ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






 第三章 刻まれた記憶<6>


 ラオメドンは断崖の上に建てられた、マンダ本山の手摺りに腰掛け、眼下を睥睨していた。
「・・・・・来たか」
 どうでもよさそうに、彼は低くつぶやいた。
 黒髪の下の額に皺をよせ、口の端をくうっとつりあげる。
 感情の読みとれぬ微笑・・・・・現代の人ならば「アルカイックスマイル」というかもしれない。年は間違いなく四十を過ぎているはずだが、とてもそうには見えない。
 艶やかな巻き髪に、雪の額。そして男性の象徴を取り去った肉体は、白くしなやかで、どこか女性的な印象さえある。だが鋭利な刃を思わせる双眸が、そのすべてを裏切っていた。
 ラオメドンは、ふたたび眼下を見下ろした。そこにはすでに、兄妹の姿はみとめられなかった。
 わずらわしげに衣の裾をはらうと、漆黒の悪魔はゆっくりと歩き出した・・・・・

 ラオメドンが、城門の詰め所に顔をだすと、衛兵の隊長とおぼしき者が、丁重に挨拶をした。
 その様子から、ラオメドンは、かなり高位のマゴイであると窺える。衛兵はその場に二十人近く配備されていた。
 足を引きずるようにして、歩いてきた少年、少女は、ラオメドンを見止めた。
 二人の顔に、パアッと光が射した。疲労に縁取られていた眼に力が戻り、歓喜の声をあげて駆けだした。
「ラオメドンさまーッ!」
 二人は、ラオメドンの胸に飛び込んだ。 
「よく来た。よく来た・・・・・」
 抱きついた、二人の髪を優しく撫でながら言った。しかし、ラオメドンの視線は二人に注がれることはなく、その瞳は、酷薄な光をおびて遙かな、蒼空を見つめている。
 二人の眼からは涙があふれ、留まるところを知らなかった。
「こちらにおいで」
 ラオメドンは二人を、営舎の中へ誘った。
 椅子とテーブルの他には何もない、無機質な部屋だった。 
「迷うことなく、よく来た」
「はい、ラオメドン様のお導きの通りにいたしました」
「背の荷を降ろし、掛けなさい」
 二人は、言葉に従い、椅子に腰をおろした。安堵感からか、小さな溜息が洩れた。 
「その、汚れた服をこれに着替えなさい」
 ラオメドンがテーブルの上に置いた黒く薄い衣服は、彼の物と同じく、柔らかそうな生地で出来ていた。
 少年と少女は、お互い見つめ合い、部屋の中を見渡した。衛兵が四人部屋にいた。二人は一瞬とまどいを見せたが、すぐに麻のごわごわした衣類を脱ぎ、ふんわりと身体を包む衣装に着替えた。
 衛兵の瞳が、妖しい欲望に輝く。
 二人は、衣装の下には何も身に着けていなかった。
「今から、本山に詣でる。おまえたちの、夢にまで見たマンダ本山だ」
「はい!」
 憧れの本山の入り口に、二人は今たどり着いた。
「今から、上殿のための最後の禊ぎに入る。こちらへおいで」
 そう言うと、ラオメドンは二人を、詰め所の裏手に誘った。 
 目的の場所は、すぐ近くにあった。
 山頂よりの石清水が湧き出、小さな滝となって岩底を穿っている。岩盤に囲まれた一画は、苔が生え、薄暗く、あたりの空気までもが、ヒンヤリと感じる場所だった。
「その衣装のまま、水に打たれなさい」
 ラオメドンは厳かに申しわたした。
「はい」
 二人は、苔に足を取られぬように、手を繋ぎ注意深く、水の落下点にたどり着いた。
 滝壺は、二人が並んで打たれるのに適した大きさだった。水量も多くなく、低いところからの落下の為、水は優しく二人の身体を打ちつける。顎を上げて、顔でも落水をうけると、頬が水圧で歪んだ。
 水は栗色の髪を、身体にまつわり付かせる。
 薄い布は、水に濡れピッタリと張り付き、体の線を妖しく顕わにした。
「出てきなさい」
 滝の音にかき消されないよう、少し強めに、ラオメドンは二人に声をかけた。
 彼は滝から出てきた二人に、壺から少量の液体をコップに移すと、薄笑いしながら手渡した。
 二人は、口元の水を拭うと、飲み干す。
 すぐに、身体が反応を起こした。熱く、痺れる感覚が、一気に脳まで掛け登り、爆発した。爆発の波動は、今度はゆっくりと、脳髄より背骨を伝わり、じわじわ全身に伝わる。
 二人の瞳を注意深く観察すれば、感覚が肉体を離れ、かってに揺れ出したらしいのが分かる。
 そのとき、ラオメドンの両手の爪先が、二人の乳頭を軽く引っ掻いた。
白い指先から、長くのばされた爪が、妖しげに動いた。
「うッ、う・・・・・」
 突然、電流が流れたようにビクンとのけぞると、二人は呻きをあげた。
 淫らに、ニンマリ笑うとラオメドンは長い親指の爪を噛んだ。両手の親指の爪だけが、黒く塗られている。
 マゴイの聖職者に取って、黒色は特別な意味があるのだろうか、黒色というより、むしろ暗闇を象徴しているのかもしれない。
「禊ぎは終わった」
 ラオメドンの声を、二人は虚ろに聞いたようだ。
 新しい世界が始まろうとしている。
 いたいけな二人にとって、この世での寄る辺は、ラオメドンだけであり、それを、ラオメドンは十分承知している。
(自分は、いままで数多の少年少女を、調教してきた。己の思うがままの人形になるように・・・・・そして、今、この二人も上手くいった。いや、上出来だと言えるだろう。最後の仕上げをここで行う。そして、新たなマゴイが誕生するか? それとも、マゴイになることが出来ずに・・・・・)

詰め所に戻った二人の姿態は、衛兵の眼を釘付けにした。
 髪から、衣服から水が滴っている。拭くこともしていない、布の張り付いた身体の線は、裸より遙かに官能的だ。
 あるいは後日、自分たちの慰み者として下げ渡されるかもしれぬ、綺麗な獲物である。衛兵達の眼が淫らに輝くのも無理はない。
 しばらく、声もなく遠巻きに、ぎらつく眼で眺めていた衛兵が、我に返ったごとく声を掛けた。
「ロバも、荷も、こちらでお預かりいたします。どうぞ、手ぶらでお上がり下さい。後で、しかるべきところに届けさせていただきます」
 そう言った衛兵の声は、うわずっていた。
 ラオメドンは、黙ったままうなずき、衛兵に承諾したむね合図を送った。
 そして、少年と少女に付いてくるよう、眼でうながした。入り口の大きな門を通り、ラオメドンは坂を登り始めた。少年と少女も黙したまま、後に続いていく。
登っていく坂の途中に、所々にレンガ建ての建造物がある。何に使用するのか、あるいは、貯蔵してあるのかよく解らない。
 どのぐらい登ったであろうか、急勾配の階段の前にたどり着いた。そこにも詰め所があり、数名の衛兵が控えていた。上を見上げると、ぬけるような青空を背に巨大な石造りの門が見えた。
 二人を待ちかまえている、異世界への入り口だ。
少年と少女は、肩で息をしながら階段を登っていく、疲労が蓄積しているに違いない。 端整な顔を歪めながら、まるで見えない糸で操られるように、歩を進めていく。はたして彼らの意識はどの程度、混濁しているというのか?
 不思議に、ラオメドンは息を乱していない。歩みを弛めることもなく、また振り返ることもせず、淡々と階段を登る。
 巨大な関門にたどり着いた。建物が群れを堅牢な壁が囲っている。ただ一カ所の出入り口とみえる、門であった。
 少年と少女は、絶え絶えの息を何とか整え、本能に命ぜられたように、登って来た道を振り返った。
 二人の眼下には、広大な大地が、地平線まで続いていた。
 そこでは、芥子粒のごとき人々が、喜び、怒り、悲しみ、生まれ死んでいく世界がつらなっている。
「さあ、よく見ておけ。天空の世界から見える景色を。お前たちの現実は、今立っている、ここだ。芥子粒のごとき、いじましい物質世界から離脱したのだ。そして、現世の精神世界からの離脱が、お前たちを待っている」
 と、ラオメドンは厳かに申し渡した。
 彼には、二人の心境が手に取るように分かっている。感覚は異変をきたしているが、意識はハッキリしているはずである。  
「よいか、おまえたち、本当の離脱は今から始まるのだ。深い闇の中で、お前たちの魂、心身の狂おしいまでの離脱が・・・・・」
 二人は、哀れみを請うような眼でラオメドンを見つめ始めた。理由の分からぬ不安の影が、いたいけな少年と少女の双眸に宿っている。

ラオメドンが門を開けた、思ったより巨大な門は簡単に開いた。中に入ったラオメドンは、何かを待つように、立ったまま動かない。二人もそれに習って手を繋ぎ、ぼんやり突っ立っている。
建造物の集合だ、高さも異なれば、大きさも異なる。それぞれの建造物がまるで意志をもった物体のように、のし掛かって来る。建物群の全貌は、眼前の建物に遮られ分からない。
 静かだ、物音一つ聞こえない。
 どのくらい時間が経っただろう、一人の娘が、三人の前に来るとお辞儀をした。少年、少女と同じ、黒く薄い衣を身にまとっている。異様なことに顔全体も薄い布で覆っていた。
 布のせいで、顔はよく見えないが、衣から出た、腕、肩は細くしなやかで、心を誘う妖しさがある。
 娘は案内をするつもりにらしく、踵を返すと、三人の前をゆっくり歩いていく、言葉は発しない。
 日光を遮断することを目的に、設計されているとしか思えない回廊だった。しばらく歩き、薄暗闇にやっと眼が慣れた頃、急に開かれた場所に出た。建物に囲まれた、空間が広がり、大きな広場になっていた。
 照りつける陽が眩しい。 
 広場の中央には、石造りの巨大な高台があった。
 その上に、一枚岩で出来た、大きな台が据え付けられていた。儀式に用いるものであることは間違いない。
 台の左右には、灯明塔が威容を誇っている。
「この高台は、夜、神聖な儀式のときにのみ用いる。闇の中に、灯明塔の黄色い炎が揺れ、生け贄が捧げられる。聖なるマンダの神々に・・・・・」 
 ラオメドンは、白い手で指さしながら、二人に話した。
 二人の眼は焦点が合っておらず、ラオメドンの言葉がどの程度、理解出来ているのだろうか?
 ラオメドンの白い手から延びた、長い爪先は何かを暗示しているようだ。高台の背後に、峻厳なデマベンド山頂が白い雪をいただき、そびえている。案内の娘は、影のように控えたままだ。

 広場に面した一画に本殿とおぼしき、他より抜きんでて大きな建物がみえる。
 ラオメドンが娘に視線を移した。
 娘は、また歩き始めた。三人は後を付いていく、また回廊に入っていった。しばらく歩いたころ、燭台に照らされて、大きな扉がみえた。
 扉の前に、白髪の老人が立っていた。少し腰がまがり、杖をついている。白髪は肩まで、白い顎髭は胸のあたりまで伸びている。黒い衣服を羽織り、眼だけが爛々と光を放っていた。
「師父、二人をつれてまいりました」
 ラオメドンはその場に跪き、頭を垂れ挨拶した。
 二人の兄妹も、同じように跪き頭を垂れた。
「よい、よい、さあ立ちなさい。ここから先は私が導こう」
 投げかけられた言葉には、老人らしからぬ張りがあった。眼光は、少年少女の姿態を舐めるようになぞっている。衣服は、まだ濡れており、身体に張り付いていた。
「お主も、ご苦労であった。もう退がれ」
 長老がそう言うと、導いてきた娘は会釈をし、来た回廊を戻っていく。
 思えば、彼女は最後まで黙したまま語らなかった。

 建物の中は暗い。眼が慣れるまで暫く時間が掛かった。
回廊、階段の所々で燭台の炎が揺らめく、その度に影が動く。暗い階段を登り、また、回廊を巡っていく、長老は杖を着き、もの言わずゆっくり歩を進める。
 マンダ本山には、すべてのマゴイの頂点に立つ長老が五人いる。その五人の合議によって、本山を始め、マゴイ集団のすべてが決せられる。
 その内の一人に今、導かれているのだ。
 ラオメドンが次期長老の地位に付くことは、すでに決まったことであった。
「マゴイ」という言葉は、ギリシャ語で占星術師の意味であり、ペルシャの占星術師を指す言葉だ。闇の支配者、「マゴイ」の伝統は後の世まで永遠に伝わることになる。
 
 ラオメドンは、記憶を手繰っていた。
(どのくらい前だっただろ? 少年の自分は、前を行く師父に連れられて、ここを歩いた。丁度、いまの二人のように・・・・・漠然とした期待と不安に苛まれながら、彼らもまた、外界と隔絶され、闇に向かって吸い込まれて行く恐れに、おののいているはずだ)
 暗い中、燭台の火が途切れることなくつづいている。
 二人は、うつむき加減に手を繋いで歩いていく。
「ラオメドン様・・・・・」
 小さなつぶやきが、微かにラオメドンの耳殻に届いた。
 ラオメドンの瞳に、妖しい嗜虐の炎が燃えはじめているのに、二人は気づかない。


次ページへ小説の目次へトップページへ