ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





第三章、平原の月と狼<14>


 戦場一帯に穿たれている空堀は、馬ではとても飛び越えることの出来ぬ幅を持ち、高さは二メートル近くになる。騎兵の突進を食い止めることが出来、また歩兵の進軍の大きな障害となる。
 別に目新しい戦術とは言えぬが、戦場が定まっているときには、防御側にとって極めて有効に威力を発する。
ペルシャ軍は、城塞を出て、この場所を決戦場とした。オロデス軍に取っては、一見願ってもない展開に見えるが、ネストルの罠にはまったことは解らない。敵を迎え撃ち、戦場を選べる有利さは此処でも発揮された。

 オロデス軍は、後方から材木を運び込み空堀に橋を架けようとする。そうさせてはならじと、キョロス連隊は一斉に射撃を始めた。
キュロスのほんの数百メートル先で、敵兵が悲鳴を挙げ次々に倒れる。腹部に矢が刺さり蹲るもの、あるいは、顔面を射抜かれ手に持った弓を放り投げて仰向けに倒れるものも続出する。
 顔が識別できる距離である。倒れる兵士は、若者が殆どである。味方の若い兵士も次々に倒れ、後方に移動させられる。
 敵兵は、果敢に攻撃を続ける。死地を乗り越えるかのごとく前進することを緩めない。騎馬は後方にさがらせ、歩兵による決死の攻撃が続く。空堀に架けられた橋を渡ろうとする。しかし、渡らせまいとする弓矢に射抜かれ、空堀に次々と落下していく。
 倒れた兵士を踏み越え、オロデス歩兵隊は続々と丘陵を昇ってくる。後続の兵の尽きることは無く、押し寄せる兵は、永遠に続くかのようにキュロスには思えた。
 キュロスは、胸を締め付けられる様な感覚を覚えた。恐怖ではない。さらに背筋を快感とも思える痺れが走る。
 数を頼んだ無謀とも言える敵の突進は、守備側の心魂を怯ませに、十分の迫力があった。死ぬことを躊躇する気配が見えない。

「怯むな! 射よ!」
 イオスは必死になって、悲鳴ともみまごう命令を下す。先ほどまでの、なんとなく幼さを感じさせる風貌は何処にも見えない。両眼は吊り上がり修羅になりきっている。
 キュロスの戦車に同乗した老デュマスも、白髪を振り乱し弓も折れよとの勢いで矢を射る。戦車の前面に貼られた、矢留の板には敵の矢が次々に刺さり、ビシビシと乾いた音をたてる。
 戦場に砂漠の陽が照りつける。物影すらない瓦礫の台地をオロデス軍の兵士は、前進する。彼等にもはや立って進む者はいない。死体の側を這うようにして進んでくる。キュロス連隊から放たれた矢が、匍匐前進する兵士の背中に突き刺さり、そのまま死体となる。
 戦場は蓚酸を極めてきた。死が待ち受ける標的に向かって、兵士は何故に進もうとするのだろうか。
 狂気に満たされた死地で、兵士の頭を支配するのは、敵を殺戮することのみであろう。その他の感情は何処変え消し飛んだかに見える。あるいは、襲ってくる恐怖に心が壊れたのかも知れない。

「グ、グウ!」
 キュロスの側の兵士が、くぐもった声を挙げ、突然倒れた。デュマスが駆け寄る。兵士は額を射抜かれ絶息していた。
「殿下! 伏せて下され!」
 しかし、キュロスはディユマスの懇願に耳をかすでもなく。両腕を組み、立ったまま戦場を燃える瞳で睨みつける。紅褐色の髪は逆立ち風に揺れる。
 彼の網膜には、蓚酸な戦場しか映って射ないに違いない。阿鼻叫喚の叫びしか聞こえていない。

 オロデス軍の後方で、太鼓が打ちならされた。よほど慌てているらしく、乱れた太鼓の音である。
退却の合図だった。押し寄せていた兵が、潮が引くように戦場から後退していく。退却は中央だけでなく、全戦で行われた。
 その時、ペルシャ軍の太鼓が打ち鳴らされた。兵士は長弓に持ち替え、後退していく兵に向かって一斉射撃が始まった。
 ペルシャ軍に歓声が沸き起こった。勝利に小躍りしている。イオスがキュロスに駆け寄った。
「殿下! 勝利です!」
 嬉しさに声が震えている。
「まだ、前哨戦だ。本当の戦いはこれから始まる」
 キュロスは低く答えた。戦車の上に立つ彼の位置は開戦前からそのままだ。靴の位置は一ミリもずれていない。 


 同じ時刻、ナムダ川の南岸でも戦闘は停止していた。ネストル連隊は、レムルス将軍旗下の五万の敵の攻撃を受けた。数の上では、中央を襲ったオロデス本隊には及ばぬが、新進気鋭の将軍の指揮する兵は強かった。兵士の意気、作戦行動は遙かに本隊を凌ぐものがあった。
 迎え撃つ、二万五千のネストル軍は、騎兵も馬を下り、全員で押し寄せる敵兵を防ぎ攻撃した。初戦に於いては、騎兵を歩兵としてもちいるのがネストルの作戦である。誇り高い騎馬の兵士をネストルは説得した。馬を温存する為と、そうせざるを得ない兵力差が有ったからである。
 凄まじい戦闘が終わった平原には、敵兵士の死体が埋め尽くされている。しかも、敵は死体を他に移すことが出来ず、その場に放置されたままであった。
 乾いた風が、戦場を包んだ。ネストルは、いま初めて戦慄と共に恐怖にかられた。伝説のアッシリア軍師、老グライコスと二人で編み出した、長弓戦法が想像以上の威力を発揮し敵兵をなぎ倒したのだ。その凄まじい威力は、彼の眼前に無数の死体を晒す結果となった。そして、長弓戦法はこの戦場において、さらなる犠牲を必要としているのだ

「ライオネス! 何処だ!」
 オロデス軍が退却を始めると、念を押すように長弓による攻撃の合図を出すと同時に、ネストルは伝令隊長のライオネスを呼んだ。
「ハッ!」
 ライオネスが、ネストルの前に跪いた。
「すぐに、伝令を出せ! 初戦の勝利に浮かれるでない。本当の戦いはこれから始まるのだ」
 ネストルは、指示を伝令に託し各部署に放った。その命令は細部にまで及んだ。死者の処置から、負傷兵を後方にさがらせ手当てすることにまで含んでいた。彼は、伝令網により、戦闘のあらゆる報告を瞬時に掌握出来る体勢を取っていたのだ。

 比較的、戦闘が激しくなかったのは、メムノンの守備する北部であった。オロデスはこの方面には二万の兵力しか割かなかった。彼には、もともと北部の守備隊を撃破する意思がなく、兵力を向かわせなかったために、戦闘は散発に終わった。
 敵陣の様子をつぶさに見ていた、ネストルは直ぐに指令を発した。メムノン連隊から五千の兵を一時的に、キュロス連隊に回したのだった。
 少ない兵力から三百人を割き、あえてネストルは伝令隊を組織した。軍団の緊密な意思の疎通が、寡兵による戦闘を勝利に導くとの信念からであった。

 初戦に於いて、オロデス軍の被害は甚大であった。思いもよらぬ射程から、矢が降り注いだのだ。長弓隊から射られた弓矢で倒れる者が続出した。
 メムノン連隊の北後方には、小高い岩山が在る。ネストルは、ここに見張り所を置き、緊密な報告を受け、全戦の様子をつぶさに把握している。さらに岩山の背後には、ケペウス指揮する予備隊の五千人が隠れている。
 初戦に於いては、この予備隊の出番は全くなかった。

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