第二章 エクバタナの春<1>
「だめよ・・・・・」
「え! どうして・・・・・」
庭から聞こえる声に、アリウスは、執筆の手を止めると向き直り、書斎の窓から庭を眺めた。
うららかな陽ざしの中、天使のような女性が二人、花壇の手入れをしている。
耳を澄ませば、華やいだ声が春の風にのって心地よく聞こえてくる。アリウスは、先ほどまで張りつめていた神経が、しだいに休まってくるのを覚えた。
「ヤクシィー、だめよ。そんな水のやり方はないわ」
金髪を掻き上げながら、優しく注意しているのは、サティーだった。
腰までとどく長い金髪に、細身のたおやかな女性である。
「えーっ、どうすればいいの?」
多少不満げに答えたヤクシーは、二十歳前の明るく、はち切れそうな雰囲気の娘だ。
二人とも、白く短めの貫頭衣を身につけ、ウエストを幅広の帯で留めている。花壇の手入れ用の作業着らしい。
手入れをしているのは、紅い薔薇だった。
「そーと、やさしく花びらを側によせて、根もとに水をあげるのよ。バラはね、日光とたくさんの水が必要なの。あ! 棘に気をつけて・・・・・」
「ん、もーだったら、ぜんぶ、水浸しにすれば?」
幼げではあるが、可愛い唇をとがらせて、ヤクシィーは拗ねるようにいった。
「だぁーめ、やさしくしないと、花がおこるから・・・・・花にも心があるのよ」
「サティー、私、花は好きだけれど、手入れはあまり好きじゃないの」
「ヤクシー、いい、花の世話は確かに大変よ、だけど一生懸命手入れした後、綺麗な花がさくでしょ、そうすると本当に嬉しいものよ」
「ええ、その気持ちは、何となく分かる気がするわ」
「だから、心をこめて続けましょうよ」
「ええ、サティー、わかったわ」
高原のオアシス都市、エクバタナは七重の城壁に囲まれた、メディア王国の首都である。
先の大戦に勝利し、その後二年を経て、人口は三十万を数えるに至った。
エクバタナに春が来た。
厳しい冬が終わり、春風の訪れとともに人々の心は解き放たれ、開放感にあふれる。
あたかも、昂揚する心につられるかの如く、宮廷をはじめ城内のあちらこちらに、花が咲き乱れるのだ。
エクバタナの花といえば、薔薇である。
薔薇は、当時のオリエント地方では、各地で栽培されていたが、薔薇の原産地ということもあり、エクバタナの人々は薔薇に特別な思いをよせていた。
アリウス邸では、サティが花壇の世話をする。薔薇の他には、ラベンダーとすずらんが広い庭に余すところ無く植えられていた。
庭には、花壇を囲み石が配置されており、さらに敷石、散歩道と、明らかに、ある種の思想のもとに統一されている。
花には、特別な想いがあるらしい、サティーの好みによって造られたのだろう。
アリウスは、花に特別強い趣向はない。ただし、紅い薔薇を見続けていると、アリウスの視覚に、おかしな現象が起こることがある。
紅い薔薇は、ますますその色を鮮やかにし、反比例するように、その他の色彩が消えていくのである。そして最後には、紅い薔薇以外の色彩は、消滅してしまう。
思考する事が出来ず、時間の観念がなくなる。ある種の、やすらぎ感に包まれるのだ。時の経つのも忘れてしまうことも多い。
花壇ではサティーが、ときおり小首をかしげながら、薔薇に向かって話しかけているかにみえた。
彼女の憂いを含んだ蒼い眼が、薔薇をやさしく見つめている。
ヤクシーは、サティーにいわれて手伝いをしている。姉妹という訳ではないが、ヤクシーは、三つ年上のサティーのことを、じつの姉のように慕い、憧れている。
そのとき、番兵に先導され、長身で精悍な青年が、門から玄関の方へ歩いてきた。
「あ! ネストル様だ」
そう言うが早いか、ヤクシーは駆け出した。
「いらっしゃいませ!」
「やー、こんにちわ! 花がきれいですね」
青年は、ネストルだった。
対アッシリア戦において、パルコスの副官として完璧に近い仕事をこなした報償として、今は、エクバタナ管区の弓箭隊に所属。年若くして、隊長の役目を仰せつかっている。
駆け寄ったヤクシーに、ネストルは気安く応えた。
短い貫頭衣を帯で縛り、革のズボンを履き凛々しい姿である。ヤクシーは軍の高官でありながら、誰に対しても、同じ目線で話しをするネストルが大好きらしい。
アリウスはこの光景を、部屋の窓から微笑ましく見つめている。
サティーは、先ほどの場所に立ったまま、深く一礼した。
長い金髪が乱れ、紅バラの花弁をなでた。
玄関まで来ると、番兵は礼をすると持ち場に帰っていった。
アリウス邸には、昼間五名、夜は三名の番兵が常駐している。
門の側に駐在所があり十名の宿泊が可能になっていた。
駐在所の反対側には、使用人のための住居があり老齢の庭番夫婦がいる。
母屋のアリウス邸は二階建で、二階にはアリウスの寝室と書斎の他に五部屋の寝室があった。サティーとヤクシーは二階に居住しており、役目は家事を担当しているが、むしろ行儀見習いと言ったほうが適切だろう。
一階は、応接室に会議室、執務室の他に番兵の夜警所、御者の夫と家事使用人の妻が生活している。
石塀に囲まれた敷地は約千坪あるが、執政官の住居としては慎ましいものである。
それらのすべては、パルコスの手配によるものであった。
アリウスとネストルは、応接室の、花壇の見える大きな窓のそばに座っている。
アリウスは、いつもの通り白いドレーパリーを身に着けていた。
歳は、同じ二十代の後半であるが、ネストルがアリウスに兄事している。
当初は、パルコスに命令され、行政に関しての教えを請うため、この邸を訪れるようになったのだが、今では、すっかりその知性に魅せられてしまったらしい。
「ほんとに綺麗に手入れされた花壇ですね」
庭を見ながら感心したようにネストルが口をひらいた。
軍人には珍しく、花を愛でる心があるらしい。
「ほう、君は、花に興味があるのかね?」
「え! ということは、アリウス殿は興味がないのですか、では、あれは・・・・・?」
そういうと、ネストルは部屋の隅におかれている、大きな花瓶を指さした。そこには、大きな花瓶にたくさんの紅い薔薇が活けられていた。
「あれはサティーだよ。彼女はよく花をかざってくれる。よほど好きなのだろう」
白い陶器の花瓶に、緑の棘ある茎、そして、紅薔薇。
一見、無造作に活けられているようだが、注意してみると、そこには繊細な美意識が存在しているのがわかる。
「メディア、なかでも、特にエクバタナの人々は、薔薇には特別の思い入れがあります。四月になると、各屋敷では競ってバラを手入れし、人々は自由に他家の花壇に入り、薔薇を観賞することが許されます。アリウス邸は評判ですよ」
確かに、これほどの花壇はそうあるものではない。
しかし、アリウスにとって不思議なのは、エクバタナの人々の薔薇に対する気持ちである。
これほどの集団の人々が、花にたいして共通の想いを感じているらしい。
さらに、この想いを進めて行けばある種の宗教に至るのでは?
考えるともなく、アリウスはそう思った。
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