ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界





 第一章 朱色の獅子 <4>


 場面はめまぐるしく変わる。
 キュアクサレス王が、首都エクバタナを進発した頃。 
 ボルジュルド城塞の近くの平原に、ウバリト二世によって、集められた軍団が集結を終えていた。
一万有余の軍団は騎兵集団を迎え撃ち、包囲の後、殲滅すべく、両翼を大きく開いた形で、丘陵に布陣している。
 その男にとって、戦いの経験は豊富とは言えないが、多少の場数は踏んでいた。
まだ、独身であり、城塞の守備隊としての勤めは、一年は過ぎている。昨夜、指揮官より指示があり、いまこの戦場に立つことになった。
 久しぶりの大きな戦いに、胸が高鳴るのを覚えた。役割は騎兵である。
 『三千の騎兵軍団と聞いた。しかも相手は、朱の獅子ということだが・・・・・激しい戦闘に為ることだろう・・・・・』
そう、想像すると武者震いが起こった。
 『やるぞ!』
 早朝の冷気の中、馬に足踏みさせ。手に持った、槍をしごきながら、数時間を過ごした。 丘陵からは、平原が地平線まで見渡せる。
風はほとんどない。雲も無い青空だ。

時々、馬のいななきが聞こえる。指揮官は、自分の受け持ち範囲を見て回る。ピリピリと頬が痙攣しているのは、過度の緊張感に、よるものだろう。
 「よいか、我らが正面から敵にぶつかる事になるだろう。敵が突っ込んでくる。ひるむな・・・・・持ちこたえろ。必ず両翼から包囲殲滅できる・・・・・」
 その男の上官は、自分に言い聞かせるように、部下に同じ事を説いて廻っている。
 緊張と興奮がその場を支配していた。
 殺し合いが、始まるのである。
 戦闘を忌避する心を、前線の兵士ほど持つ者は他にいない。実際に槍や剣で相手を殺すのである。そして、殺されるのである。ゲームの駒のように扱われて・・・・・決着がつく、勝敗が決する。
 生命の危機に、過度の緊張を強いられる兵士は、通常の精神状態では、持ちこたえられない。狂う必要がある。いや、狂わざるを得ないのだ。
 勝利の満足感に浸れるのは、あくまで、作戦を立て号令を下したものである。作戦参謀、これほど戦争を喜ぶ者も他にはない。魂の震えるほどの興奮を覚えてしまう。実際の殺し合いという、戦争ゲームに。

 身を震わす恐怖と緊張感の中に男は身をおいていた。
 『何のために・・・・・殺し合うのか・・・・・?』
 その時、男は地平線の近くに、黒い動くものが見えた気がした。
 気のせいではない。確かにこちらに駆けてくる。
 一騎、二騎・・・・・次第に数が増えてくる。どんどん増えてくる。
 突然、まさに突然、一気に数が増大した。長い三角形だ。
 遠くになるほど、幅広くなり、砂煙を巻き上げ、地平線を埋め尽くすようだ。
 『なんだ! これは!』
 三角形の先端、錐の先はもの凄い勢いで突進してくる。
 男の眼は朱色の兜をとらえた。
後に続く、一騎、二騎・・・・・確かに皆、朱色の兜だ・・・・・
 男の隊列は、呆然としているらしく、声も行動も出ない。男も唖然として、見入っているばかりだ。
 何処かで、大声があがった。
 「朱の獅子だ!・・・・・」
 「間違いないぞ!」
 迎え撃つ軍団に動揺が伝わっていく。動揺はどんどん増幅していく。
 「なんだ! あの数は!」
 「四万・・・・・いや、五万騎は間違いない」
 「五万の騎兵軍団! そんなことがあるものか!」
 耳にする言葉は、悲鳴であった。

 朱の獅子は猛然と突っ込んでくる。前途には何の障害物も無いかのように。
 五万騎の気迫が、錐の先端、つまり、彼個人に乗り移ったように。
 ただ、突進するだけの、狂気の大軍団。 
 そこには、戦闘態勢すら取らず、戦う意志も感じられない。
 まったく、理解の範囲を逸脱した騎兵軍団の爆走に、アッシリア軍は、闘志も狂気も吹き飛び、たんなる、怯えと萎縮に支配された。
 歩兵は算を乱して逃げ出した。方々で悲鳴があがる。
 男の背に悪寒が走った。身体が、すくみ上がり動くことが出来ない。
 朱の獅子の巨体は、さらに突っ込んでくる。
 その時、男の乗る、馬の尻を蹴飛ばしてくれたのは、上官だった。
 「ばかー! 逃げろ」
 危ういところで、脱出できた。
 朱の獅子の軍団は、アッシリア軍には眼もくれず駆け抜ける。 
 為すすべもなく、呆然と見送るアッシリア軍。
 追撃など、考えることすら出来ない。
 男は、足下から恐怖が駆け上がり、全身に鳥肌がたった。
 『こんな!・・・・・こんなことが、現実にあるのか?』


 パルコスは走り続けた。
 今は、考えることは何もなかった。ただひたすら、走り続けるだけである。
 ボルジェルドのアッシリア軍を抜いてからは、すべてが敵の領域である。しかし、遮るものは何もなかった。
 敵軍と出会わすことは、しばしば在ったが、呆然と見送るだけであった。それどころか、パルコス軍の最後尾に合流し、爆走に参加するものも後をたたない。
『今は、ただ走ることだ・・・・・』
 この五年間、パルコスは考え続けた。あらゆる可能性について。
 遠くは、エジプト、アルメニアのリディア、の情報を蒐集した。
 新バビロニアと、王であるナボポラッサールも調べ尽くした。
 しかし、何と言っても、最も心血を注いだのは、アッシリア軍とウバリト二世についてであった。ウバリト二世に関するすべての情報を集めた・・・・・統冶、戦略、戦術、陰謀、風貌、名誉欲・・・・・ありとあらゆるすべてを・・・・・結果、心理の襞にまで及んだ。
 パルコスは、今ではウバリト二世の影武者も出来るだろう。
 あらゆる可能性を探り、メディア軍を、全てに対応すべく育て上げた。 
 その範囲は、兵の練度だけではない、武具、馬、補給、運搬すべてに渡った。指示、命令はその都度だした。全体像を把握し戦略を立てたのはパルコスただ一人である。秘密保持のため、あえてキュアクサレス国王にも知れせなかった。
 絞れるだけ、脳髄を責め続けた。誰にも話すことの出来ない孤独と、休むことのない脳髄の酷使は、彼の性格を変えてしまうほどであった。
 『朱の獅子』という、渾名をあえて、ウバリト二世の耳に入るべく流しもした。
そして、ひたすら機会を伺い続けていた。
この五年間、いや準備段階を入れれば、十年間の全ての結果が此の爆走である。
 『皆、よく俺に付いて着いてきてくれた。特にクレオン・・・・・お前は、憤慨し、腹をたてることも多かったが、信じて俺に付いてきてくれた・・・・・もうすぐだ!・・・・・もうすぐ結果が出る・・・・・』
 パルコスのすぐ後に、クレオン隊長はつづいている。出発時からそれは、変わらない。 剛直な性格そのままに、憤怒をもろに顔に出している。


 ボルジェルドのアッシリア軍が、パルコスに抜かれた。という情報は数時間後には、伝書鳩によって、チグリス河畔のアッシュールに大本営を置くウバリト二世に、もたらされた。
 「ばかもの!・・・・・」
 玉座を蹴飛ばしかねない勢いで立ち上がると、ウバリト二世は、怒りに震える声をあげた。眼は血走り真っ赤になっている。 
 その場に控える将軍達も、信じることが出来なかった。 
 皇帝をはばかり、大声を出す者はいなかったが、
 『ばかな! そんなことが・・・・・負けるならまだしも・・・・・』
 『一戦も交えないなぞ・・・・・? 何が起こったんだ・・・・・?』
 詳しい情報が入らず狼狽えるばかりである。
 激昂した皇帝は、燃える眼をパルコスの走る東の方へ向け、拳を握りしめている。
 『パルコス! パルコスめ!・・・・・』
 皇帝の意識は、完全に原野を疾走するパルコス軍に向けられた。眼前に対峙する、新バビロニアの大軍から離れてしまったのだ。
 激昂すると、廻りの状況が眼に入らなくなり、短絡した思考は、一点にのみ集中してしまったらしい。
皇帝は、緞帳で囲まれた空間を、怒りに狂った目つきで歩き回る。並み居る将軍達を蹴飛ばしかねない勢いだ。声を掛ける者は誰もいない。いや、声を掛けても、皇帝の耳に届くことはあるまい。

「命令だ! 全軍はニネベに転身しろ」
 東方に向かい、吠えるように皇帝は、命令を下した。
 「陛下、眼前には新バビロニアの大軍がいます。今、転身すれば、背後より攻められます。ニネベは城壁に固く護られた都市です・・・・・たとえ、十万の軍隊に攻められても、少なくとも半年は、持ちこたえられます。なにとぞ、お考え直し下さい」
 「陛下! なにとぞ、お考え直しを・・・・・」
 「陛下、なにとぞ・・・・・今、打つべきは、新バビロニア・・・・・」
 「・・・・・なにとぞ・・・・・」
 無謀とも言える命令に、将軍達は、独裁者の逆鱗に触れるのを、恐れながらも必死に皇帝をいさめた。
 「衛兵! 衛兵はおらぬか!」
 皇帝は、あたかも、狂ったように叫んだ。
 緞帳を開け、十数人の護衛兵が会議の場所になだれ込んだ。
 「衛兵! 暫し、その場に控えておれ、謀反の動きが、生ずるやもしれぬ・・・・・再度、命令を下す。殿軍一万を残し、他の全軍はニネベに転身。幕帳、幕舎はそのまま捨て置く、殿軍は散開し、馬で駆け回り、砂塵を上げるようにしろ・・・・・配置を決め、速やかに行動に移せ・・・・・敵はパルコス・・・・・なにが『朱の獅子』だ・・・・・!」
 パルコスという幻影に惑わされ、皇帝アッシュル・ウバルト二世は、明らかに常道を逸してしまった。


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