ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界





 第一章 朱色の獅子 <8>


 ダイダロス王の別邸は、サルデス郊外の高地にある。
それは、乾燥地帯には珍しく、大きな湖と緑に覆われた一角に、建造されていた。
 パルコスは、むっつりとした表情で、芝生に置かれた大きな椅子に腰掛けている。この数日間、彼を巡る人間の動きは、思いもかけず新たな展開を始めていた。
 先の大戦の終わりをもって、果たすべき役割を終えたと思い定めた彼であった。しかし時がまだ、己を必要としている昂揚感は、不思議な心地よさであった。 
 のどかな日和に、パルコスがあくびをかみ殺したとき、となりに座るキュアクサレス国王が、楽しげに話しかけてきた。
 「のぅ、パルコス、楽園とはかようなところと思わぬか・・・・・季節の花の咲き誇る庭園に、湖の蒼がまばゆいばかりだ。邸宅の美麗なこと、例えようもないほどだ。パルコス、我も別邸を持ちたいものだな」
 「・・・・・・・・・・」
 「わかっておるわかっておる。言うな。まだまだ成さねばならぬことがあるのは、ようわかっておるわ」 
 パルコスの椅子が、ギシリとにぶい悲鳴をあげた。十分に横幅のあるそれだが、彼の巨躯をささえるには荷がかちすぎるのだろう。
 往年の猛将軍は、大きく息を吐き出すと、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「陛下、驕りは敵ですぞ。どうも、自分もこのまま引退というわけには、いかなくなり申した。ダイダロス王、どうにも油断がならぬ」
 「これ、パルコス! 軽々しく引退などと口にするでない、我はそれを許したおぼえはないぞ」
 「恐れ入ります。ですが、こればかりは人の意というよりも天の意・・・・・時がまだわしを必要としておるのならば・・・・・いやいや、これはただの独り言、お気になさらず・・・・・」 「なにを迷い言を申しておるのか。我にはまだまだよちが必要なのじゃ。いや、この国がそちを必要としておるのじゃぞ。今日だとて、ただの戯れにそちを呼びつけたわけではない」
 長い顎髭をもてあそびつつ、キュアクサレス国王は言った。 

 のどかな陽ざしのなか、二人の会話は親しさを込めたものであった。大きなテーブルの上には、皿に盛られたくだものが置いてある。そして、イオニア産の葡萄酒と陶器製の容器が三つ、一つは今から訪れる来客のものらしい。
 まるで宮廷画家の描く静物画のようであった。
 空には雲ひとつなく蒼い空が広がり、春の陽射しは、シュロの葉によって編まれた陽除けに遮られている。
 キュアクサレス王との会話は、しばしとぎれた。
 パルコスは、うつらうつらとして、時に眠くなりそうになる。休息を求めるように、毛に覆われた太い腕が、テーブルの上にでんと置かれていた。

 「パルコス、もうすぐ一人の男がここにまいる。その男に会ってもらいたく、お前をわざわざサルデスまで呼んだのだ。今、身共は人材が欲しい、あらゆる分野において、国の内外を問わずに、そのことは、お前も十分に承知していると思う」
 「陛下、ご随意のままに。自分は、人材登用については賛成いたしており申す」
 パルコスは、顎髭をなでながらキュアクサレス国王を見つめている。
 「男は、イオニアのミレトスに居住し、名をアリウスと申す。かの偉大な哲人、アナクシマンドロスの養子であり、高弟でもある。再三に渡り招聘したが、決して首を縦に振らなかった。ところが、今般、先方より連絡があり、会いたいと申してきた」
 「・・・・・で、なぜ自分がこの場に?」
 「先方より依頼があった。それと、身共もお前にも会って欲しいと思う」
 「広く人材を求める、そのことについて、我に異存はござりません。して、どのように用いるお考えで?」
 「ギリシャ文化の摂取にある」
 当時、オリエント世界においても、学術、文化については、ギリシャ文明が他を圧し、輝くばかりだった。
 キュアクサレス王が、ギリシャ文化に強い憧憬を抱いていることは、パルコスも十分に承知していた。必ずしも彼自身が、賛同している訳ではない。しかし、王の強い要望に対して、あえて異議をはさむほどのことでもない。

 湖を迂回しながら、庭園へと続く道を一人の男が、案内されながら歩いて来た。
 空の蒼と、湖の薄蒼色を背景に、くるぶしまで届くギリシャ風の白いドレーパリー(巻き付け着)を、おだやかな風になびかせている。
 パルコスの瞳は、その男をはっきりと捕らえた。
 『あれが、アリウスか・・・・・! なるほど・・・・・』
 パルコスは、酒場でのことを思い出した。
 『また、お眼にかかります・・・・・だったな、己を際だたせたい、自己顕示の強い男だろうか?』
 そう思いながらも、決して悪い感情を抱いている訳ではない。むしろ、人となりに、強い興味を感じている。
 彼は、今まで知ることもなかった個性に、出会える予感がしていた。
 男は、案内人の後ろを颯爽と歩いてくる。長いプラチナブロンドの毛髪は、陽の光を、はじき返し、キラキラ輝いていた。
 キュアクサレス王とパルコスは、立ち上がって彼を迎えた。案内人はお辞儀をした後、すぐに去っていった。
 緑の広い芝生の上には、三人より他に人影は見あたらない。
 儀礼的な厳粛さはなく、ごく普通の会見であった。
 しかし、後にこの日の出逢いが、メディア王国全体にかかわる事になろうとは、三人にとって、知る由もないことであった。

 キュアクサレス王は、アリウスと短い挨拶の言葉を交わした後、パルコスを紹介した。
「初に、お目にかかる。パルコスと申す」
 パルコスは『初に』ということばを敢えて用いた。アリウスの表情に変化は見られない。
極めて冷静に返事が返ってきた。
 「閣下、お会いできて光栄です。アリウスと申します」
 アリウスの双眸は薄水色で、肌が透き通るように白い。痩身で背は高く、極めて美形である。ただ、朱くうすい唇は、多少酷薄さを感じさせるものがあった。
 「まあ、掛けよう」
 キュアクサレスの言葉に、促されるように三人は、ゆっくり腰を降ろした。
 
 「突然の申し出に驚いておる。あれほどまで固辞していた貴殿が、なにゆえに?」
 キュアクサレスが口火をきった。
 アリウスは一呼吸おくと、薄い唇をかすかに開いた。
 「私の身辺に異変が起こったのです。アナクシマンドロスがミレトスから、追放の憂き目に遭いました。アフロデッテ神に不敬が有ったかどで、なんと、愚かな執政官たちである事よ!」
 「して、貴殿の身の上には?」
 「私は、とがを受けておりません。しかし、マンドロスの知性に嫉妬した、愚か者とは、袂を分かちたく存じます。マンドロスは今、トロイに滞在しております。何れ近いうちにミレトスに復帰なさるとは思いますが、私は、ミレトスの愚鈍な執政官には、我慢なりません」 
 語彙は過激であるが、アリウスが表情を崩すことはない。あたかも、第三者のごとく淡々と話している。

 「お越し願えるならば、我が国において、貴殿に期待するところは大である。以前申したこともあるが、ギリシャ文化全般にかかわる教授である。我が国はご存じの如く、もとは、遊牧民が打ち立てた国家である。よって、剽悍ではあるが、文化の香りに欠ける癖がある」
 そういうと、キュアクサレスは、視線を天に向けため息まじりにさらに続けた。王の文化に対する思い入れは、そうとう強いものがある。
 「文化、学芸・・・・・『ニネベ』でのことは、残念でならぬ。あれほど戒めたにもかかわらず、略奪が横行してしまった。わけても、アッシュル・バンバル皇帝の大図書館、あれが灰燼に帰したことは、かえすがえすも無念である」
 パルコスは、アリウスの表情をうかがったが、眉一つ動かさず、姿勢も崩さない。
 『大図書館の炎上、それは大事件であったはずだ、少なくとも、文芸、学芸を志すものにうとっては。何故にこの男は動揺しないのだ? 当事者、いや最大の責任者がここにいる二人であるだろうに。ゆらぐ心を、抑圧しているのか?』
 「陛下、戦いに破れた国の都が、略奪、殺戮、陵辱の嵐にみまわれることは、世の常であります。過去もそうでした、未来永劫続く人間の性です。人間たるゆえんと言えるでありましょう」
 アリウスが、キュアクサレス国王に話しかける言葉は、あくまで冷静であり、かつ卑下したところが微塵もない。   

 インド・ヨーロッパ語族という概念が成立したのは、比較的新しく十八世紀のことだという。比較言語学の、発展の結果といえるだろう。ギリシャ世界に於いては、紀元前三十世紀、ペルシャは紀元前十世紀、ガンジス川流域は、紀元前十五世紀には使用されていた言語らしい。
 欧州、バルカン、ギリシャ、アナトリア、ペルシャ、中央アジア、そしてインドに至る広大な地帯を覆っている。
 この当時、紀元前七世紀末の世界に於いては、社会変動の速度が遅く、制度も単純であった為、言語分化も進展しなかった。ゆえに、共通語として機能していたと仮定して、この物語は成立する。
 アリウスは、メディア方言を完璧に駆使する、言語的天才でもあると・・・・・。




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