの長さになっていた。
パルコス将軍以外の将兵は、だれも、なにも解らずただ走り続けていく。
砂礫の原野、蹄は小石を蹴散らした。
後続の騎兵の中には、跳ねられた砂礫が顔に当たり、傷つき血が噴き出している者もいた。
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