ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






 第三章 刻まれた記憶


 高原の秋は早足でやってくる。
 夏の強い陽射しがやわらぎ、涼しい風が心地よくアリウスのドレーパリーの裾をゆらす。
 真夏でもアリウスは、汗を掻くことがほとんどない。汗腺の仕組みが人とは少しちがうらしい。熱は対外に放出されることがなく、内に籠もるとでもいうのだろうか。
 しかし、肌をなぜていく初秋の風はここちよいものだった。
 エクバタナの市場は喧噪に溢れていた。物売りの声、人々の往来のざわめきが、風に乗って波のように拡がっていく。
 市場の広場の階段に腰を降ろしたアリウスは、物思いに耽っていた。市場の雑踏のざわめきが、耳に心地よい。
 サティー、ヤクシー、ユイマと四人で買い物に来たのだが、今は、三人と別れ一人になっていた。
 なにが苦手といって、アリウスにとって、女性と買い物をすることほど苦手なものはない。欲しい物があれば買えばよかろうに、なぜああも、ウロウロするのだろうか? 欲しければ買うという極めて単純なことではないか。
 ああだ、こうだ、そのうち返事をするのにも疲れ果て、不愉快になるのが、いつものことである・・・・・。

 今朝方のことであった。
 出仕する必要もなく、珍しくベットで微睡んでいたアリウスは、階下での、でにぎやかな声に起こされた。時に二階にまで響いてくる、明るい声はヤクシーだ。 
 洗面所で、念入りに身繕いをすませると、幾分、頭がハッキリしてきた。そして、華やいだ声のするほうへと、ゆっくり足を向けた。
 サティーとヤクシーとユイマの三人が、楽しそうに歓談している。
 「おはよう」
 さりげなく、挨拶をした。
「おはようございます、アリウス様、いかがなされたのですか?」
 サティーが、微笑みながら挨拶を返した。
「・・・・・何がだね?」
瞬間、サティーが何を言っているのか、分からなかった。
 「いえ、毎朝決まった時間に起きてこられるのに、今朝は何時まで経っても起きてこられないので・・・・・心配で見に参りましたところ、おやすみで安心いたしました」
 「そうか、それはすまなかった。昨夜は処理せねばならない案件があり、朝方まで執務を続けていたのだ」
 「根を詰められるのも、程々になさって下さい。ご病気になられては、元も子もありませんわ」
 「サティー、ありがとう。しかし、私が病気になることはない」
 サティーは一瞬、呆れた表情をしたが、ほどなく、彼女には珍しくアリウスに詰め寄った。
 「アリウス様、ご自分のことになると、何の根拠もない自信をお持ちなのは何故ですか?
ご病気にならないという理由を、私の分かるように仰ってください」
 「いや・・・・・それは」
 予期せぬ、サティーの追求の言葉に、アリウスは息を呑んでしまった。しかし、吊り上がったサティーの眼は、直ぐに緩んで微笑み、優しく云った。
 「そんな、困った顔はなさらないで下さい」
 「分かった、身体に気を付けるようにするよ」
 朝から、サティーにやりこめられるとは! アリウスは少し気落ちしている。
 側に控えていたヤクシーが口を挟んだ。
 「アリウス様、今日は良いお天気ですよ!」
 確かに、天気は悪くない。でもそれが何だというのだ?
 「今、話していたんですけど、ユイマ君のぐあいも良くなったし、市場に買い物に行きましょうよ?」
 ヤクシーが、うきうきした声で云った。
 「買い物?」
 「いやなら良いんです。私たちだけで行きますから」
 「そうか、それもよかろう」
 アリウスは、興味なさそうにいった。
アリウス邸に来て以来、人々の善意に囲まれた環境に包まれ、顔色も良くなり、明るさを取り戻したユイマが、遠慮がちにアリウスに話しかけた。
 「アリウス様、ぼくが、お願いしたんです。しばらく外に出ていません。サティーとヤクシーに聞いた、市場とやらに、ぜひ行ってみたいのです。身体はもう何ともありません」
 「そうか・・・・・身体の具合はもうすっかり良いのか?」
 「はい!」 
 「そうか、市場とな、いや実は、私も天気がよいので、出かけたいと思っておった」
 「本当ですかー?」
 ヤクシーはアリウスをのぞき込見ながら云った。声には、明らかに、ひやかしが混じっている。
 「いや、本当である。昼食は市場でどうだ?」
 アリウスは澄ましたものである。
 「市場で昼食? それは良い考えだわ。 ユイマ君、何がいい? 私は絶対、焼き肉!串に刺した羊肉、これがエクバタナの名物よ。美味しいんだから」
 ヤクシーにとって、幸せの第一は、食べることに違いない。ここまでにしておけば良いものを、これで収まらないのがヤクシーだ。
 「アリウス様、お気をつかわれなくても、よろしいんですよ。私たち三人で行きますから、だって、アリウス様は、夜通しお仕事をなさるほど忙しいんですものね」
 「まあ・・・・・忙しくはあるが」
 「お国のため、人々のため頑張ってくださいね」
 ヤクシーの追求の手は緩まない。 
 アリウスは困惑してユイマを見つめた。眼に映るユイマの顔がひどく愛おしく思え、アリウスは、切ない気持ちでいっぱいになってしまう。
 側で、二人のやりとりを、微笑みながら見守っていた、サティーが、アリウスに助け船を出した。 
「ユイマ君に、可愛い衣服も欲しいわね。アリウス様、平和が続き、市場には品物が溢れておりますわ。あらゆる地方から、色々な人々も市場には集まって来ています。庶民の暮らし向きの、視察もかねていかがでしょうか」
 「おお、サティー、実は私もそう考えておった。市場は国の顔である。市場を見ればその国の豊かさ、国政のあり方が一目瞭然である。ヤクシー、御者に馬車の用意をするよう、伝えなさい」
 アリウスの瞳に安堵と明るさが戻った。
 単に出かけるのに、ひと騒動持ち上がるのは、アリウスのせいなのか?

 サティーの云うとおり、市場には人と物が溢れていた。
 平和が訪れ、街道の安全が現実になると、物、人は自然に集まってくる。そして、人々の顔、動きも活気づいたものになる。
富もそれにつられて生み出されるのも必然である。通信、物流の整備は、アリウスが強く主張し、苦労を重ね人々の間を精力的に説いて廻ったことだった。
 市場の殷賑を眼にすると、苦しみが大きかった分だけ、アリウスの感慨も大きいものがあった。
 しかし、メディア国の改革は端緒に付いたばかりだ、アリウスの理想を実現する道は、まだ遠い。処理しなければならない案件は山積みになっている。アリウスは気持ちを引き締めた。
 彼自身にとって、メディアを理想の国にしたいという強い願望は何処から来るのであろうか、単に能力を買われて招聘されただけとは思えぬものがある。アリウス自身も深い動機の潜在部分については、認識していない。 

 香ばしい匂いと、肉を焼く煙が漂って来た。
 食べ物屋が立ち並んでいる一画は、通路が狭く石畳は水で濡れている。人々は肩を触れ合うようにして行き交う。殆どがテント造りの簡易な店舗であった。
もう少し清潔に、ならないものか? 都市の整備か・・・・・と、アリウスが思っていたときである。
「あー、いい匂い。これでなくっちゃね!」
 また、ヤクシーだ。
 小さなテントがけの店舗を、ヤクシーは、一軒づつ覗き、品定めをしながら移動する。
 「美味しいよ! はい、いらっしゃい」
 客引きの声が方々からかかる。
「なに言ってるの、不味そうよ!」
 「お嬢さん、まあ食べてみなよ!」
 ヤクシーの独壇場である。彼女は客引きと掛け合いをするのが、楽しくてならないらしい。
 「どうしたの? みんな早くいらっしゃい」
 と、ヤクシーは後ろを振り返って云った。
他の三人は、ひと塊りになり、ヤクシーと少し距離を取っている。

「痛い! 気をつけなさいよ!」
 店内から、出てきた男の肩が、ヤクシーに当たった。
 「えッ、あッ、ごめんよ」
「唐変木、何処に眼がついているのよ!」
 「可愛いくせに、やけに気の強い女だなァー」
 ブツブツ云いながら、男は去っていった。
 先ほどから、ヤクシーの言動にアリウスは、眉をひそめていた。
 「ヤクシー、強いねー」
 「ユイマ君、任せなさい。あんな、へなちょこ男」
 ユイマは、頼もしげにヤクシーを見つめた。
 「ヤクシー、何処も同じだろう、どこかに決めなさい」
 「アリウス様、どうして、そういうことを云うんですか? 四人で食事なんて滅多にないことだから、慎重に選びましょうよ。ねッ、サティーもそうでしょ?」
 「そうね、外での食事は久しぶりよね! でも、ヤクシー、もう、いい加減に決めましょうよ」
 「サティーが、そういうのなら、しかたないか」
 なぜだか、ヤクシーは、サティーの言うことだけは素直に聞く。
 たとえ、権勢ならぶべき者もない、叔父のパルコスであっても、こうはいかない。







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