第一章 朱色の獅子 <5>
朱の獅子こと、パルコス軍団の爆走は、今、その終わりを迎えようとしていた。
エルビルを過ぎチグリス河上流の丘陵に到達した。地平線の彼方に、ニネベの城塞の一画を遙かに、望む事が出来る。
陽は中天を過ぎたところであった。
パルコスは手綱を弛め馬を止めた。クレオン隊長がすぐ後につづき、続々と朱の兜の軍団が到着を始めた。副官ネストルの顔もその中に見られた。どの顔もほこりまみれの中に、眼だけが異様に輝いている。
軍団は砂塵をまじえ、津波のごとく、次々に押し寄せ、丘陵に到達している。
パルコスは、眼前にゆるやかに流れる川を隔てて、遙かに、ニネベの都を望む風景を、睥睨していた。
「あの川の、水深を計ってまいれ」
パルコスの下した命令に、すぐに、クレオンが応じた。
細かい指示を与え、命令を出すと、数十騎が駆け出し、丘陵をくだっていく。
数十騎は河岸に達すると、渡河地点を探索るべく、すぐに散開し、川のなかに入っていった。緩やかな流れを蹴散らすしぶきが、方々であがり始めた。
その間、大騎兵軍団は続々と到着を続けている。
一時間もすると、次々に報告が、クレオンのところへもたらされる。
あらかた、報告を聞き終えた彼は、パルコスのもとへ走った。
「将軍、川幅は広いですが、水深は浅くなっています。渡河は、どこででも可能です」 パルコスにとって、今回の作戦は、最終段階に入った。
「クレオン、此の地点に陣営を築く、幕舎は仮設でよい。明日、明後日のうちにも此の戦いは終わりを迎える。陣地構築の指示を出せ。川岸から丘陵にかけての一帯を、騎馬で埋め尽くすのだ! その指示が徹底されたら、この場に、おもだった、指揮官を集合させろ」
こう言い終えると、パルコスは初めて下馬し、大地を二本の足で踏みしめた。
伝説として、語り継がれる。『朱色の獅子』の爆走は終わった。
パルコスのもとに、集合した百人を越す武将は、皆一様に驚き、『おー・・・・・!』と声にもならぬ、息を吐き出した。
怒髪天を突いていた鬼の形相は、影も形も無い。おだやかな髭面の将軍がそこにいた。 「みなの者、なるべく近くに来い。声が聞こえやすいようにだ。少し話しは長くなるぞ」
到着する、騎馬の地響きは途切れることもなく続いている。
どっかり、胡座を掻いていたパルコスに、ネストルが床几を差し出した。床几に腰掛けた彼を取り巻くように、指揮官達は、それぞれ地面に腰を降ろした。
パルコスは、感に堪えぬように、とつとつと話し出す。
「みなの者、本当にご苦労であった。何の説明を受けず、よく付き従ってくれた。まず、礼を言おう、今回の爆走は、狂う必要があったのだ。説明をしていれば、今この場に到達出来たはずがない。理屈を越えた狂気こそが、我らを此の地に導いたのだ。そして、そして、ここが重要なところであるが、アッシリア皇帝の心中に矢を射ることができた。彼は憤怒に怒り狂い、我を忘れているはずである。このことに関しては確信がある。思えば十年間の長い日々であった・・・・・カラチャイ川畔、サベーにおける大敗北。ダマーバンド山中の洞窟における、絶望のなかの誓い・・・・・若き日のクレオン隊長は、その場にいた、数少ない一人である」
全員が神妙に聞き入っていた。
剛直で一途なクレオンの眼は、早くも潤んでいる。
「秘密保持のため、誰にも相談せず、すべて自分の責任で、はかりごとをすすめた。自分にその能力があるのか? 資格があるのか? 煩悶の十年間であった・・・・・最大の障害は常に、自分であった。酒に溺れてしまったこともある。キュアクレサス王は戦略の内容を一切聞かず、ひたすら自分を励まし続けてくれた。ここに集う皆も、黙ってよく付いてきてくれた」
そう言うと、パルコスは、しばし頭を垂れた。
集会は、感動と嗚咽に包まれた。
クレオンは流れる涙を拭おうともしない。
「自信と驕りは、常に表裏にある。アッシリアのウバリト二世は、極端にそれがある。そこをこそ、突かねばならぬと考え、このの五年間、脳髄を絞りに絞り、機会をひたすら、待った。今回の、アッシリアと新バビロニアの対峙、これこそ、その機会であった。無理を承知で、敢えて爆走することにより、名誉欲の極端に強い、アッシリア皇帝は完全に自分を見失い、通常の判断が、できなくなっているはずである。明日、早朝にも、アッシリアの大軍勢が、押し寄せてくるであろう。戦端が開かれることは間違いない、布陣と戦闘について、最後の命令を下す」
パルコスを取り巻く集団に緊張が走った。
大きく息を吸い込むと、パルコスは続けた。
「布陣は、川の手前に配置する。自然の要害がある場合は、その前方に、先鋒を配置するという、原則があるが、今回はそれを取らない。全軍が川の手前だ。川岸は長槍騎兵部隊の半数を配する。丘陵にはメディアの誇る弓箭騎兵部隊を配置しろ。その後陣に混成騎兵部隊だ。布陣は川に沿って帯状に長く展開すること。朱色の兜は前面にでろ、アッシリア軍、いや、ウバリト二世の注意を引くためだ。ここまで、何か質問があるか?」
ネストルは気持ちが高揚し、興奮してくるのを覚えていた。握った拳には汗が滲んでいる。副官として、パルコスに仕えること三年、つぶさに彼の行動、考えを見ることにより啓発を続けたつもりであったが、今ひとつ納得出来ないものがあった。
それらの疑問が、今この場で次々に氷解していくのだ。パルコスの顔を食い入るように見つめ、次の言葉を待った。
「我が軍から、攻撃を仕掛けることは、一切しない。敵の攻撃を待つ。躊躇することなく、必ずや敵は攻撃をしかけてくる。敵が向こう岸に到達したなら、弓箭隊は一斉に矢を放て、矢が尽きることを心配する事はない」
クレオンは思わず顔をあげると、言葉を挟んだ。
「まあ聞け・・・・・有るだけの矢を放ってよい。そのうち、キュアクサレス国王の軍団が到着する。大量の武具と補給物資を携えて、敵が川を渡り終わる頃、全力を挙げて長槍隊は、攻撃しろ。川を越えて追撃する事は許さぬ、敵が逃げたら引き返せ、数回それを繰り返すころ、背後より、新バビロニア軍の攻撃が始まるはずだ。敵が崩れたところを国王軍とともに、総攻撃をかける」
パルコスは、言葉を切ると、頭を巡らし全員の顔を眺めた。どの顔も確実な勝利への期待に、かがやいていた。
「弓箭隊の後ろに控えていた騎兵軍は、その時戦闘には参加せず、敵を蹴散らし、一気にニネベの城門へ向かえ、ニネベを攻撃するのでは無い。敵の入城を防ぐ為だ」
このときもまだ、続々と、パルコス軍の後続部隊は、到着をつづけている。
「命令は以上である。まだ到着していない部隊もある、以上の命令を徹底させることを、第一と考えよ。今回の戦闘は、全員の意志が一つにならねば、アッシリア軍を殲滅することは出来ない。各人の使命を果たすのだ! 行け・・・・・!」
パルコスの長い話しは終わった。
蜘蛛の子を散らすように、各司令官は乗馬し、馬群の中へ消えていった。各人の眼は輝き、気持ちの昂揚は、身体全体から滲み出ていた。
『やるぞ!』
『勝てる。あの、アッシリアに!』
『明日だ! 明日決まる。間違いなく、勝てる!』
『さすがだ、将軍・・・・・朱の獅子・・・・・』
クレオン隊長は感動に打ち震えていた。
パルコスの廻りには、数人の武将しか残っていない。その中に当然、副官のネストルの顔もあった。
「将軍!」
クレオンは、有無を言わさぬ勢いで、パルコスの手を握った。頬を涙が伝わっている。 「よせよ、クレオン! 儂には、稚児の趣味は無い、ハッ、ハハハ・・・・・」
完全に日頃のパルコスに戻っている。
「酒は、葡萄酒は無いか?」
「あるわけ、無いでしょう!」
憤然として、クレオンは答えた。
「こちらに、ございます」
そう言うと、ネストルは革袋をパルコスに手渡した。
「お前、あの爆走の間、こんな物を持っていたのか!」
さすがの、パルコスもいささか呆れた。渡された革袋の口をあけ、ぐっと呑む。
「旨い! 本当に旨い、馬上で良くこなれたとみえる。クレオン・・・・・そう怒らず一杯、呑めよ・・・・・」
「将軍、本当の決戦はまだなんですよ! 今から酒なぞ」
そう言いながらも、目の前に、突き出された革袋を、断りきれず受け取り一口飲んだ。 『旨い!実に・・・・・』
爆走の後の、葡萄酒の一杯、これが不味かろうはずがない。
しかし、クレオンは、苦虫を噛みつぶしたような顔をして、パルコスに革袋を突き返した。
みんなは、その情景に、堪えきれず腹を抱えて大笑いした。
おだやかな川面が陽の光を照りかし、キラキラと輝いている。
パルコスは、両手を頭の後ろにくみ、河原近くの草むらに寝ころんだ。
側には、ネストルが影のように控えていた。
遠くに、怒鳴り散らすクレオンの声が聞こえる。
今、戦陣のまっただ中で、明日の早朝には、血に染まる激戦が待っている。間違いのない事実である。だのに何故か、パルコスの心は澄みきっていた。この十年来になく、おだやかな気持ちになっている。
『終わった。終わってしまった。自分の出来るのは、此処までだ・・・・・』
横に投げ出された、埃にまみれた兜を手に取ると、独り言のように話し出した。
「ネストル、明日からの戦いでは、クレオンに従え。俺もそうしようと思う。クレオン・・・・・彼は素晴らしい指揮官だ。緒突猛進のようでいながら、軽率なところがない。事に当たり、慎重に進める胆力もある。用兵も見事なものだ・・・・・ネストル、これからは彼に従い・・・・・彼から教わるといい・・・・・・・・・・」
言葉の最後の方は、うつろに草の中へ消えていった。
しこたま呑んだ葡萄酒が効いたらしく、パルコスは、かすかに寝息をたて出した。
朱の兜は彼の胸の上におかれている。
夢うつつの、パルコスの前に若きキュアクサレス王が立って、笑いかけている。
『ご苦労! パルコス良くやった』
『陛下、後は頼みます・・・・・・・・・・』
寝息をたてる、髭づらのパルコスは、ニッコリ微笑んでいた。
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