第一章 朱色の獅子 <2>
陽が傾きかけ、夕方近くになった。
早朝から、休むまもなく原野を走り続けたのである。
不安にかられた、クレオンは馬の首に手をあてた。
心配が現実になった。手にザラザラとした感覚が伝わってきたのだ。
『馬が塩を吹いている!』汗が乾き塩になったのだ。
人間より先に馬に限界が訪れた。クレオンには解っていた。こうなると、馬は数時間を待たずして倒れるで、あろうことが。
クレオンは大声をだす、
「将軍! 馬が倒れます!」
怒声が返ってきた。
「馬が倒れたら、お前が走れ!」
「・・・・・・・・・・」
何かに取り付かれたように、鬼の集団がひたすら走る。
瓦礫の荒野のの中、幾つか目の、城壁に囲まれたオアシスが見えた時のことである。
パルコスはそのオアシス都市に馬を向けた。
到着までには、小一時間を要した。城門は大きく開かれている。
錐の先頭は城門の中に吸い込まれていった。
パルコスは傲然と、都市の中央とおぼしき建物の前に馬を乗り捨てた。クレオン以下、朱の兜の面々が次々に後に続いた。
「パルコス様、お待ち申し上げておりました。どうぞ、こちらへ・・・・・」
都市の統括者らしき男は、パルコスを建物の中に案内しようとした。
「世話になる。が、暫し待て!」
パルコスは男を制し、建物の階段に腰をおろすと、広場を見渡しそのまま動かなくなった。
次々に騎兵軍団が到着を始めた。
塵埃にまみれ、疲れ切ってそのまま馬から崩れ落ちるもの。顔中血だらけのもの、服は乱れ、ボロボロの騎兵が次々に馬をおりた。
いや、馬から落ちたと言うべきであろう。
まさに、苦しい戦いを終えた兵士の姿そのものである。
最後の騎兵が到着するまでには、有に一時間を要した。
パルコスは立ち上がると、大声をあげた。
「今日は、ここで休む。明日は日の出前にこの場所に集合。その時、換え馬の準備は出来ている・・解散!」
そう言うと、建物のなかに入っていく。副官のネストルは直ぐに後に続いた。
「将軍はお休みになりました」
ネストルは、将軍に従う前に約束した通り、最後に建物の正面にやって来た。十数人が車座になって話し込んでいる。
「おお、来たか・・・・・こちらへ来い」
そう言うと、クレオンはネストルの為に座を開けた。
「全く、とんでもないおやじだ! ネストル、今皆で話していたのだが、此の行動は数年に渡って綿密に計画されたものだぞ。皆それぞれの役目を担っていたのだが、全体を掴んで仕切ったのは、あのおやじだ!」
「クレオン隊長、いくらなんでも、『おやじ』は言い過ぎです・・・・・しかし、実は私も思い当たる節があります。このオアシスに伝令を出したのは私です、ここだけでは、ありません、他にも数多く出しています。ラガエの城塞を包囲中のウラノス将軍にも出しました」
ネストルは、彼の性格そのままに、丁寧に話した。
「ネストル、手紙を書いたのはお前か?」
「いえ違います、将軍自らが、したためられました。よって、中身は全く知りません。このオアシスへの伝令も、ペルシスの反乱鎮圧の応援を頼んだものだとばかり思っていました」
思い当たったように、車座の一人が発言した。
「今日、走った道筋にオアシス都市が、何カ所かあった。そこから、二〜三百の騎馬隊が出て、我らの後に従ったぞ・・・・・出発時の騎馬軍団は今は倍に膨れあがっている」
雑多な発言が続くのを抑え、クレオンは言う。
「いいか、俺たちは将軍の手の中で踊っているのだ。軍用馬の大増産の指示を、俺が受けたのが五年前だ。以来、増産に励み今では五十万頭を超えている。此処に居る皆も指示を受け、弓箭騎兵、槍騎兵、それぞれの組織造りを指示されている。今までは、単なる強兵策の一環だとばかり思っていたのだが・・・・・おい、将軍、『ニネベ』を本気で攻略するつもりかも知れないぞ・・・・・アッシリアを滅亡させる・・・・・」
「クレオン隊長、どうしてそんなことが・・・・・アッシリアの巨大な力は復活してきており。リディア王国はアナトリアの戦いで負け、今、新バビロニアも滅亡の危機にあるという・・・・・はたして、そんなことが可能だろうか・・・・・」
車座の中の一人の発言であった。
「可能かどうか、俺には解らぬ。頭脳はパルコス将軍だ。俺は指示通りに動くだけだ、将軍が行けと言えば、地獄にでも行ってやる。走ろと言われれば走る・・・・・死ぬまで走ってやる・・・・・くそ親爺め!・・・・・」
頭脳であるはずの将軍の乗馬が、手足よりも巧みだという事態をして、クレオンを多少感情的にしているということは否めない。
しかし、言葉使いこそ悪いが、クレオンが、パルコスを心より尊敬していることは周知の事実である。
この場にいる、全員の気持ちも全く同じであった。
昼間の爆走の疲れが全員を包んでいる。明日の早朝から又・・・・・
誰かが大声を上げた。
「死ぬまで、走ってやる!」
クレオンが叫んだ。
「死んでも走れ!」
同じ日、時間は少しさかのぼり、陽が傾きかけた頃であった。
チクリス河畔、アッシュール平原のアッシリア軍本営では一つの事件が持ち上がり、波紋はしだいに大きく広がりつつあった。
将軍の一人が伝令より小さな紙片を受け取った。
受け取った将軍は、訝しく、不安げな様子を隠すように、緞帳の中に入って行った。
「皇帝陛下、伝書鳩により新たな情報が入りました」
(戦場における伝令として、鳩をもちいるのは古代エジプトを嚆矢とする。欠点はパピルス紙には、短い言葉しか書けないことにある)
「何処からだ」
「ザクロスのジャーロムからです」
皇帝アッシュル・ウバリト二世の心に、不吉な予感が沸き上がった。
「内容を言え!」
「ハ・・・・・、『本日正午、『朱の獅子』当地を駆け抜ける』となっております」
「なにー。パルコスは、ペルシスの地ではないのか?・・・・・ジァーロムは三百qも手前ではないか。駆け抜けるとは何ごとだ・・・・・まさか?・・・・・いやそんなことはない・・・・・」
皇帝は沸き上がる不安を抑えるように発した。
「・・・・・この場の、会戦に間に合う筈がない。しかも、二〜三千の騎兵ではどうすることもできまい。予定の変更はなしだ!・・・・・」
次の日の、昼前、また新たな情報が入った。
「カセルーンからです。『早朝、『朱の獅子』当地を駆け抜ける』となっております」
皇帝は拳を握りしめ立ち上がった。
「うぬー・・・・・パルコスめ・・・・・念のためだ、ボルジェルド城塞に付近の軍を集結させろ。
一万は手配しろ。パルコスを向かい打つ用意だ!」
その日の夕刻、再び情報。
『本日正午、『朱の獅子』当地を駆け抜ける』
アルダカーンからの伝書であった。
並みいる将軍たちは、あっけに取られてしまった。
居並ぶ将軍にとって、とても信じがたい早さである。
ザクロス山脈の高地沿いに、メソポタミア地方に向かっているのだ。
まさに鬼神としか言いようがない。
皇帝の固く握りしめられた腕はワナワナと震えていた。
「急げ! ボルジェルドに軍の集結を!」
ボルジェルドは、アッシリアのメディア王国に対する前線基地の要である。
いまや、皇帝の意識は、完全にザクロス高原を疾走する、パルコスに向けられた。
目前の敵、新バビロニア軍から離れてしまったのだ。
実にパルコスの爆走は、ウバリト二世の性格までも読んでのことであったのだが、その事を知るものは誰もいなかった。
同じ頃、ザクロス高原を、朱の獅子は、爆走を続けていた。
二日目の陽はもうすぐ暮れる。
先頭はパルコス、二番目はクレオンであった。少し離れ、朱の兜の騎兵が続く、ネストルは朱の兜の集団の後方にいた。
いかに、鍛えた若者と言えども、歴戦の勇士には、ついていくのがやっとである。
後方を振り返ったネストルの双眸は、信じられない光景を捕らえた。
上り坂を疾走している、彼から見える景色は、異様なものであった。
延々と騎兵軍団が続いているのである。後方に行くほど広がり、後尾は地平線に消え、大地を覆い尽くしていた。
『数万の騎馬軍団、そんなことがあり得るのだろうか?』
ネストルは身体の震えが止まらない。さらに、恐怖さえ感じてきた。
昨日、宿を取ったオアシス都市から五百の騎兵が合流したのは聞いた。その後、百、二百と小集団が次々に加わったに違いない。
『将軍は凄い! 本当にニネベを陥落させることが出来るのでは・・・・・あの、アッシリアの都、ニネベを・・・・・』
身体と同じく、魂も震えだし止まらなくなった。
『パルコス将軍の旗下、私も此の戦いに参加している・・・・・もう、死でも良い・・・・・』
皆、それぞれの興奮を胸に、爆走を続けている。
必死の形相で走るクレオンの眼が、雄大な牧草地を捕らえた。
『・・・・・ここは? 将軍の指示で俺が造り、育んだ牧場ではないか! 何と言うことだ、今の今まで、全然気づかなかった・・・・・』
巨大な牧場である。明らかに数万頭の馬が飼育されていた。
先頭のパルコスは、振り向きもせず太刀を、天空に高々とかざし、馬のスピードを落としていった。
その意志は、波のように全員に伝わっていく。
今日の野営地はこの牧草地である。
パルコスが馬を下り牧草地に腰を降ろすと、次々に指揮官が集合を始めた。
彼の鬼の形相は変わらない。
指揮官が集合した頃を見計らい、彼は口を開いた。
「焚き火を燃やし、食事をするのは自由である。しかし、その元気もあるまい。乾し肉を囓り、寝ることだな・・・・・明日の朝、ボルジェルドを抜く、間違えるな戦うのではない、一気に抜いてしまうのだ。そして、明日中にニノベに到達し陣を構える。場所はニネベ北方の高台だ。明日は又、夜明けとともに進発だ。今宵の内に替え馬を用意しろ。以上、全員に徹底させること・・・・・質問はあるか・・・・・」
おお! と声を上げたのはネストルであった。
「将軍は今、『ボルジェルドを抜く』と言われました。抜けば、敵に背後を取られることになります。背後の備えはいかようにお考えで・・・・・」
「もし、背後より我らに追いつくことが出来るなら、誉めてやる・・・・・何なら、命もくれてやる・・・・・いいか、ボルジェルドを過ぎると、全て敵陣だ・・・・・戦うな、抜いて抜いて、抜きまくれ・・・・・そして、ニネベに着いたとき、戦いは終わり、我らは勝利する」
そう言うと、パルコスは此の二日間で初めて笑った。
騎馬は、次々に到着した。そして、騎馬軍団が到着し終わるのに数時間を要した。
夜が明けた。
ここは、チグリス河畔のアッシュール平原、新バビロニア軍本営の幕帳の中である。
ナボポラッサール王の下座に、重臣が集まり鳩首会談を続けている。王も含めて八人を数えた。
「陛下、此の二日間、どうもアッシリア軍の動きに変化があります」
「日を追うにしたがって、動きが多くなってきています」
「今朝方、偵察隊からの報告では、浮き足だっているようにも見えるそうであります」
新バビロニア王、ナボポラッサール。かれも又、一代の英雄であった。
オリエント随一の繁栄を誇るバビロンは、アッシリア帝国の金城湯池の城塞都市であり、富の源泉であった。
それだけに、統治政策は徹底しており、反乱の芽は素早く摘まれていた。
ところが、紀元前630年、偉大なる皇帝アッシュル・ハンバルが急死した。余りに突然の死に、毒殺説も流布したほどである。
アッシリア帝国は乱れに乱れた。バビロンに於いても、権力闘争の嵐が吹き荒れた。
その合間を穿ち、諸勢力を結集し困難の末、独立を果たした英雄が、ナボポラッサール王であった。
彼はバビロンの貴族の出自で、勇猛と堅固な意志の持ち主であったが、どことなく気品を感じさせる王でもある。
「陛下、もしや・・・・・一ヶ月前、パルコス将軍からの使者の極秘奏上・・・・・あれが、現実になったのでは・・?」
王は大きく頷いた。
「自分もそう考えていた。確か奏上は・・・・・『陛下は、アッシュール平原にて、アッシリア帝国と貴国の、浮沈を賭けた一大会戦を行うと承知している。その際、我らは必ずや、帝都ニネベに迫る。ウバルト二世は殿軍を残し、ニネベに退却するはずである。新バビロニア軍は、間髪をおかず、全勢力で攻撃をかけて欲しい。ニネベで、お会い致しましょう』・・・・・と言う内容であったと、記憶している・・・・・」
「陛下、その通り自分も記憶しております。パルコスは意志堅牢な勇者として轟いております。おそらく、信じ難いことでもありますが、ニネベに迫っているのでは・・・・・?」 ナボポラッサールは、腕組みをして暫く思考していたが、
「命令を下す! 全部隊は早急に総攻撃の準備にかかれ!」
立ち上がり、眼光鋭く、強い決断の意志を下した。
此の決断により、新バビロニア王国は、続くネブカドレツァル二世の統治下、空前の繁栄を迎えることになる。
同時刻、夜が明けると共に、遙か東方のメディア王国の首都エクバタナを、国王キュアクサレスの指揮する一万五千人の軍団が進発した。
途中、ウラノス将軍旗下、ラガエ城塞の包囲軍四万のうち一万五千人の将兵と合流しニネベに向かう手はずだ。
ラガエ城塞の一万人のアッシリア守備軍に対し、二万五千人を残置することになる。念には念を入れた備えである。すべてパルコスの作戦であった。
馬上の、キュアクサレス王の胸中には、熱いものが溢れている。
『あれから十年・・・・・十年の時が経過した。パルコスと手を取り合い、涙と共に誓った約束が今果たされる・・・・・本当に果たされるのだ・・・・・』
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