ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






 第二章 エクバタナの春<4>


 アリウスの執務室は宮殿の三階にある。広場に面し採光は素晴らしくよい。
 広場を、右手に見る窓の側に大きな机がある。椅子に腰掛け姿勢を正したアリウスは、一心に書類に眼を通していた。
 部屋には、飾りというものが一つもない。あくまで機能的であり、無駄を排除するのはアリウスの好みであろう。
 ある種の美意識と言えなくもない。  
 他にあるものといえば、本棚と来客用の椅子が四脚、そして小さなテーブルが所在なさげに置かれていた。
 アリウスは二時間近く姿勢を崩していない。動きといえば、ときおり羽根ペンを動かす
ために、右手が動くていどである。
 静寂を破るようにノックの音が響いた。

 「おっ、生真面目に執務中か!」
 無遠慮に髭面の大男がドアを開け入ってきた。白いドレーパリーを身に羽織っているが優雅さはなく、鍛えられた強靱さにあふれている。
葡萄酒とグラスを二つ手に持ち、部屋の隅にある長椅子にドスンとばかりに腰を降ろした。毎度のことであるが、椅子が哀れである。
 そして、これまた、音をたて小さなテーブルの上に葡萄酒とグラスを置いた。
 男は、パルコスである。
 「おい、すこし相手をしてくれい」
 アリウスは、静かに書類を閉じると立ち上がった。そして、パルコスの向かいの椅子まで歩くと、優雅に腰を降ろした。
 「流石に、さまになるな。その白いフワフワした衣服。わしは、どうにも気に入らない。高官は、宮殿内では必ず着用という決まりが、出来たらしいが・・・・・」
 そう云いながら、パルコスは、武骨な指で陶器の蓋をとり、自ら二つのグラスに葡萄酒を注いだ。
 「これは旨いぞ!」
 「いただきましょう」
 アリウスとパルコスの初対面は、リディア王国の首都サルデスであったが、いらい妙に気が合う。
アリウスはパルコスの側にいると、気持ちが安らぐのだ。
 安心すると云ったほうが適切かも知れない。

 グラスを掲げると、二人はゆっくり葡萄酒を口に含んだ。
 「御用のおもむきは?」
 アリウスの言葉は短く端的である。
 「もう少し云いようはないのか? 確かに用があって来たんだが、それじゃあ、あまりにも素っ気なさ過ぎるというもんだ。旨い葡萄酒だ、どこで取れたものだ、ぐらい言ってみろよ」
 葡萄酒をもう一口、含むとアリウスは、
 「旨い葡萄酒だ。どこ産ですか?」
 「もう、参ったな! お前ときたら。イオニア産だよ。ところで、今日来たのは他でもない、ギリシャの重装歩兵について、いささか尋ねたいことがあるのだ」
 「私に・・・・・軍事に関して・・・・・?」
 「貴殿も承知のごとく、我が軍は弓箭隊にその特徴をもつ、新バビロニアは騎馬隊、エジプトは戦車隊、リディアは槍騎兵・・・・・それぞれ、長所があり我が軍も、騎兵、戦車、槍騎兵をそれぞれ持っている。他国も同じことが言える」
 アリウスも、話しに興味を感じてきたようである。
 「・・・・・続けて、下さい」
 パルコスは太い腕を延ばしグラスをつかんだ。
 そして、葡萄酒を一気にあおると続けた。
「ところが重装歩兵については、どの国にもない。わずかに、戦闘を行った経験を持つ
リディアにその情報がある程度だ」

 アリウスは、パルコスの話しを聞きながら、ゆっくり右手でグラスを傾けた。
 しかし、薄水色の双眸は相手の眼から離さない。左手の細い指で、白金の髪を後ろに梳くと、静かに話し始めた。
 「閣下、賢明なあなたのことです。もう全ての情報を掴み、戦術も組み立てておられることでしょう。あなたがあえて、私に聞きたいことがあるとすれば、それは単なる装備、戦術の問題ではないはずだ・・・・・」
 話しを聞く、パルコスの眼が輝いた。
 「と、申すと」
 「重装歩兵成立の背景をなす、社会制度を含めた思想全体のことと察します。もしそうであるなら、閣下は、最もそれに相応しい人物、即ち私に質問したことになる」
 驕りではない。確かな知識に裏打ちされた自信である。
 メディア広しといえども、この質問の解答者としては、アリウスほど適切な人物は、まず見いだせないであろう。
 「さすがだ、アリウス! 貴殿の言うとおりである。時間をかけて思うところを述べてはくれまいか! 葡萄酒もまだ、開けたばかりだしな」

 「閣下、まずあなたのギリシャの重装歩兵に対する、知識について述べていただけますか、それに返答するという形式で、論を進めようと思うが、いかがでしょう?」
 「なるほど・・・・・ギリシャ式、対話形式による論理展開か! 面白い、それでいこう」
 パルコスは気に入ったらしく、すぐに核心に入った。
 「重装歩兵の装備だが、青銅製の鎧、兜、臑当てをつけ、丸盾と、剣もしくは、槍をもって装備としている。そして、あくまで戦闘は歩兵を主力に戦う。馬は移動にしか用いない。よって、ファランクスと呼ばれる戦術が得意である」
 アリウスは、折り曲げた左手の甲に右肘を乗せ、右手の親指と人差し指を、軽く顎にあてた姿勢でパルコスの話しを聞いている。
 あえて、ポーズを取っているわけではないが、いちいち、さまになるところが憎い。
 ファランクス戦術とは通常、槍を携え肩を並べて、密集した重装歩兵の横列を、前後八列に並べ、長大な陣列をもって敵陣を攻撃する戦術である。

 パルコスは、葡萄酒を一口あおると、さらにつづけた。
 「ファランクス戦術は、平地での戦いには有利であるが、山地での戦いには適していない。さらに、機動力に劣る。戦う際はその弱点をつく必要がある」
 話しが一区切りついたところで、アルウスは姿勢を崩すことなく、静かに話しはじめた。
 「重装歩兵の最大の特徴は、ポリスの市民によって構成されているという点にあります。ポリスは通常、二〜五万人の市民と、それに三〜五倍になる奴隷とで構成されている。例えば十万人のポリスがあったとすると、二万人の自由市民と、八万人の奴隷ということになります」
 「ほー、そんなに奴隷が多いのか? 戦闘員が市民だとすると、奴隷は、なにをするのだ・・・・・?」
 「奴隷の仕事は多岐にわたります。農業労働、鉱山労働、家事労働、手工業、商業・・・・・家庭教師から書記にまでいたる。つまり、生産、流通、サービスにかかわる労働のすべては、奴隷によって賄われていると考えて、まず間違いはない。では、自由市民の役割は、何でありましょう・・・・・?」
 パルコスは、身を乗り出して話しに耳を傾けている。
 「それで、市民の軍隊か・・・・・」
 「さようです、市民の役割は政治、軍事、文化の方面にたいする活動です。自らのポリスを護ることは、この上もない崇高な義務である」
 「兵の戦闘は、強いられたものではなく、命を捧げる崇高な義務と申すか?」
 「いかにも、したがって個人は、高価な装備を自ら用意する。国家が用意することは、財政的に不可能な話しだ。さらに、ファランクス戦術のような、命を的にして戦うことなぞ、共同体を護るという、連帯感なくして成立するものではない」
 パルコスは、思いをめぐらしている。
 自らの、いままで軍事に携わってきた年月を・・・・・行動を・・・・・
 「了解いたした。それでこそリディアのような大国を相手に、イオニアの小さなポリスが、一歩も引かないわけだ。貴殿の出身ポリスであるミレトスも・・・・・確かに我が軍は、傭兵、被征服民、奴隷が主体であり、その点に関しては全く反対か・・・・・」

 アリウスは、顎から指を離し葡萄酒のグラスに手を延ばした。
 そして、ゆっくりと足を組み直した。
 パルコスは、自らのグラスに葡萄酒を入れると同時に、アリウスのグラスにも、それを注いだ。
 適度なアルコールは、脳の働きを活発にする。
 そして、舌を滑らかにする作用がたしかにある。
 「閣下、重装歩兵のような高額な装備は、財政上、国家が兵隊にもれなく提供するというわけにはいかないでしょう。一人あたり三〜五人の奴隷を所有する裕福な市民によって初めて可能になる。さらに、重装歩兵は明らかに機動力におとり、共同体意識なくしては成立しないため、自己防衛のための軍隊であります。征服戦、広大な領土での展開は無理だと判断するのが、当然の帰結だと考えます」
 「なるほど、重装歩兵とは、そのようなものであったか」
 アリウスとパルコスの話しは、一段落した。
 葡萄酒のせいか、アリウスの白い頬は、ほんのり紅がさしている。
 一方、パルコスには、何の変化もみられずグイグイと葡萄酒のグラスをあける。
 この男、底がない。 

 数百年後の話しになるが、重装歩兵による征服戦争は、マケドニアのアレキサンダー大王の出現を待たねばならない。
 重騎兵の出現という、兵器上の革命、それを支える経済力、そして、大王のカリスマがあって初めて成立した。
 尚、古代ギリシャのおける奴隷制度は、我々が通常おもい浮かべるのとはかなり異なる。
経済制度と考えたほうが、間違いが無かろう。
 つまり生産、流通、サービスに従事している現代人の殆どは、古代ギリシャにおいては、奴隷である。
 奴隷の供給は、戦時捕虜、売買、とあったが大部分は、生殖による自然増に負っていた。
 即ち彼らも結婚し家庭を持っていた。
 古代ギリシャ人にとっての、奴隷に対する意識は、現代における職業差別に近いと思える。
 よって、奴隷より市民に昇格する例も珍しくはなく、その逆に、債務不履行による、市民から奴隷への没落もあった。
 一方、メディア王国を含めた古代オリエント世界においては、奴隷は数も少なく、経済基盤が、奴隷制度に拠っていたわけではなく、むしろ例外的な存在であった。
 大部分は王宮、権力者、裕福な商人等の、家事奴隷、性愛奴隷であり、極端にいえば、家畜に対する意識に近かったとも考えられる。
 もっとも、軍事に従事する奴隷の戦闘員は、職業差別の範疇に入り、ギリシャにおいてと、同じ扱いであっただろう。


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