第二章 エクバタナの春<6>
アリウスは会談を終えると、帰途についた。
午後の予定はなく、会談の疲れを癒すようにテラスの長椅子のうえで、横になり、心地よいバラの香りを含んだ春風に身をゆだねていた。
軽く眼をとじた顔のうえを、プラチナブロンドの髪が穏やかに揺れる。
アリウスの白いドレーパリーのうえに、真っ赤なバラが数本、そっとおかれた。
アリウスは気配を感じ、うっすらと眼を開けた。
彼の眼がとらえたのは、長い金髪に、憂いをおびた碧眼の美女の姿であった。
「サティーか・・・・・何用だ?」
「用がなければいけませぬか? 紅い薔薇はアリウス様にお似合いですよ」
サティーには珍しく、くだけた物言いであった。
彼女の碧眼が微笑んだように見えた。
「いや、バラが似合うのは君のほうだ。それより、何か云いたいことがあるのでは? その椅子に掛けてはどうだ」
アリウスは、眼で彼の左横にある椅子をしめした。
「では、失礼させて戴きます」
バラを一本もったまま、サティーは、ゆっくりドレーパリーの裾をひるがえすと、浅く腰を降ろした。
アリウスには、サティーが何か自分に、云いたいことがあるように思えた。
「サティー、遠慮することはない。云いなさい」
「はいッ、じつは昨日、市場で不思議なご老人に、お会いしました。果物、野菜など食品を商う場所の側に、石造りの階段になった広場があるのを、ご存じでしょうか?」
「うん、知っているよ、私もしばしば、そこで休息をとることがある。それで?」
市場を所在なげに歩くことが、アリウスにはよくあるのだ。
「休息を取ろうと、座る場所を探していたとき、『娘さん』と、声を掛けられました。
私が振り向くと、長い白髪に、胸までとどく白い顎髭を蓄えた、上品なご老人が座っておられました。『娘さん、何故にそのような悲しそうな眼をしておられるのじゃな?』と、おっしゃいます。私、なんといっていいか、答えようが有りませんでしたわ」
そのときの、情景を思い出すようにサティーは話し出した。
アリウスは、眼で続けるようにうながす。
「とても、やさしい眼をされた方でした。紅いバラが好きだとか、おいしい果物の話しをしました。ご老人はニコニコ微笑んで、聞くばかりなのですが、話している私がすごく楽になっていくのです。取り留めのないことを、ずいぶん長く話したような気がします。
お名前を伺ったところ『ゾロアスターと云います』と、申されました」
「ゾロアスターと申したのか!」
アリウスには珍しく、すこし驚いた声であった。
「アリウス様、ご存知なのですか?」
「ああ、聞き知っている。続けなさい」
「話しは、それで終わりです。ご老人もお付きの人も、麻の粗末な衣でしたが、とても気品にあふれた、ご一行様でした。『二〜三日この地に留まるから、よろしかったらまたいらっしゃい』と云われました。あすまた行こうと思います」
サティーの話しは一段落した。
「サティー、あすは私も一緒に行こうと思うがどうだろう?」
「えッ、アリウス様がお会いしてみたいと、おっしゃるのですか? まったく構わないと思います。ご一緒下されば、私にとっても嬉しいことです」
サティーの憂いを含んだ瞳が輝いた。アリウスと二人で出かけることなど、滅多にないことである。
しかし、一人の老人にアリウスの心が動いたことは、サティーにとっては、小さな驚きであったに違いない。
アリウスが人に興味を示すのは希なことである。
「パルコス閣下、ネストル殿、そのほか数人から、ゾロアスターという聖者のことは、聞いていた。世間に流布している教説に、私は興味を感じている。一神教というまったく新しい概念らしい・・・・・・・・・・」
サティーの語るところによると、七十歳前後の老人らしい。ゾロアスターの生存年代については諸説あるが、ゾロアスター教の伝承がもっとも妥当といわれている。
その説によると、彼が七十歳ならば、このエクバタナの春は、紀元前五百七十年ということになる。
昼下がりの市場は、活気にあふれていた。
物売りの声がほうぼうから聞こえてくる。
「いよーッ、素敵なご両人、プルーンが安いよ!」
「このリンゴ、みてみなよ!」
歩をすすめるたびに声が掛かかった。
並んで歩く、アリウスとサティーは人目を引かずにはおかない。
白いドレーパリーのお揃いに、それぞれ、白金と金髪の髪をなびかせる、まず眼にすることはないほどの、美男、美女のカップルである。
サテイーは、紅いバラの花束を胸に抱いていた。
さすがに、アリウスを知る者も多い。彼らは、軽く会釈をした。
アリウスもその都度、黙って会釈をかえした。
サティーの顔は輝いている。憂いを含んだ碧眼も、今日は生気が満ち、光をはなっているかのごとく見えた。
麻のテントを張った小売店が立ち並んでいる。
店先には色とりどりの野菜、果物が山積になり、売り台からあふれんばかりだ。
身振り手振りよろしく、値段交渉に口泡を飛ばす人々も多い。
サティーは、立ち止まり一軒一軒のぞいて見たいらしい素振りをするが、アリウスは前を向いたまま、歩調すら変えない。
黙して語らないアリウスに、サティーは声をかけた。
「アリウス様、なにをお考えなのですか?」
「ご老人のことである」
アリウスは短く答えた。
信仰こそ、広大なメディアの地に住む人々を連帯感で結ぶ絆になるのではなかろうか?
メディアの伝統的な祭儀を司る「マゴイ」という司祭集団にはたして、その力があるのだろうか?
アリウスの脳裏に色々な考えが浮かんでは消えた。
「今日も、あの場所にいらっしゃるといいのですが?」
「もし、私と縁があるのならば、おられるはずである」
会話が続かない。ヤクシーの云う如く、アリウスは談笑が出来ないらしい。
老人はいた。昨日と同じ場所に杖をつき、石段に腰をかけている。
三人の付き人らしき、男もいる。
アリウスとサティーの、近づく姿に気づかぬ風に、静かなたたずまいを崩さない。
「こんにちは、昨日はありがとうございました。今日は私の主を同伴いたしました。よろしいでしょうか?」
サティーは老人に駆け寄ると、会釈をし、挨拶をした。
「やー、昨日の娘さん。ご遠慮なくどうぞ、どうぞ」
そう言うと、老人ゾロアスターは、アリウスを見上げた。
澄んだ、おだやかな褐色の眼である。
「アリウスと申します。サティーより聞きおよび、お話ししたいと参上いたしました」
アリウスは会釈をした。
付き人の三人も立ち上がり会釈をかえした。いずれも、痩身で、麻の貫頭衣を身に纏っている。
ゾロアスターは座ったままである。しかし、尊大な感じはまったくなく、穏やかな老人という風情である。
「立っての、話しもなんでしょう。どうぞお掛け下さい」
枯れて、乾いた声であった。
(この老人が、宗教界に大革命を起こした、ゾロアスターであるか? なんと、穏やかそうな人格にみえることか)
そう思いながら、アリウスは石段に腰をおろした。
サティーは紅いバラの花束をゾロアスターに手渡し、アリウスの後ろに腰をおろした。
「これは、これは、ありがたいことです。ほんとに美しい花ですね」
ゾロアスターは、アリウスの顔を正面に見据え、話しかけた。
「アリウス殿、私に尋ねたいことがあるようですね。何でしょうか?」
アリウスもゾロアスターの褐色の瞳を見つめた。
「おそれいります。初対面から、不躾な質問をさせて戴いてよろしいものでしょうか?」
「まったく気にする必要はありませんよ。質問に答えることが、私の定めとも、言えるでしょうから」
やさしく、張りのある声である。
声だけ聞けば、アリウスには、とても老人とは思えないはずである。
「ゾロアスター様は、どのように天啓を授かり。いかにして、壮大なる教学を打ち立てられ、宗教上の大革命をおこされたのでしょうか?」
「これはまた、大変な問いですな。今の質問で、貴殿の我が宗にたいする理解度が、だいたい解ります。かなり深く理解されておられるようですな。エクバタナで調べられたのですかな?」
「友人から、多少は聞いておりますが、きちんと伺うのは、初めてと言えるでしょう。しかも、ゾロアスター様、ご自身からとは・・・・・光栄です」
アリウスは、老人に対すると、自然に頭が垂れていく自分を心地よく感じていた。
「・・・・・私は三十歳のとき、ウルミア湖に近いサラバンの山頂で天啓をうけました。以来、四十年の歳月が流れております。私の教えが、メディア、ペルシャ、スキタイと広範囲に広がりました。そして、時と共に変容していきました。エクバタナで流布されている教学と私の教えとは多少異なります。私を教祖と仰いでいるにもかかわらず・・・・・」
ゾロアスターは少し寂しそうな眼をした。
アリウスは思った。
この老人が、本当にあの名高いゾロアスターなのか?
精神界の革命家であり、既成の神々に対して戦い続けたとされる、教祖なのか?
枯れた、高潔な人格が目の前に座っている。
迷いを、吹き払うようにアリウスは云った。
「老師、天啓とはいかなるものでしょうか?」
ゾロアスターはアリウスの薄水色の瞳に視点を合わせたまま動かさない。
アリウスもまた、老師の褐色の瞳から眼をそらさない。
ただ、彼のプラチナブロンドの髪だけが、風になびいている。
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