第二章 エクバタナの春<2>
「私は、決して花に興味がないと言うわけではない。ある種のこだわりが、あることも確かだが、手入れをする気はない。ところで、今日の来訪の目的は、まさか花ではあるまい?」
「やー、これは失礼」
そう言うと、思い出したようにネストルは本題にはいった。
「アリウス殿、情報によると、どうもリディアに不穏の動きがあります」
「その件に関しては、私の耳にも入っている。あまり気にする必要は無いと思う。そのうち一度、叩く必要があるかも知れぬが、いずれにしても、たいした力があるはずはない。パルコス閣下はいかにお考えか?」
「いつもの通り『あー、そうか』だけしか申されません」
アリウスには、その場におけるパルコスの表情が想像でき、心がなごむものがあった。
「リディア王、ダイダロスは狡猾な野心家である。隙あらばと、常にイオニアのギリシャを狙っている。しかし、征服する力はない。ましてや大国のメディアを本気に怒らせるはずもない。せいぜい領土の一部でも剥ぎ取れればぐらいのことであろう。パルコス閣下も、そのようにお考えのはずである。それよりも急務は、通信網の確立である。これなくして、メディアの統治はかなわぬ」
通信網の確立、これは、アリウスがこの国にきて以来、言い続けてきた彼のこだわりであった。
「そちらの方は、キュアクサレス王、直々の命により、執政官オロデス閣下が担当され着々と進行中です。どうぞ、ご心配なきよう」
「貴殿、は本当にそう思われるのか? 私はどうも、オロデス閣下は信用できない気がする。なんというか・・・・・私欲、野心が強すぎるように思えてならないのだ」
アリウスの発言に、ネストルはしばし考え込むふうであったが、決心したごとく話し始めた。
「アリウス殿、これはあくまでも自分個人の考えだと、お断りした上で申し上げます。
私もオロデス閣下は信用しておりません。丁度良い機会ですので、アリウス殿と接触があると思われる高官に対する自分の感想を述べさせていただきたいと思います」
ネストルは大変なことを言わんとしている。国家における最高権威の人々の評価。
一歩間違えれば自らの首が飛んでもおかしくないことである。
アリウスを本心から信頼しているらしい。
また、ネストルの風姿からは想像しずらいが、自らの考えはきちんと述べる性格なのだろう。
「ネストル殿、お願いいたす」
アリウスは、すべてを了解したという意味を、瞳に込めてそう云った。
「キュアクレサス国王の后、タルペイア様はオロデス閣下の叔母にあたれれます。つまり、十九歳のアステュアゲス王子の従兄弟になるわけです。王子の幼い頃より、側近として教育にも当たってこられた。非常に野心が強く、権謀術策をろうされるかたであります」
「次代は自分の天下と、考えておられるのか?」
アリウスの脳裏に、よくあるお家騒動の事例が掠めていく、后の姻戚、これまたよくあるパターンと言え、史上幾度、各王家に悲劇を、もたらしたことだろう。
またもや繰り返そうというのか?
「さようです、その言動に注意すれば、まさにそのように考えておられるはずです。今までも、政敵をたくさん、策謀をもちいて失脚させております」
「人物像としては、珍しいことではないが、厄介なことではある」
「次にフラーテス閣下、この方は謎です。誰とでも口裏を合わせるところがあります。常に自己に有利に行動すると申して良いでしょう。我が国の伝統的な祭儀を司る『マゴイ』という人々と、深く関わっていると思われます」
祭儀を司る集団? そういえば、宮殿内に祭儀を行う司祭が、月に一度は出入りしている。王家の先祖を祭るということだが、アリウスは一度も立ち会ったことはない。パルコス閣下がまったく関わりを示さないせいかもしれない。
アリウスは強い興味を覚えたが、ネストルの話しの腰を折るのをやめ、そのまま流れにまかせることにした。
「ウラノス閣下、この方は極めて実直なかたです。先代の王より仕えた老将軍でもあります。クレオン将軍、この方は生まれながらの軍人と云ってよく、パルコス閣下を尊敬すること甚だしいものがあり、自分の最も信頼する将軍です」
ネストルがクレオンの名を口にしたとき、彼の眼が、かすかに輝いたのをアリウスは認めた。
「クレオン将軍には、まだお会いしたことはない。もし機会があればぜひ紹介していただきたい」
「承知致しました。先の大戦では、クレオン将軍は騎兵隊隊長として、獅子奮迅の活躍をされました。将軍になった今でも『隊長』といえば、クレオン閣下のことだと、童子でも知るところです、ぜひに紹介の労を取らせて下さい」
「貴殿ほどの人物が、そこまで推奨するのであれば、ぜひにでもお会いしたいものだ」
アリウスの頭の中に、生粋の軍人像が浮かび上がり、そして、自分とは、まったく異なる人格を想像した。
その人格は、好感の持てるものであった。
「そして、パルコス閣下です。アリウス殿も良くご存知のとおり、自分のもっとも尊敬する人です。この方あってこそ、メディア王国はまとまっていると申しても過言ではないと思います」
「ネストル殿、それは危ういことです!」
「自分もさよう心得ます。そのためにも我らが頑張らねばなりません」
メディア国、統治機構の最高権力者は、国王と執政官五人が司っている。即ち、筆頭がパルコス、内政、財務担当のオロデス、民族、外交担当のフラーテス、軍事のウラノス、そしてキュアクサレス国王の、補佐官というべき立場のアリウスである。
アリウスの立場は、多少微妙なところがある。統治組織の位階としては圏外とも言えるが、国王と筆頭執政官パルコスの絶大なる信用を得ているのだ。
二人の長い会談は終わり、時刻は正午になった。
庭に突き出た、広いテラスで昼食が始まろうとしている。四人が座っている、椅子もテーブルも床も頑丈な樫の木で出来ていた。
「いただきます・・・・・」
そういって、最初に手を延ばしパンを取ったのは、いつもの如くヤクシーである。彼女にとって、食べるという行為のあいだは、至福の時であるらしい。
テーブルの上には葡萄酒、果汁、乳、串に刺された肉、野菜、果物、酪、そしてパンがおかれている。
サティーとヤクシーは、ドレーパリーに着替えていた。
「エクバタナでも、柔らかく醗酵させた、パンとやらが、ずいぶん普及してきましたね」
そう言ったネストルの言葉に応えるように、ヤクシーは、
「わたし、パンが大好き! それと、これがあれば・・・・・」
と言うと、牛乳を一口飲んだ。うっすら眼を閉じ、幸せ一杯とでもいうような顔をした。
「この、パンは・・・・・?」
ネストルはサティーの方に眼を転じ云った。
「パン屋さんにお願いして、毎朝、届けていただいています」
小首をかしげながら、微笑んでサティーは答えた。
エクバタナにおいても、近年、パン屋の数が急速に増加している。
ヤクシーは早くも、二つめのパンに手を延ばす、眼をクリクリさせて、ニッコリ笑いながら。
「アリウス殿、パンはギリシャから渡来したという話しですが・・・・・?」
「ほんとうですか? アリウス様」
ヤクシーは何にでも興味をもつようだ。
三人は、アリウスに発言をうながすように、いっせいに眼を向けた。
アリウスは、赤葡萄酒を口に含み、少し味わったのち言葉を発した。
「今日のパン、つまり、小麦粉を醗酵させたものが出来たのは、今から数百年前のエジプトである。その後、ギリシャに伝わり、ブドウ液より酵母が造られるにおよんで、普及することになった。パン屋もギリシャで出来た。その意味で、ギリシャより渡来したと考える根拠は、間違いとは言えまい」
あくまで冷静に、食事の席での雑談と云えども、まるで、聴講生を前においた、講義かのようにアリウスは話す。
しらけかけた座を元に戻すのは、ヤクシーのおはこである。
「アリウス様は、そんなにお綺麗なのに。どうして、食べるとき、楽しそうな顔にならないの?」
「・・・・・」
一瞬絶句して、言葉を失ったアリウスに、ネストルが助け船をだした。
「ヤクシー、食べるのと顔とは、関係ないよ。異国の貴人は食事の時、会話をしないと聞いたことがある。君は本当に幸せそうだね」
「ええ! 食べるの大好き。異国の貴人でなくてよかった」
「その異国とは、何処の国のことであろうか? 寡聞に私は知らない」
アリウスは真面目な顔でそう云った。
「アリウス殿、そういう話しを聞いたことがあると云うことで、何処の国かハッキリ申すことは出来ません」
多少、呆れたようにネストルは返答した。
ここぞとばかりに、ヤクシーが半畳を入れる。
「サティー、アリウス様に会話の指導をしてあげたら? 話しが繋がらないんですもの」 「ヤクシー、ことばが過ぎますよ。ご主人様にむかって・・・・・」
「ご主人様ねー、そうよねー」
ネストルは笑いながら云った。
「ヤクシーは、本当に天衣無縫だね」
「え、テンイムホウ・・・・・?」
「誉めているんだよ」
「誉め言葉なのね? あーよかった。ネストル様に嫌われたら、生きていけない!」
「おい、おい、ずいぶん大げさだな」
「女の想いは一途よ! ねえ、サティー」
「知りません!」
「あッ、そう、だったら良いわよ、アリウス様そうですよね?」
「え! なに・・・・・うーん、ヤクシーの云うとおりだ」
ヤクシーは少し不満そうに口をとがらせた。
「なにが云うとおりなんです?」
「いや、その・・・・・」
先ほどより微笑んでいたサティーは、口を押さえて含み笑いをした。
アリウスは戸惑いながら、表情を崩すことなく取って着けたように、赤葡萄酒に口にはこんだ。
食事も談笑も終わってしばらく後のことである。
ヤクシーは、どうしてもネストルを送っていくと言い張り、馬車に乗り込んだ。
「いってきまーす!」
大きな声をあげ、振り向いて手を振った。
走りゆく馬車の背に、サティーは小さく手を振り続けた。
その側には、アリウスが寄り添うように立っている。
「アリウス様、あの二人、お似合いですよね」
「・・・・・」
サティーは、蒼い瞳でアリウスを見上げた。
アリウスの双眸は遠くをみるばかりである。
庭にはバラが咲き乱れ、ほのかな香りが鼻孔をくすぐる。
白いドレーパリがふたつ、穏やかな風に乗り、まるで紅いバラの海を漂っているようにみえた。
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