ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






 第二章 エクバタナの春<3>


 エクバタナの春は、今まさに盛りを迎えようとしている。
アリウスの執務室は王宮にある。又、週に二度行うギリシャ文化の講義も、その中にある講堂で行う。
 アリウス邸より王宮までは、馬車にて通うのが常だ。しかし、歩いてもそう遠くないので、散歩がてらに歩くこともしばしばある。
 その日も、天気もよく爽やかな朝だった。陽もだいぶ、あがりはじめたころ、アリウスは石畳の道を執務室へと歩いていた。
 アリウスの脳裏に去来する空想は、彼の歩調にあわせるかのように、心地よくはずんでいる。彼の心がなごむ、貴重な時間であった。 
 道に沿った建物のベランダには、一様に紅バラの鉢が並べてあり、美しさを競う品評会の趣である。
 今や、エクバタナは、人口三十数万をかかえる国際都市である。あらゆる民族が流入しており、あらゆる衣服が眼につく。
 なかでも、ギリシャ風のドレーパリーは一種の流行ともいえ、多くの人々が身に着けていた。
 しかし、アリウスは際だっていた。スラリとした姿態と、物腰は他の追従を許さない凛とした美しさをかもし出していた。何よりも、プラチナブロンドの毛髪は、まず見かけることはない。
道を行き交う人々のなかに、挨拶をする者も多かった。そのつど、アリウスは黙ったまま、軽く会釈を返した。
 薄水色の双眸は、はるか先の通りを見つめ歩き続けた。
その時、はるか先の道を、白いドレーパリーの女性が横切ったのを、アリウスの瞳はとらえた。
 『あれは、サティー・・・・・なぜ、今、ここに・・・・・?』

 一瞬にしてアリウスは、今まで漂っていた空想の世界から、現実に引き戻された。
 『間違いない! サティーだ!』
 彼は、自らの直感に確信をもった。
 女性は、二人の男に挟まれるように、建物の中に入っていった。
 決して、無理矢理という感じではないが、その姿には不安を感じさせるものがあった。 何かにせかされるように、急ぎ足にその建物の前まで行くと、アリウスは立ち止った。
灰色にくすんだ、大きな建物である。倉庫であることは、すぐにわかった。
 間口は広く、大きな木製の入り口が、わずかに開いている。
 古びた頑丈な扉に、アリウスの細い指がのび、端を掴むと手前に引いた。
 ギーと小さな音をたて、扉は思ったより楽に動いた。
 扉が開く音に、一瞬ひるんだアリウスだったが、すぐに、白いドレーパリーを踊らせ、彼は建物の中に忍び込んだ。
 乾いた匂いが充ちた薄暗い巨大な空間に、麻の袋が天井近くまで、数多く積み重ねられていた。
アリウスは、白い指で麻袋をなぞるように、麻袋のあいだを、奥に進んでいった。
チクチク麻が指を刺すように感ずる。袋の中身は小麦であるらしい。
 奥行がずいぶんある建物に、窓は上の方に、わずかあるだけだ。暗さに眼が慣れるまでは歩く足下がおぼつかない。
 『なぜ、こんなところに、サティーが・・・・・?』

 「いいかげんにして下さい!」
 サティーの声だ!
 奥の方から聞こえてきた。アリウスは身を屈めて進んだ。
薄暗いなかで、灯籠の灯が揺れていた。サティーは椅子に座っている。男が二人その前に跪いている。
 「私は、今の生活に満足しています。私の前に顔を出さないで下さい」
 「サティー様、これは貴方だけの問題ではありません。大儀の問題です」
 「私は、一人の女・・・・・ただそれだけなのに・・・・・」
 アリウスは身を固くして、麻袋に寄りかかりながら、漏れ伝わる話しに耳を澄ませた。
 (大丈夫だ! どうやら、サティーの身に危険が及ぶことは、なさそうだ)
 アリウスは安堵感に胸をなで下ろした。しかし、彼はまだ気づいていない、聞いている彼自身が危険のまっただ中に陥ったことを。
 「サティー様、この地上に、アッシリア皇帝の血を引く者は、あなた様、ただ、おひとりであられることを、どうか、どうか・・・・・」
 「アッシリアは滅びました。そして、私も・・・・・」
 困惑した、サティーの声である。 
 アリウスは息を殺し、話しを聞くことに意識を集中した。 
 どうやら、アッシリア皇帝の血筋のもとに、残党を集結し旗を揚げ、かつての栄光を取り戻す企みが進んでいるらしい。
 その企みに、一枚噛んでいるのが、リディア王ダイダロスであるという。
 (愚かな者たちよ、ダイダロスの手駒にされ、屑のように捨てられるのが、解らぬらしい。つまらぬ幻夢に、翻弄されるのか? それにしても、サティーが、アッシリアの皇族であったとは・・・・・!)

 「ニネベのあの夜、私は一度死んだのです。宮廷に押し込んできたバビロニア兵に犯されました。猛々しい狂気の眼をした三人の兵に、終わることのない、凌辱の嵐を受け続けました。今でも夢でうなされることがあります」
 サティーの声は震えていた。思い出したくない、しかし、云うべきだと煩悶に苦しむような呟き声であった。 
 「その嵐から、私を救ってくれたのが、パルコス閣下でした。そして、生まれ変わった私が、今ここにいるのです。私が皇帝の血筋であることは、パルコス様、アリウス様をはじめ、誰も知りません。お願いです、お願いですから、そっとしておいては戴けませんか?」
 サティーは、その憂いを含んだ瞳で懇願するように訴えている。
 「高貴な、血筋・・・・・それを絶やすことは罪悪です。今でも、数十万の人々が血筋の前に跪くでしょう。我らのように・・・・・」
 悲痛な声で、男は途切れ、途切れに答えた。
 「それこそが、悲劇ではありませんか? 再びニネベの殺戮を、何処で、どの人達の身の上に、繰り返すのですか? 私は、自らの血に戦慄を覚えます」
 耳をそばだてて聞いている、アリウスにとっては、『血に戦慄を覚える』という言葉は、別の意味で、身につまされる話しであった。
 「私は怖いのです。私の血筋が残るのが、そして、新たな悲劇が生まれるのが。あなた達にとって、血筋がすべてというなら、今この場から、私を拐かしなさい。そして、私は自害いたします。それで、一つの悲劇が終わるでしょう」
 サティーは必死に説得を続けている。
 「私が、穏やかで安逸な生活を送ることは、或いは罪悪なのかもしれません。あなた方が、心底そう思われるのであれば、自らの身の処し方は・・・・・覚悟はあります」

「サティー様、決して我々は・・・・・あなた様の幸せこそが我らの望みなのです」
 二人の男は苦しそうに、俯きながら訴え続ける。
 「しかし、しかし、数十万の人々の望みが、アッシリア再興にあることもこれまた事実なのです。苦しく虐げられた生活の中、生きる希望でもあるのです」
 沈鬱な話しは、長く続いた。
 人は生ある限り、生き続ける。
 悲劇は、人が生きること自体にこそある。アリウスは自らの過去を振り返り、そう思わざるをえなかった。
 救い、救済の姿は何故に、その片鱗すら顕わさないのだろうか? 
 彼らの、嘆きと説得の会話は続いている。
 現時点では、サティーの身に、危険が及ぶ恐れがないと判断したアリウスは、しばらくして、その場を後にした。 
 眼はすっかり、薄暗闇になれていた。入る時と異なり歩を進めるのは楽であった。
 通路を塞ぐように積み上げられた、麻袋の小さな棘が、手の甲をチキチク刺すことはあったが。


 扉の隙間を透して外の光が、糸のように射し込んでいる。
 出口にたどり着いたらしい。
 アリウスは木製の大きな扉を、内側から音をたてないように、ゆっくり押し開いた。
 眩しい光線が、薄水色の双眸に飛び込んできた。
 眼底の奥に刺すような痛みが走った。
 痛みが遠のき、瞳が光に慣れるのに、しばらくの時間を必要とした。 
 入り口の扉から左右を窺うと、人通りの絶えない道に身を滑らし、何事もなかったかのように、アリウスは宮殿へと歩き出した。
 『今、聞いた話しは、誰にもいう必要はないな』
 アリウスは気づいていない。
 建物の影に二人の男がいたことを、そして、二人の男が身を隠すように、あとを付けていることを。
 「おい、まずいぞ。中から出てきたと言うことは・・・・・」
 「いつ入ったんだ?」
 「話しは、おそらくすべて聞かれたに違いない」
 「話しが漏れれば、我らは終いだ。しかも、アリウス・・・・・」
 「アリウスでも同じだ、殺るしかない」
 「殺ろう!」
 二人の男は、腰の半月刀に手をやり、歩く速度を速めた。
 一方、アリウスの意識は、サティーの漏らした言葉『血に戦慄を覚える』にとらわれ続けていた。
 思い出したくない、。過去に繋がる、恐怖の記憶であった。 
 血は、紅薔薇の色である。
 アリウスの網膜は、セピア色の風景に、微細な紅薔薇が次々に飛び交う景色をとらえていた。
 挨拶をする人には、機械的に会釈を返してはいるが、記憶に残ることは無かろう。外見からは、まったく解らないが、あたかも夢遊病者が歩くのと、なんら変わるところはない。

急接近した二人は、背後より挟み込むような位置を取った。
 男たちは目配せした。
 前方に、道の交差する地点がある。その、一瞬、歩く人々が立ち止まるところを、襲撃場所にしたらしい。
 その場所が、すぐそばに近づいた。
男たちは、半月刀の柄を握りまさに抜こうとした。
その時、まさにその時、黒ずくめの精悍な男が、襲撃者の背後に近づいたと思った瞬間、ものも言わず、一人の男がその場に崩れた。
 精悍な男は、すかさず、もう一人に駆け寄ると同じ行動をとった。
 道には男が二人、眠るように横たわっている。
 人々が異変に気づくのには、しばらくの時間を必要とした。 
 暗殺者は後頭部より、太く長い針で、正確に延髄を破壊したようだ。
 なみの技術ではない。暗殺者として、相当な訓練を受けた者であることは間違いない。
 黒ずくめの精悍な暗殺者は、何ごともなかったように、アリウスの側を通り抜けると、何処ともなく立ち去っていった。
 男の右の頬には深い傷が刻まれていた。


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