第三章 刻まれた記憶<5>
同じ頃、岩と石の連なる荒野を、少年と少女がデマベンド山へと向かっていた。
デマベンド山は、エルブールズ山脈に位置し、一年中雪を抱いた高峰である。
高峰に向かう道程を、二人はよろめきながら歩いていく。
紐に繋がれた、ロバを一頭つれていた。
「イオレ、頑張ろう、ラオメドン様にもうすぐ会える・・・・・」
「はい、お兄さま」
声変わりを待つ少年の声が、愛おしむように少女に語りかけた。少女は少年を見つめ、そっと言葉を漏らした。名前はイオレと言うらしい。
砂漠の陽射しは強い。砂塵が身体に叩きつける。
身体全体を包む黒い衣服には、さらに黒いフードがついていた。
白光の直射から世界を隔てるように、フードを目深に被っているため、顔は見えない。
二人は、十七歳の少年と、十六歳の少女の兄妹だった。
身体に似合わぬ、大きな袋を背負い喘ぐさまは、痛々しくもあった。
剥き出しの岩石の山肌、砂と小石まじりの大地、生命の息吹は何処にも感じられない。
荒涼とした風景がどこまでも続いていた。
少年の思考は、陽に強く苛まれ、定まることすらできない。潤んだ瞳は、漠然と大地を見つめている。
砂漠地帯に入って何日になるだろう?
二人とも、もうしばらく前より汗は出ない。唇は乾き、ひび割れている。
「お兄さま、お願いです。休息を・・・・・」
少女がよろめいた。
かすれるような、弱々しい声だった。
少年は、よろめく少女を抱き支えた。
頼りなげで、優しく扱わないと壊れてしまいそうである。
支えた少年も、男と思えない華奢な身体つきをしていた。
二人は、なにゆえここまで過酷な旅に耐えようとするのだろうか、とても、自らの意志と言うことは出来ない。
浮遊しながら、ドラマを演ずる人形のように、舞台に姿を表すことのない他人に操られているのだ。
人形劇の舞台は、今まさに、砂漠の場面が演じられている。
少年は心なしか首を傾げ、フード少し持ち上げると、あたりを見回した。
パウダーの様な、微細な砂が風に煽られ小さな渦をつくっている。
巨大な岩石が、あちこちに転がっている。
眼前の光景には、潤いと言えるものが一切見あたらない。少年の心に怯えが走った。気持ちの中まで渇き、ひび割れて行くような気がしたのだ。
「イオレ、あそこにしよう」
適当な岩陰を見つけた少年は、少女に囁き、細い身体を抱きかかえるように導いていく。
岩陰にたどり着くと、二人は倒れ込むように、その場に腰をおろした。
呼吸を落ち着けるのに少し時間が掛かった。少年は気力を振り絞り、ロバの紐をたぐり寄せると、膝に手を突き体重を支えながら、立ち上がった。
そして、落とさないよう用心深く、ロバの背から革袋を外すと少女に手渡した。
少女は栓を取る。革袋に口を付け、水を喉に流し込む。
あまりに一気に飲んだ為、口より溢れた水が喉元と衣服を濡らした。
「ふーッ」
少女はのけぞり、大きく息を付いた。そして、眼に微笑みを蓄え、少年に革袋を返す。 受け取った少年もまた、水を一気に喉に流し込んだ。
少年は激しくむせ込んだ。あわてて飲んだため、気管に水がつかえたらしい。
声を出そうとするのだが、言葉にならない。
身体を折り曲げ、微かな呼吸をするのが精一杯だ。涙が止まらない。少女が、心配そうに背をさする。
発作がなかなか収まらない・・・・・。
「イオレ、霊地マンダ・・・・・どんなところだろう」
しばらくして、やっと落ち着いた少年は、細い息をしながら少女に話しかけた。
「この世に、あんなに素晴らしいところはない、というお話しでしたわ。お兄さま、ラオメドン様がお待ちなんですよね」
少女は、少年の肩にもたれ掛かりながら、小さく言った。
「聖なる山、デマベンドの山麓・・・・・マンダ! 早く行きたい」
と、少年は言った。
「お兄さま、どんな素晴らしいところなんでしょう?」
と、少女は言った。
二人は、二年前アナトリアの地で誘拐され、エクバタナの市場で売られた。
たまたま、その場に居合わせた、ラオメドンの眼がねにかない引き取られ、マゴイとしての基礎訓練を施されたのだ。
訓練はひたすら悦楽の感性を磨くことであり、無垢な精神にそれは、深く刻まれた。
手段は選ばれなかった。媚薬を用いての訓練も日常茶飯事と言えた。砂漠での身体的苦痛も、魂の深淵に刻み込まれた観念を、消し去ることは出来ない。少年と少女の心の隅では、今も、官能は熾き火となって出番をまっているはずだ。
二人は岩影で寄り添い、しばしの休息を取ろうとする。
風が強くなった。容赦ない砂塵の猛りは、二人の岩陰にまで吹き付けてくる。
しかし、ほどなく体力の回復を待つのも惜しむように二人は、よろめきながら立ち上がった。
何故そんなに急ぐ必要があるのだ。
自らの意志ではない! 何者かに心を支配され、操られているのだ。
二人はふたたび、猛り狂う砂塵の中を歩き始めた。
「あそこだ!」
フラフラと歩き続けた二人の前に、突然、驚愕するような景色が飛び込んできた。少年の指さす方向に、何と、ナツメ椰子の群生が広がっているではないか。
さらに近寄ると、草や小さな花が、絨毯のように敷き詰められた緑が眼に入ってきた。
「これは・・・・・!」
少年、小女は言葉を失った。
今までとは、全く隔絶された夢の空間であった。
透明な水が湧き出て、泉となっている。
泉からあふれ出た水は、小川となって荒野に流れ出している。
小川の岸辺は緑の帯となっていた。
陽がまだ高いうちに、今日の予定だった、無人のオアシスにたどり着いた。
目の前に繰り広げられている光景に、少年は戸惑いの色を隠せない。
(なぜ、今までの風景とこんなにも違うのだ・・・・・幻覚ではないのか?)
少年は呆然と立ちすくむ。
側の少女も唖然とした表情をしている。
二人を包む大気も、先ほどとはまったく異なり穏やかな湿気を帯びている。
二人は、お互いに見つめ合うと、どちらからともなくフッと吐息を漏らし、微笑んだ。
少年と少女は、最後の力を振り絞るように、水の湧き出ている泉にヨタヨタ駆け寄ると、音を立てて水面に顔をつけた。
フードを取った二人の栗色の髪が、波紋の広がる水面にゆれた。
「ふゥー」
水面から顔をあげると、一言もらし、水辺を後にし、 ナツメ椰子の木陰に二人は、倒れ込むように横たわった。
「ラオメドン様のおっしゃられた通りだ! ここが最後のオアシスだ、明日には、マンダに到着する」
「お兄さま、本当にマンダにいけるのですね?」
「間違いはないよ」
「ラオメドン様にも、お会いできるのですね?」
「待っておられると、仰っしゃられた」
過酷な旅は終局を迎えようとしていた。
風に吹かれて、椰子の葉がさざめく。こぼれ陽がキラキラ輝く。
二人は、そのまま眠りに落ちていった・・・・・。
どのくらい、眠っていたのだろう。二人はほとんど同時に目を覚ました。
ムッとした、草いきれが少年の鼻孔を突く。
ぼやけた、視界が徐々にハッキリしてくる。
「お兄さま、水浴びをいたしましょうよ?」
と、少女が言った。
少年は、首筋に手を当て顔を撫でた。微少な砂の感触がする。少年は黙って頷いた。
短い眠りであった筈だが、若い肉体はもう回復したらしい。
「お兄さま、さぁ、参りましょう」
そう言って、少女は少年の手を取った。
立ち上がった二人は、何の躊躇をすることなく、黒い衣類を脱ぎ、一糸まとわぬ姿になった。
透けるように白く、眩しく光る裸体だった。
少年の金髪は、肩に届き、ゆったりしたウエーブがかかっている。女性のように優しい顔つきをしている。白くほっそりした身体に、鋭角さはない。
うっすらとした、脂肪の膜に包まれているようであった。
股間には、金色の薄い翳りはあったが、男性器は無い。
少女の身体は、青白く輝いていた。ウエストのくびれ、腰のふくよかさにも、幼さを感じさせる。つぼみのような胸、成熟前のひ弱さが、妖しい美を放っていた。
腰までの長い金髪が、泉に歩を進めるたびに揺れる。
手を取り合った兄妹は、水辺にゆっくり足をつけた。
清浄な水を、足から身体に吸い取るように、しばし佇んでいたが、しだいに岸辺から離れていった。
水が腰までの位置に届くころ立ち止まると、二人は、ゆっくりと水面から姿を没した。
息苦しくなったのか、飛沫をはねあげ立ち上がると、片手で顔と髪をぬぐった。手は繋いだままである。
二人は、見つめ合っている。
「お兄さま!」
「イオレ!」
視線を絡ませながら、動かない。
水面の波紋が静まるころ、二人は抱き合い、唇を重ねた。
若い皮膚は水滴をはじき飛ばし、蝋のようにすべすべしている。
身体を、まさぐりあいながらの長いくちづけは、狂おしく官能の色をおびはじめ、二人の白い身体は、うっすらとピンク色に染まっていった。
天使のような二人の姿だった。
少年は去勢されており、外見からは分からぬが、少女には、卵管を閉じる手術が施されていた。
二人にとっては、性交が生殖から完全に切り離されているのだ。
快楽だけの為の性交、これこそ、観念と切り離すことの出来ぬ人間性、本来の姿ではなかろうか・・・・・。
泉に立つ、二個の白い裸身は、キラキラ陽を照り返す。
打ち寄せる波のように、呻きが断続的に流れてくる。
陽の下でのまぐわいは、激することはない。あくまで穏やかに、果てしなくつづくかに見えた。
翌朝は、星を仰いでの出立であった。
二人は旅を急ぐ、少年は出来れば朝の内にも、霊地マンダを見上げる場所に達したかった。
既に、デマベンド山麓に入っている二人と一頭は、なだらかな登り坂を、歩いていく。
少年は確信していた。
(ラオメドン様の言うことに、今まで一つの間違いもなかった。あの、オアシスからだと午前中には、マンダ本山に着くはずだ)
前方から、朝日が顔を出してきた。
大地はくっきりと、影と光に二分されていく。
朝日に照らされ、雪を被ったデマベンド山が気高い姿を顕わした。
「おお!」
感嘆の言葉が、思わず口をついて出た。兄妹は、弾かれたように手を組み大地に跪くと、深く頭を垂れた。
そのまま、しばらく頭をあげることが出来なかった。
神々しい高峰は、人間の魂に強烈な影響を及ぼす。
たしかに、人は、そこに霊的存在を体感するのだ。
その存在に働きかける為に作り出した、秘法、魔法の体系がシャーマニズムと言えるだろう。
そこには、理屈や論理ではなく、人間の魂に直接訴える真実がある。
感動の涙が、若い二人の頬を伝わっていく。
陽の高くなる前に、マンダ本山の下に到着した。
高い断崖の上、ビッシリこびり付くように、本山の建造物が所狭しと建てられている。
登り口は、一カ所のみらしい。
「イオレ! ついに来たぞ。ここがマンダの本山だ!」
と、少年は思わず叫び声をあげた。
「お兄さま、ついに・・・・・ついに目的の地にたどり着いたのですね!」
と、少女は感動に震えるている。
「ああ! ああ! マンダ・・・・・」
少年は呻くように言った。
この数年間、恋い焦がれ続け、今まさに、過酷な旅を終えようとしている二人は、涙で潤んだ瞳で、霊地を今見上げている。
目的の地だ!
人形劇、「砂漠」の幕は、今静かに降りていく。
そして、新たな幕が上がろうとしていた。
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