ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界





 第一章 朱色の獅子 <7>


 「外人さん、あんた何処の国だね?」
 中年肥りの、多少薄汚れた男が、ぶしつけにパルコスに言葉を掛けた。
みんなの視線はパルコスに集まった。誰もが聞きたかったことらしい。
 「メディア王国だよ」
 『おー!』という感嘆の言葉が漏れた。パルコスには好意と感じられた。
 パルコスは懐から、布袋を取り出すと、金貨を一枚テーブルに置いた。
 「オヤジ! 酒樽ごと買いあげだ! こいつで他の客にも、ふるまってやってくれ」
 またもや、『おー!』という歓声があがった。
 「いいね・・・・・その気っ風が、気に入った!」
 「その大きな身体、外人さんあんた軍人だよね!」
 パルコスを取り巻く輪は、どんどん狭まって来る。
 「そうだよ」
 パルコスはにこやかに笑った。久しぶりに気分が晴れてきている。
 「この前の戦争、ニネベの戦いは、凄かったね!」
 「当然、あんたも参加したんだろ」
 「ああ、俺も参加したよ。大変な戦いだった」

 談笑の輪の中から、一人がおもむろに立ち上がった。きちんとした身なりから、役人のように見える。男は、自分の知識を誇示するように話し出した。
 「この軍人さんは、護衛官だと思う。いま、メディア国王が、このサルデスに滞在されておられる。大勢の護衛官が宮殿に入るのを見たんだ。夜中に抜け出して、呑みに来るところを見ると、あまり位は高くない。どうです・・・・・」
 そう言うと、パルコスの顔をのぞき込んだ。
 「確かにそうだ、当たっているよ」
 若者は、我が意を得たりとばかりに頷くと続けた。
 「その、巨大で頑強な体つきからするに、武勇にはすぐれている。そうだろ、きっとそのはずだ。しかし、惜しいことに、頭が良くない、知識がない」
 「おい、やめんか! この、気の良い外人さんに何て事を言うんだ」
 「親父さん、構うことはない。この人の言うことは当たっているよ」
 パルコスは、少しも不愉快さを感じない。むしろ、心地よい発言だと思った。
 「あんたの言うとおり、わしがもう少し頭が良かったら、出世したと思うよ。残念だがしかたがない。しかし、力はこの通り十人力だ」
 そういうと、やおら、テーブルの端を片手で掴むと、そのまま持ち上げた。
 「おー!」という驚きと共に、店内は歓声に包まれた。人間離れした怪力に拍手が巻き起こった。
 「あんた、たいしたもんだ、力があって気が良いとくるか・・・・・」
 「乾杯ッ! メディアの軍人さんに」
 店内はパルコスを中心にどんどん盛り上がっていく。
 「軍人さん、あんた、あの人にあった事があるよね、話したことはあるかい、えーと、なんていったかな・・・・・?」
 「よー、お前それは、朱の獅子、パルコス将軍のことだろ」
 「そーだ、パル、パルコス。朱の獅子だ!」
 話しの方向が思わぬほうにいきそうである。
 「お会いしたことは、ある。言葉を掛けて戴いたことも」
 そういうと、パルコスは少し胸を反らした。 
 「えー! そうなのかい」
 「どうなんだ、どうなんだよ! 朱の獅子は」
 「将軍は立派というか、むしろ怖い感じだ。ぶっきらぼうで、言葉は短い。眼はぎらついて、睨み付ける」
 「それで、それで・・・・・」
 「身体つきは、わしと同じぐらいかな? 怖くてまともに正面に立つことは出来ない」
 「へー、すげーな」
 「軍人さん、悪いが、ちょっと立ってみてくれないか?」
 パルコスは、気軽に立ち上がった。
 「これで、いいか」
 「いい、それで良い。そこで睨みつけてくれ、もっと眼をむいて、こりゃ、怖いや・・・・・!」
 店内は爆笑の渦に包まれた。
 その時、まさにその時、店の片隅で静かに呑んでいた、白いドレーパリーに身を包んだ男が立ち上がり、パルコスの方へ歩いてきた。
 男は、何とも言えぬ、不思議な雰囲気を醸し出している。酒場内は静まった。
 足音も立てず、パルコスの前に立つと黙ったまま、軽く会釈した。
 スラリと背が高い。歳は、二十代半ばに見えた。白い肌に、薄水色の瞳が鋭い知性を感じさせる。
 パルコスの耳元で、人に聞かれないように、かすかにつぶやいた。
 「パルコス将軍、また、お眼にかかります」
 そのまま、男は店を出ていった。
 白いドレーパリーをなびかせ、風のように・・・・・・・・・・。


 無数の燭台に照らされた、石畳はパルコスの影を揺らしている。遊里の街角は華やいでいた。
 ほろ酔い加減のパルコスは、久しぶりに気持ちが、爽やかになっていた。夜風が心地よく頬を撫でていく。通り沿いの遊郭からは、舞曲を奏でる音が耳にとどき、遊女の脂粉が鼻孔をくすぐる。
 『サルデスか! 良い町だ。メディアのエクバタナでは、こうはいかない。わしもいささか有名になってしまい、誰もが、わしを知っている』
 見上げるばかりの巨体に、革のブーツ、革のズボン、綿の上着に帯を巻いている。行き交う人々は彼を避けて通る。
 時々、店の中をのぞき、ひやかしていく。
 女たちの、嬌声が耳をくすぐる。
 『この開放感はなんだ? わしは今まで何をしてきたのだろう? ひたすら、人を殺すことを考えてきたのでは? そして、殺すことと引き替えに、地位と名声は確かに得た。しかし、わしが望んだのはそれだったのか・・・・・』
 間口の大きな、遊郭を通り過ぎた角に、細い路地があった。それまで、ゆっくり歩いていたパルコスは、スーと、路地の闇に身を隠した。
 突然の行動であった。その時まで、隠れながら、パルコスの後を付けていた黒い影は、慌てて後を追い、角を曲がった。

 「おい!」
 そういうが早いか、待ちかまえていたパルコスは、黒い影の腕をつかんだ。
 上背はあまりないが、鍛えられた筋肉を持っていることは、腕をつかんだ感触でパルコスには解った。
 『軍人? いや、密偵か?』
 パルコスは抑制した声を出した。
 「宮殿からずっとあとを付けてたな! 飲み屋の外で待っていたのか? ご苦労なことよ」
 「・・・・・・・・・・」
 「お前が、わしに、危害を加える気がないことは解っている。なぜつけた?」
 「・・・・・・・・・・」
 黒い影の男は返事をしない。パルコスは腕をつかんだまま、表通りに出た。腕を万力のように締め上げられ、男はさからうことが出来ない。
 燭台の光でパルコスは男の顔を見た。精悍な顔に、鋭い眼をしている。右頬の深い切り傷が、頬を引きつらせていた。
 パルコスは黙って、男の眼を見つめた。
 『なかなかの者だ! 臆するところも、卑屈なところもない』
 男は、パルコスを睨んだまま、視線をそらさない。腕を取られた状態で、力を抜き全身を脱落している。幾多の修羅場をくぐり抜けた武人であることが、パルコスには分かる。 こういう場面で身体に力を込めるのは明らかに素人である。

 「おい! わかったよ。お前は、言いたくないことは死んでもいうまい。わしが問う、答えられることを、答えよ! リディアか?」
 「・・・・・・・・・・」
 「では、メディアか?」
 「・・・・・・・・・・」
 パルコスは握っている右手に力をこめた。
 男の顔がゆがむ。かよわい女性なら、腕の骨が砕けるほどの圧力だ。
 「おい! 一言ぐらい喋れよ。でなければ放すわけにもいかんではないか!」 
 「・・・・・・・・・・」
 「偶然、わしを見つけ、後をつけたとでもいうのか?」
 「・・・・・そうだ・・・・・」
 不敵な薄笑いが男の顔に浮かんだ。
 「危害を加えるつもりは、無いらしいな?」
 「・・・・・無い・・・・・」

 それ以上、男が口を開くことはなかった。
 パルコスは、この男といつの日か、再び相まみえることが、あるような気がした。
 さしたる明確な理由があるわけではない。唯、幾多の修羅場を踏み越えた彼の直感が、そう思わせるのである。
 『敵か! どうも敵とはいえない気がする』
 パルコスは男を離した。
 夜の闇に消えていく男の後ろ姿を眼で追いながら、彼は納得したように頷き、また歩き始めた。
 男の言葉には、アクセントに特徴があった。
 『メディア、それも、東の地域、むしろ、バクトリアだろうか? それにしても、なぜ?』
 右頬に深い傷のある男、そして、酒場での白いドレーパリーの男、パルコスをめぐる人の流れは、再び動き始めたようだ。
 時はまだ、パルコスを必要としているのか・・・・・?



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