第二章 エクバタナの春<5>
葡萄酒がかなり効いてきたらしい。
パルコスとアリウスの会話はおもわぬところへ飛び火した。
「ネストルから聞いたぞ。先日、貴殿の住まいへ尋ねたときの話しを」
「何のことでしょう?」
「昼食のときの会話だ。ネストルとヤクシーは、どうも互いに満更でもないらしい。貴殿も承知のごとく、ヤクシーは女房殿の姪だ。その、女房のお気に入りのネストルが相手だけに、貴殿のところへ、行儀見習いに行かせて良かったと、心底あやつ喜んでおるわ」
「それは、結構なことです」
「それにつけても、対人関係において、一分の隙も見せない貴殿が、二人の女には襤褸をだしおる。警戒心がなくなると、そうなるのか? それとも他に理由でもあるのか?」
「理由と云われましても・・・・・襤褸を出した覚えはございません」
「まあ、それは良い。ところで、サティー、あの女をどう思う?」
一瞬、アリウスはドキリとした。
(アッシリアの皇女のことか?)
しかし、彼は、素知らぬふうを装った。
「どう思うと、申されますと?」
「いい女だと思うが、まだ情けをかけておらぬらしいな?」
「そのつもりは、ございません」
「そのつもりで、わしは世話をしたのだ。間違いない、あれはいい女だ! 一寸とした手違いで、わしの女にするわけに、いかなくなった。残念である」
「と、申しますと?」
「実は、あのサティーと申す女。『ニネベ』でわしが助けたのじゃ、そのまま何処かに囲えばよかったものを、我が家に連れていってしまった。女房が気の毒がり同情したのはいいが、意気投合したのにはまいった! おかげで、どうすることも出来なくなったわい。
なんと言おうと、この世で女房より怖いものはない」
あの、鬼のパルコスが首をすくめた。
「閣下のお気に召すまま、ご随意に」
「それが、出来ぬと申しておるのじゃ!」
「では、諦めてはいかが?」
「サティーの申したとおりだ! 貴殿は雑談が出来ぬらしい。お主、少し変んだぞ!」
「かもしれませぬ」
アリウスは澄ましたものである。
翌日のことである。
エクバタナの春は、穏やかにバラの香りを運んでくれていた。
宮殿の講堂にて、アリウスの講義が行われている。
百人は楽に収容できる大きな部屋であった。正面に講義机と椅子が置かれており、向かって右手には、一段高くなったところに、玉座が設けられている。
キュアクサレス国王もしばしば玉座に座り講義を聴く。
今日も、長い顎髭を撫で、神妙な顔で講義を聴いている。
広い部屋の一部は、フェルトが敷かれていた。その上に数十脚の椅子が用意されており、腰掛けている今日の聴衆は、四十人近くを数えた。
眼を輝かせて拝聴している、サティーと、ヤクシーの顔もみえる。
概して、遊牧民を起源とするメディア人のあいだでは、女性の地位は高い。講義を聴いている婦人は十数人をかぞえた。
講師用の、大きな椅子に腰掛けたアリウスは、パピルス紙を拡げ、ホメロスのイリアスの講義をおこなっている。
室内には咳払いの音もない。
窓は、大きく開け放たれており、採光は部屋の隅々におよんでいる。
アリウスは、少し眩しそうに顔をしかめた。
プラチナブロンドの髪が、光を照り返した。
皆の視線は彼に集中している。
「憤りを歌ってくれ、詩の女神よ、ペーレウスの子アキレウスの呪わしいその憤りこそ数知れぬ苦しみをアカイア勢に与え、またたくさんな雄々しい勇士らの魂を冥府へと送ってやったものである・・・・・・・・・・・・・・・」
イリアスの一節をアリウスは正確なギリシャ語で吟じている。
アリウスの纏う雰囲気は常に静寂であった。
彼の胸の内にある、狂わしいほどの体温は、決して人に伝わることはない。
「・・・・・よって、何度も云うが、宮殿の造営と市街地の整備は、いますぐ手を付けるべきだ。ウラノス殿、貴殿はどのようにお考えか、意見を賜りたい」
執政官オロデスは、興奮をおさえるように、少し言葉を震わせながらウラノスに問いかけた。四十代半ばで、黒い頭髪と顎髭を蓄えている。
褐色の眼は鋭い光をはなち、その光は彼の野望を顕わしているかに見える。
宮殿の小会議室の中には、メディア国の最高首脳が集まっていた。
キュアクサレス国王、パルコス首席執政官、内政、財政担当執政官オロデス、外交、民族担当執政官フラーテス、軍事担当執政官ウラノス、そして、国王補佐官アリウス。
この六人が、メディア国を実質的に動かしている。
来年になれば、アスデュアゲス王子も二十歳になり、この席に加わる予定である
国王の命により、この場に集う六人はギリシャ風ドレーパリーを身に着けていた。
小会議室ながら、内装は贅をこらしたものである。
六人の座っている椅子、そして会議用のテーブルも流麗な曲線をもちながら、重厚な趣を感じさせるものがあった。
「みどもは、軍人であり行政のことは、よく解らぬ」
ウラノス老将軍は、軍人らしいガッシリした体躯を揺らすと、短い白髪を掻き上げ、実直そうに答えた。
彼は先代のメディア王より仕えている忠臣であり、篤実な性格は誰もが認めるところである。
会議は紛糾している。アリウスとオロデスが対立、フラーデスがオロデス側についている図式だ。
フラーデスは五十代であろうか。頭髪は薄く、頬と顎の皮膚はたるんでおり、肥満した身体を椅子のうえにのせていた。
肉に埋もれた小さな両眼は、狡そうにあたりをうかがっている。
「オロデス殿、国内の通信網の確保こそが、我が国にとっての急務であることは、先ほど述べたとおりであります。エクバタナ市街の整備は急ぐ必要はありません」
姿勢を崩さず、冷静にアリウスはオロデスの提案を論破する。
「しかし、アリウス殿、外国からの賓客があった場合、リディア、新バビロニアの都に比べ見劣りがする。外交を預かるものとしてこれでは困る。国家の体面、これもまた重要なものである」
フラーデスの発言は、暗に国王に、おもねるものであった。
「確かに我がエクバタナは、リディアの都サルデスに比べ見劣りがする」
サルデス滞在を思い出すかのように、キュアクレサス国王はつぶやいた。
「陛下、我がメディアが、リディアに国力において劣ると思う者は皆無でありましょう。王宮、市街は国力に相応するものであります、国力の充実こそ目指す目標であります。通信網の整備は、まだ端緒に付いたばかりです。急がねばなりませぬ。これを抜きに異民族を包含し、アッシリアを凌ぐ史上未だかってない広大な領土を、維持することはできませぬ」
冷静に述べ続ける、アリウス。
しかし、気持ちの上では切迫していた。
(国王より命を受けて、通信網の確立を急ぐ最高責任者がオロデス自身ではないか!
その責任者が、通信網を後にせよとは、どういうことであろうか!)
オロデスの提案は、確かにキュアクサレス国王の、俗気を多分にもつ性格をふまえたものではあった。
しかし、新たな宮殿の造営、市街の整備計画は、オロデス自身の思惑と、野望を満足させる計画を含んでいる弱点があった。
それゆえ、自らの損得を超越した、冷徹なアリウスの論考の前の敵ではない。
オロデスの提案は、フラーデスの賛同を得たものの、国王により却下の採決がなされた。
この会議の間、パルコスは腕を組んだまま、一言の発言もせず黙していた。
会議が終わり、皆が退出したあともパルコスとアリウスは、しばらくその場をはなれなかった。
「アリウス、お主、すこし自重してはどうだ。貴殿の云うことが正論であることは、みな解っておる。それ故にこそ、相手を追いつめるには注意がひつようだ。むやみに敵をつくることはない」
頭脳明晰なこの若者のことが、心配でならぬといった、口調でパルコスは話しかけた。
「閣下、ご配慮のほど痛み入ります。私も敢えて敵を作ろうとしている訳ではございません。ただ淡々と考えを述べただけです」
「冷静な論述はそれ故にこそ、相手を激怒させ傷つけることがある。お主は彼らと拠って立つ地点を異にしているかに、わしには見えるわい。精神の異邦人か・・・・・」
「私は、この国に招かれ国家行政に参画しているものにございます。自らの任をはたすのみです。そのほかに存念はございません」
アリウスは、つねに正確に答えることをむねとしている。
紛糾する会議の間、彼の涼やかな双眸は乱れることはなかった。
「お主、重大な欠陥があるごとく、わしには思えるぞ」
「何でござりましょう?」
「身の危険に対する感覚の欠如だ。いいか、わしの云うことを聞け! 相手の心を読み、それなりの配慮をしろ」
「配慮いたしましょう」
宮殿の小会議室における、二人の会話はなおしばらく続いた。
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