第三章 刻まれた記憶<3>
「ちょっと! あれいいんじゃない?」
ヤクシーの指さした方向には、ドレ−パリーがたくさん吊されている。
急に動き出したヤクシーは男にぶつかった。
「なによ! 狭いんだから気をつけなさい!」
あたかも、相手が悪いかのごとく、言い放った。
「どうも、失礼」
鍛えられ頑強そうな身体つきの男は、静かに答えた。
殺気はないが、鋭い目つきをしている。
「いえ、悪いのはこちらです、お許しください。ヤクシー、お詫びしなさい!」
深々、頭を垂れサティーが言った。
「・・・・・ごめんなさい」
「いえ、気になされないで下さい。私も不注意でした」
風体に似合わず、きわめて紳士的である。
「お買い物ですか?」
と、サティーが尋ねた。
「国の妻に土産と思って、来たのですが・・・・・どうにも無粋で、どうしていいやら解らず、途方に暮れていたところです」
「よろしかったら、お手伝いさせて戴きますわ。ねえ、ヤクシー!」
ヤクシーは黙ってうなずいた。
男は、アリウスにそっと耳打ちをした。
「なんとも明るく可愛い女性と、やさしく美しい女性ですな!」
「いささか、手を焼いておる」
ボソッとアリウスが言った。男の顔に、フッと微笑みが走った。
アリウスは、この男に何処かで会った気がした。
(何処だっただろうか?)
男の右頬には、深い傷が刻み込まれていた。
「お国は、どちらですかな? やッ、失礼、余計なことでした」
「いや、かまいませぬ。国元はパルサです」
男は、親しみを込めた表情を隠すことなく、アリウスに言った。
「ほォー、では、ペルシャ。アケメネス家の縁のかたですかな?」
アリウスは、いささか礼を失するごとく、立ち入った質問をした。
(何処かで、会ったと思う?。どうにも気になる男だ。しかし、少なくとも敵ではない気がする)
もちろん、アリウスは、アッシリアの残党に襲われかけた時、命を助けられたことを知るはずがない。さらに、男がアリウスを助けた理由となると、これまた謎である。
「アケメネス家とは、まったく関係のない商人です。主として、綿糸を商っております。綿糸には、いささか自信がありますが、綿布、色柄となるとどうにもいけません」
アリウスは意外な感じがした。男は思った以上に饒舌に話し出したのだ。
「ほー、綿糸ですか。では私の着ておるこの衣類もそうですな。綿糸はどこでとれるのですか?」
アリウスは、男の話に少し興味が湧いてきた。
「パルサの遙か東、峻険な山岳地帯を越え、大河を渡った広大な大地にデカンという高原があると聞きます。そこが、原産地であり、最大の生産地です。そこの綿糸を取り寄せ、あらゆる地域に運び、商いをします。メディア、リディア、バビロニア・・・・・」
そう言うと、男はユイマの頭に手を延ばし、優しく撫でながら話しかけた。
「君は、スラブ民族だな」
ユイマは、男を見上げると黙って頷いた。
「私の日常は、旅から旅の毎日です。あらゆる地方のあらゆる人々と商売をします。顔かたち、雰囲気で何処の人か、だいたい分かります」
男は、アリウスに、自分の言った、あらゆる地域を旅したという話しを、裏付けるように言った。
「私は、何処だと思います?」
ヤクシーが親しげに男に問いかけた。
「そうですね・・・・・あなたは、メディア、それも、典型的なエクバタナ人に見えます」
ヤクシーはつまらなそうな、顔をした。
「わからないのは、あなたです」
そう言うと、男はアリウスを見つめた。
「私は、ミレトスです」
と、アリウスは言った。
「ミレトスを含めて、イオニア地方はよく知っておりますが・・・・・」
男は首をかしげた。アリウスには男の疑問が理解できる。
「ユイマ君、さァー、素敵な服を探しましょう。・・・・・あなたの、奥さんの土産の衣類も選びましょうよ」
サティーは、話しを変えた。
自分の出自に、話しが及ぶのをさけるように。
ああでもない、こうでもないと続く品定めに、アリウスが、いささかうんざりしていたときだった。
「アリウス様、もし退屈でしたら、散歩していらしたらどうでしょう。買い物が終わりましたら、この前、ゾロアスター様とお話しした広場に参りますので」
と言う、サティーの言葉に救われて、アリウスは衣類の山から解放されたのだった。
しばらく、市場の中を探索した。
市場では、あらゆるものが売買されている。動物ではライオンの子までいた。ライオンは勇敢さの象徴であり、かってはアッシリアの軍人に特に好まれていたが、いまでは、メディアの軍人の間で飼うのが流行っていた。
今でこそ、アフリカ以外では見られないが、当時、ライオンはインドのパンジャブ地方にまで分布していた。
ライオンの子が、檻の中で大きな欠伸をした。アリウスは愛でるようにライオンを見つめていた。その時、アリウスと視線が合った、子ライオンが小首を傾げた。
「ライオンに興味がお有りですか?」
不意に背後から声がした。振り返ったアリウスの眼が一人の男を捉えた。やせぎすで背が高く、光沢のある黒い衣を身に着け、表情を抑えた白い顔が、眼が異様な光を放っている。
「貴殿は確か、ラオメドン殿?」
「覚えて戴いて、光栄です。アリウス様」
ラオメドンの顔が緩み、口元がわずかに微笑んでいるが、眼光は変わらない。
「いつぞやは、お世話になりました」
「いや、私の方こそご案内させていただいて光栄に存じます。これを機会にぜひ、宜しくお付き合いのほどを」
「それは、構いませぬが」
アリウスは、拒否することもあるまいと、軽く承諾した。
「先日の、去勢の部屋では、かなりのショックを受けられたと感じましたが?」
と、ラオメドンは探るような眼つきで言った。アリウスは質問も意図を気にしながら、注意深く答えた。
「去勢と云う慣習が有ることは、存じておりました。しかし、どうも私には納得出来かねます。去勢という不自然な習慣が好ましく思えないのです」
「アリウス様、私はマゴイです」
「マゴイ・・・・・」
アリウスはラオメドンの股間の感触を思い出した。マゴイの聖職者、この男も去勢者であったのだ。
「そうです、マゴイです。機会あらば、ゆっくりお話さしあげたいものです。ところで、先ほどまでご一緒されていた少年は、たしか、あの時の少年ですな。なんと綺麗な少年であることでしょう」
アリウスはハッと眼を見開いた。この男は何時から我々を見ていたのだ、何か目的でもあるのかと、アリウスの心に疑惑が湧いてくる。
その時、アリウスの眼が、ラオメドンの後方にひっそり控えている二人を認めた。ラオメドンと同じ光沢のある黒い衣を身に着けた少年と少女だった。
アリウスには、ユイマと同じ年頃に見える。衣は薄く身体の線が見えそうだ。金髪碧眼の美しい少年と少女であったが、顔に表情が殆どない。
「おお、失礼いたしました。この二人はマゴイの見習いです」
ラオメドンの言葉に反応したように、二人は深々と頭をさげた。
「では、あの・・・・・」
「そうです、アリウス様、手術は済ませております」
ラオメドンがニタリと笑った。
少年と少女の表情は動かない。その双眸は現実世界を見ているのだろうか。
アリウスの心が騒ぎはじめた。あの去勢手術を・・・・・燭台の炎に揺れる薄暗い部屋の中、窓よりの青白い光が射し込む。椅子に戒められ引き延ばされた、少年の白い裸身が浮き上がる・・・・・。
アリウスの視線が宙に舞い始めたことを、ラオメドンの眼光は見逃さない。ラオメドンは、口の端を吊り上げ不気味に笑う。
「色々語りたいこともございますが、所要もございますので、今日はこれにて失礼致します」
ラオメドンの抑えた言葉に、アリウスは我に返った。
ラオメドンはそう言い残し妖しく微笑むと、背を向けて立ち去っていく。フラフラ操られたように少年と少女が後に従った。
ラオメドンの背を見つめる、アリウスの心にさらに疑念が拡がっていく。
もしかすると、ラオメドンの目的は、少年と少女をアリウスに会わせることではなかったのか。何故に。
暫くその場に立ち尽くしていたアリウスは、また歩き出した。先ほどとは異なり、爽やかな気分にはとてもなれない。ネットリ絡みつくような疑念に包まれていく。
歩き疲れて、広場に出たが、待ち合わせの場所に三人の姿は見えなかった。
アリウスはラオメドンとの出会いによる、揺さぶられた心を断ち切ろうと、広場に腰をおろし、想いをめぐらせ始めた。
アリウスは自分の世界に引きこもっていく。遠くから市場のざわめきが聞こえてくる。
部屋に一人でいるよりも、自分の世界に閉じこもるには、最適な環境である。
時間が、ゆっくり過ぎていく・・・・・。
頬に傷の有る男との会話で、僅かではあるが、ミレトスという言葉がでた。アリウスにとっては久しぶりに耳にした言葉だ。
アリウスはミレトスの思い出に浸り始めた。エーゲ海が心の襞に浮かんでくる。蒼紫色の海が光を照り返し、アリウスの薄水色の瞳には眩し過ぎる。
人々の顔が次々に浮かんできた。そして、義父、アナクシマンドロスが慈悲深い眼でアリウスを見つめてくれている。微笑むだけで話しかけてはくれない。
「マンドロス様!」
思わず、アリウスの口から溜息まじりの言葉が漏れた。
アリウスはマンドロスに対し、永遠に叶うことのない特別の想いを抱いているのだ。
「アリウス様、なにボーとしてるの。買い物はおわりましたよ」
突然、気安いヤクシーの声が聞こえた。とても、ご主人様にたいする言葉とは思えない、なれなれしい言葉遣いだ。
最近は、とみに目立つようになった。
しかし、アリウスは一向気にする風でもなく、声のする方を振り向いた。
「どう? ユイマ君、可愛いでしょ。私ではなく、サティーの見立てなんだけど」
恥ずかしそうに、ユイマは上目遣いにアリウスを見つめた。額に垂れた金髪のあいだから、聡明そうな蒼い瞳が覗いていた。
「うむ! なかなか良い」
無感動そうな言葉とはうらはらに、アリウスの眼は、ユイマに引きつけられた。
片肌脱ぎの少し短めのドレーパリーは、覆われた左肩から、腰の位置まで斜めに、ごく薄い若草色に染めぬかれていた。
ユイマを見つめると、アリウスの胸がそわそわしだすのは、今に始まったことではない。しかし、それにしても、なんとよく似合っていることだろう。
「アリウス様、最近はとても便利になりました。布を買って裁断して縫わなくとも、ドレーパリーのように、ゆったりした物は、出来上がったものが、たくさんございますのよ」
と、サティーが言った。
「そうか、商売人も色々考え、競争しているのであろう」
「先ほどの、お店で伺ったところ、裁断して縫うのが専門の人々が、大勢いらっしゃるそうです」
平和になると、人々は生活上の便利さを希求する。美しさを競う。すべて生活の余裕がなせる技ではあるまいか。アリウスは満足げに頷いた。
エクバタナでギリシャ風の衣装がはやりだして、何年にもなる。
今ではすっかり定着したようで、ドレーパリーなども、市場で普通に購入することが、出来るようになっていた。
「他にもたくさん、買いましたよ。さー、みんな座って、アリウス様に、見ていただきましょうよ」
サティーの言葉に、三人は腰をおろそうとしたそのとき。
「ユイマ、ここに座りなさい」
そう云うと、アリウスは懐から、手拭き用の小さな布を取り出し、石段に敷いた。
ヤクシーの眼に怒りが宿った。
「まァ! ユイマ君だけなの?」
アリウスはハッとした。気づいたがもう遅い。
「・・・・・あッああ・・・・・すまぬ。一枚しかないんだ」
「そういう問題じゃないでしょ! 布は私だって持ってます。ユイマ君にだって、持たせてあるんだから」
ヤクシーの機嫌を損ねてしまった。
「いや、その・・・・・子どもだから・・・・・」
アリウスは、ヤクシーの機嫌をなんとか取りなそうとした。
どうみても、主従の関係だとは思えない。
サティーは、おかしくてたまらない、とばかりに、口を押さえて笑いを噛み殺している。
可哀想なのは、ユイマである。
どうして良いかわからず、オロオロするばかりだった。
ユイマの肩に、サティーのやさしい手が、そっと、添えられた。
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