第一章 朱色の獅子 <3>
今をさかのぼる十年前。
カスピ海を望む、エルブルズ山脈。
真冬の氷結は容赦なく山肌を叩いていた。
ダマーバンドの山中に、キュアクサレスとパルコスは敗残の身を隠していた。彼等に従う人数は、わずか数十人を数えるのみであった。
戦いは、数日前に行われた。カラチャイ川のそば、サベーにおいて、メディア王国の全勢力一万人でアッシリア軍と正面衝突をしたのだ。
結果は、あまりにも無惨なものであった。壊滅的な大敗北を喫し、さらに掃討され、命からがらダマーバンドの山中に逃げ込んだのである。
山中を彷徨うこと二日間。やっとの事で、自然に出来た、大きな洞窟を発見することが出来た。でなければ、全員が凍死したことは、間違いない。
しかし、決して偶然という訳ではない。このダマーバンド山中には、自然に出来た洞窟が点在するのは、知られた事実ではある。
中にはいると、全員が呆気に取られると同時に、安堵した。洞窟は、入り口を入るとすぐに巨大なホールのようになっており、奥の窪みは小さな池になっている。そこには、地下水が流れ込んでいた。
『ああ! 命を繋ぐことができた!』
キュアクサレス国王以下、この場の全員が、身も心も完膚無きまでに叩きのめされていた。
夜の山中の気温は、氷点下にまで下がる。
自然にできた洞窟の隅で、フエルトにくるまり、キュアクサレスとパルコスの二人は、数日に渡って話し続けた。
話し続けるうちに、次第に二人の心に火が灯り始める。
初めは、僅かな火花に過ぎなかったが、徐々に蝋燭の炎のような、確かな明かりとなっていく。
「パルコス、どうすれば良いんだ・・・・・?」
「・・・・・・・・・・」
「陛下、お願いです・・・・・指示を・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
勇猛果敢、臆することのないパルコスが、その巨体を縮めている。悔恨と惨めさに心が泣いていた。彼にとっては、生まれて初めての屈辱とも言えた。
洞窟内は呻きと溜息に満ちていた。話す意外にすることがない。しかし、話し声はすべて、くぐもった嘆きとしか聞こえない。
絶望の底に落ち込んだ人間は、浮かび上がることしかできない。死なない限りは・・・・・そして、時間を必要とする・・・・・・・・・・。
洞窟の入り口から、弱い陽が射し込んできた。
又、夜が明けたのだ。
キュアクサレス国王は、膝を抱えたまま、その端整で理知的な顔をゆがめて話し出した。
「完全な敗北である。アッシュル・ハンバル皇帝の死後、アッシリア帝国は、内紛に明け暮れ、秩序は千々に乱れた。ここぞとばかり我々は立ち上がった。属領の惨めさからの離脱は今を於いてあり得ないと考えた・・・・・しかし・・・・・しかし、結果はこの上も無き完敗であった。我らは、自らの力を過信していた・・・・・衰えたとはいえ、アッシリアは強かった・・・・・」
パルコスは、大きな身体をフェルトに包み、うつむき加減に、小さくなって言い出した。
「陛下、明らかに自分の責任です。兵員の数の問題ではありませんでした。武器、兵員の練度、作戦能力、すべて、絶望的な差がありました。そして、それらを支える富。今考えるに勝利する要素は全くありませんでした・・・・・結果が出なければ解らぬ・・・・・司令官として最低です・・・・・馬鹿者です・・・・・」
「馬鹿者は私だ、数を頼んで勝てると思ったのは、ほかならぬ自分である。私を慕う一万の兵を無駄死にさせてしまった。慚愧にたえぬ・・・・・」 キュアクサレスの頬に涙が伝わった。
パルコスは涙を手の甲で拭っている。
二人を包んだ絶望感は、次第に晴れてきている。少なくとも、涙が出るほどには回復したといえる。
「パルコス! いやだ! 彼等の死を、犬死にになどしてなるものか。このままでは死んでも死にきれん・・・・・立ち上がらねば・・・・・この、数十人で・・・・・そうでなければ、死んでいった者達に会わせる顔がない」
「陛下・・・・・自分も死に場所を見つけます・・・・・少なくとも此処ではありません。立ち上がりましょう、此処にいる数十人で!」
二人は、暗い洞窟の中、固く手を取り合った。
話す時間だけは、たっぷりあった。
二人は、これまで、これほど膝をつき合わして話したことがあっただろうか。
「パルコス、まず富みを生みだし、蓄える必要があろう。時間は掛かるがこれが全ての基礎になると思う」
「陛下、自分もそのように考えます」
燈明に照らされたキュアクサレスの横顔は、遠くを見つめるように話し出した。
「我らは元来、平原の民である。ステップ平原の民である。馬を肥やし、羊を飼い、山羊を飼い、牛を飼い・・・・・そして、通商の民でもある。交易を盛んに行おう・・・・・オアシスの農民とも融和を計らねば・・・・・」
キュアクサレスの脳裏に、想像は次々に沸いてくるようであった。
「パルコス、お前には、軍事、軍略の全てを委嘱する。いずれ必ず、アッシリア帝国の属国の地位から脱しようではないか。自分に、その方面の才能が無いことはいやと言うほど、思い知らされた・・・・・」
パルコスの眼にも光が宿っている。
「陛下、そのようなお言葉を・・・・・」
「パルコス、本気だ。敵ながら偉大な皇帝、アッシリア帝国のアッシュル・ハンバル帝・・・・・お前と二人、その長所を合わせれば、なれぬ事はあるまいと思う。そのためには単なる協力ではだめだ」
「と、申しますと?」
「協力は誰でも出きる。しかし、一心同体、不二になることは、容易ではない。これが出来ずして凡人が、アッシュル・ハンバルに成ることは叶わぬ」
キュアクサレスは、昂揚した眼でパルコスを見つめると、視線を外さず彼の手を握りしめた。 パルコスは、その視線を力強く受け止めると、短く、心を込めて言った。
「陛下、命を懸けて!」
二人ともまだ、三十代半ばであった。
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