第三章 刻まれた記憶<7>
そんなに長い時間歩いたわけではないが、兄妹にとって、まさに恐怖が頂点に達しようとした頃、頑丈そうな扉が突然、目の前に顕れた。
壁の石が切り取られ、そこだけが二本の燭台に照らされていた。木製のドアが埋め込まれている。老人は黙った儘、ドアを内側に開けた。ギィーと耳障りな音が響き、ラオメドンは眉をひそめた。
異様な部屋だった。窓がなく、壁面はむき出しの岩石で、一部には、苔すら見受けられた。湿った空気が淀みきっており、間仕切りもない広い部屋の隅には、やけに大きなベットが備え付けられているのが眼に付く。
床は全面にフェルトが敷かれ、どす黒い染みが着いている。血の跡だろうか?
数多くの燭台が備え付けられ、室内は決して暗くはない。むしろ、そのため影の部分がなお一層、浮き出てくる。
ラオメドンは最後に部屋に入った。
「動くでない」
老人の低い声が、皺だらけの唇から発せられた。
少年と少女は老人の声を聞くと、ビクッと身体を震わせ、固まってしまった。
ふたりを立たせたまま、老人とラオメドンは椅子を引き寄せ、静かに腰をおろした。
しばらく、少年と少女を、皺だらけの窪んだ眼窩で、穴のあく程見つめていた老人は立ち上がり、兄妹の顔の間近にまで近寄ると、卑しく笑いかけた。
彼は、少年の顎の先端に軽く触れると、持ち上げのけぞらせた。
「動くでない」
又、同じ言葉だ! 低く、くぐもった声であった。
少年の喉がヒクヒクうごめいた。まだ乾いていない髪が後ろに垂れた。黒衣も身体に張り付き、妖しく身体の線を浮かび上がらせていた。
老人の長くのびた爪先が、身体中を撫でていく。
「うッ!」
低い呻きが、ときおり洩れてくる。意志とは関係なく少年の身体は反応を始めた。
しばらく、少年をまさぐっていた老人は、少女に移動し同じ動作を始めた。あたかも、壊れやすい動物を愛で、感覚の反応を確かめるような、繊細な動作である。そこに存在するのは、感覚と反応以外のなにものでもない。
二匹の雄と雌を愛で、納得したように頷きながら、老人は椅子に腰をおろした。混濁した意識の覚醒している部分がそうさせるのか、少年と少女は小刻みにふるえ、青白く整った顔に恐怖の色を顕わしている。
「師父、いかがでしょう」
品物の評価を聞くような、感情の無いラオメドンの声だった。
声の方にゆっくり首を廻した老人の眼は、明らかに常道を逸していた。血走り濡れた瞳でラオメドンを見つめる。
ラオメドンの表情は、燭台の光に揺れながら、あたかも能面のように静まり、一切の感情が窺えない。
老人は、眼だけが異様に光る、皺だらけの顔を崩し、枯れ枝のような爪先で、ゆっくり少女を指さした。
ラオメドンは何も言わず立ち上がると、部屋の隅から木製の物を持ちだして、二人の背後に廻った。
「手を後ろに廻しなさい」
催眠術にでも掛けられたように、二人はラオメドンの言葉に従い手を後ろに廻した。白く華奢な手であった。ラオメドンは無惨にも、それぞれの手に木製の手枷を装着した。
「ラオメドンさま・・・・・」
少女の弱々しく、すがるような声であった。ラオメドンは少女の背後より、まだ乾ききっていない、うなじに手を添えると、長い爪で、少女の栗色の髪をゆっくり掻き上げた。
少女の栗色の髪がゆれる。
もう一方の手は、胸のあたりを妖しくまさぐる。
「あッ!」
少女の口唇から、軽い呻きが洩れた。しかし、ラオメドンの表情は微動だにせず、褐色の双眸は、ベットの端に並べられた、これから使われるであろう、多種類の性具を品定めしているのだ。
ラオメドンの息吹が、少女の鼻腔をくすぐる。それは、危険をはらんだ、甘い杏の香りであった。
生殖器を失った、老マゴイにも性的欲求は消滅しない。むしろ、妄想の虜となり、歳をふるに従って、屈折し顕在してくる。
ラオメドンは、軽く少女の肩を押した。華奢な少女の身体は、呆気ないほど簡単に重心を失い、膝からその場に倒れ込んだ。
「ひィーッ!」
少女は短い悲鳴をあげた。
起きあがろうともがくのだが、後ろ手に拘束されており、身体を起こすことが出来ない。
衣服を乱し、嗚咽とともに、あられもなく蠢動を続ける。
「あああッ・・・・・!」
白い両足が淫らに蠢く。
「静かにしなさい」
ラオメドンは冷たく言い放った。彼の左手は、少年の口唇をむんずと握り込んでいる。
少年は、声を出すことが出来ず、眼を剥き出して恐怖におののいていた。
ラオメドンは、老人に対する侮蔑の色が、瞳に顕れるのを隠すように、軽く会釈をすると、少年を引きずって立ち去る。
ドアを閉めるとき、背後から少女の鋭い悲鳴が耳朶に響いたが、ラオメドンは振り返ることもせず暗い回廊に歩を進めた。
「ラオメドンさま・・・・・」
少年の哀願の声は、細く震えている。
ラオメドンの手は、少年の後ろ髪を掴んでいた。少年は顎を出しながら、操り人形のように足を左右に振り出しながら、回廊を歩いていく。
少年の哀願は、ラオメドンの耳朶に届くことはない。
「ラオメドンさま・・・・・ラオメドンさま・・・・・」
少年は細く呻きつづけている。華奢な白い首筋が、小刻みに震えていた。
少年の切ない呼びかけは、ラオメドンの耳殻に入ることは無い。彼の思考は、少年のうえにはなく、老マゴイの方に行っている。
(何故だろう? 師父に対し、軽蔑と老残を感じてしまう。このような気持ちを抱いたことは今まで一度としてなかった。彼は、私の後ろ盾であり、数十年のあいだ慕い続けてきた。何故今、急に。私の心に、いったい何が起こったというのか・・・・・私は今まで、欲しい物は必ず手に入れてきた。今、私は何を欲しているというのだ・・・・・)
回廊の幅が狭くなった。二人が並ぶと窮屈で歩きづらい。少年は不安げにラオメドンの前を歩いている。後ろ手に拘束された肩越しに、時折、振り返るのだがラオメドンと眼が会うことはない。
「カツ、カツ」
編み上げのサンダルが音をたてる。足音の響きが、先ほどと明らかに変わり、軽くなった。
床は薄く、建物と建物の間に渡された、通路であることを想像させた。狭いトンネルの通路は何処までも続くかに思えた。
目の前に、巨大な扉が出現した。別の建物の入り口にたどり着いたのは明らかだった。
扉は、鉄の帯が巻かれており、大きな鋲が並んで打ち付けてあった。、不気味な威圧感を醸し出しており、中心に、人間の顔をした、鉄製の仮面が埋め込まれていた。
仮面は顎に力を込め、口を強く結んでいる。眼玉は三つ並んでおり、左右と正面を見ている異様な仮面の上部には、太い鉄環が付いていた。
背後に異様な気配を感じたらしく、少年は急に振り向いた。
「えッ!」
ラオメドンを見た少年は驚愕した。
巻き毛だった、ラオメドンの髪は真毛になり紅く燃えあがって、四方にばらけていた。褐色の瞳は、金色に輝き、眩しい光をはなっており、正視することが出来ない。
その時、ラオメドンの金色の眼から光線が走り鉄輪にぶつかると、触りもしない鉄環が動き、鉄の仮面を叩き乾いた音をたてた。
仮面の口が緩みニタリと笑った。三つの目玉が動きだし、正面の少年を注視した。
ギーと不気味な音をたて扉がユックリ動き出すと、洞穴のような空間が現れた。そこは踊り場になっていた。
踊り場に足を踏み入れたとき、少年の皮膚が感じたのは、熟した空気に包まれた感触だった。異世界への一歩を彼は踏み出したのだ。
踊り場の真ん中では篝火が燃えさかり、漆黒の闇に紅蓮の炎がパチパチ弾けていた。
甘くやすらぎを覚える香りが、あたりを包んでいる。ラオメドンは知っている。この香りは、枯れた大麻を燃やした煙のせいであることを。
首をうなだれて立ち尽くす、少年の双眸に変化が顕れた。薬に犯されている身体に、さらに、大麻の煙を吸いこんだせいだろう、不安と恐怖の底から、被虐の妖しい炎が小さく燃えだしてきた。
「ようこそ・・・・・獣性の支配する煉獄の世界へ・・・・・」
おぞましい声が、上の方から聞こえてきた。
炎に照らされた面妖な顔が、ぬーと出現し、少年の顔をまさに天井の高見からの覗き込んだ。
背は人とも思えぬほど高く、少年の頭は腰までしか届かない。ボサボサの長髪は乱れ、一部は、ごわごわ固まり巻き付いている。
「・・・・・!」
少年は、恐怖におののき声を出すことすら出来ない。
異形人の手足は、不自然に長く、立ったまま、床に届いている。指は無い。いや、腕が細くなり一本の指と見えなくもない。太い指らしき物の先に長い爪が延びていた。
顔と胴体が異常に小さく、男か女かも分からない。手足も含め身体全体を、黒い布で何重にも巻き付けている。黒い目張りが、吊り上がったように描き込まれ、顔全体は蒼く化粧されていた。まさしく黒い蜘蛛である。
異形人は、ラオメドンに黙礼すると、音もなく少年の廻りを巡り始めた。
歩幅が大きい、一歩で少年の背丈近くの距離を移動する。四〜五歩で少年の廻りを一周する。
淀んでいた空気が動き出すと、少年は嗅いだ・・・・・何とも言いようのない生臭い嫌な匂いを。
異形人が少年の背後に立ち止まった。上から太い指らしき物が、白い喉を捕らえ顎を持ち上げると、蜘蛛人間はニヤリと笑い、上から少年の顔をのぞき込んだ。
少年の身体は恐怖におののき、可憐な白い首筋が小刻みに震えている。
もう一本の指が、背後より伸びてきて、少年の背筋の衣の内側に侵入した。
「ひッ!」
堪らず、小さな悲鳴があがった。少年は恐怖にかられ、金縛りにあったように動くことが出来ない。
太い指先の爪は、少年の衣服を一気に切り裂いた。湿った黒い布が足下に落ちた。
「くッ!」
細く白い少年の裸体が、篝火に照らされ彫像のように立ち尽くす。
拘束され、拒むことの出来ない少年の身体は、鳥肌が立つほどの、嫌悪感に包まれているように窺われるが、瞳はしだいに潤みはじめた。
被虐の淫らなざわめきが、じわじわ湧いてきているらしい。
まさにその時、少年は感じた。足下に張り付いた嫌なぬめりの感触を。神経を伝わる、ピチャピチャとした、おぞましい感覚を。
持ち上げられた顔を傾け、足下をのぞき見た少年の背筋に、冷めたい電流が走った。
少年の双眸は、信じられぬものを見止めた。巨大な山椒魚のような生き物が、もぞもぞ這いながら、少年の足にまつわり着こうとしている。
短い手足がたしかに胴体とおぼしきあたりから生えている。身体全体がぬめり、キラキラ、緑色に輝ていた。小さな眼は充血し、紅色に燃えていた。
得体の知れない生物は、もぞもぞ少年の足を這い登り、白くふくよかな太ももを、まさぐり始めた。
「・・・・・ひッ!!」
少年の喉を切り裂くような悲鳴が響き渡ったかと思うと、少年は意識を失って、その場に崩れ果てた。
少年の悲鳴を合図のように、踊り場の奥の扉が開いた。矮小で首の歪んだ、全裸の小人が二人出て来た。身体に似合わぬ、巨大な男根の猛りは、強い意志を証明しているかに見えた。小人は、ニタニタ笑いながら、倒れ失神している少年の身体を引きずり、扉の奥へ運び込んだ。
蜘蛛と山椒魚が後に続き、ラオメドンは無表情に最後に扉の奥に入っていった。
扉の中の部屋は、薄暗く無数の燭台の光が揺らめく広大な規模であった。十数人、いや十数匹の生物の興奮した息吹がきこえる。
燭台のなかでも、ひときわ小さな燭台の列が、床を這い、真っ直ぐ闇に向かって延びていた。まるで、誘いかける道しるべのように、何処までも。
突然、ラオメドンが手を叩いた。瞬間、室内に緊張がはしった。物音が消え、静寂が支配した。
少し間をおき、再びラオメドンは手を叩いた。
その時、すべての燭台の黄色い光が、パッと青白い光に変わった。
魔王の出現だ。
ラオメドンの身体が、その光線を浴び輝き出すと、彼は、金色に光る、鋭い眼光であたりを睥睨した。
獣たち、の怯えが部屋中にこもった。横たわった少年の白い裸身が、青白い光を照り返し蛍光塗料のように光を放っている。
部屋中のすべてが、魔王の次に発せられる言葉を待ち続けている。
「マゴイの饗宴をはじめよ」
ラオメドンの厳かな声であった。
とても人類と思えぬ異形の生き物は、這い蹲り、魔王に拝礼を捧げると、なんとも言えぬ奇声を放った。
涎をたらし、充血した眼の異形の人々は、もぞもぞと、少年の廻りに群がった。
数ヶ月も延々と続く、マゴイの饗宴は今始まったのだ。
二〜三日遅れ、少女が加わりさらに宴は盛り上がるであろう。その後の兄妹の運命は、どのようになるのだろう。ラオメドンにも分からない。
新しいマゴイとして、ふたたび下界に舞い戻るか。声帯を切り取られ、マンダ本山の下僕として仕え、兵士達の慰み者になるか。あるいは生け贄として、広場の一枚岩のうえで身体を切り刻まれ、心臓をデマベント山頂に住む神々に捧げる、栄誉を担えることになるのか・・・・・。
ラオメドンは、きびすを返すと扉に向かい室内から出ていった。
ラオメドンの後ろで、扉がユックリと閉じた。ニタリと笑っていた、扉の鉄の仮面の口元が動きだし、もとのように、強く口を結んだ。目玉が動き三方を見つめるもとの姿になった。
ラオメドンの眼が金色から、褐色にかえり、髪は巻き毛となっている。
マゴイは占星術師であり、幻術を使うとも言われていた。
マジック、マジシャンの語源は「マゴイ」にある。
先ほど繰り広げられた、異様な出来事の真実は何処にあるのか? 何処までが現実で、何処からが幻覚か? 知る者は、薬物の天才、奇術師、優れた演出家を兼ねた、ラオメドンだけである。
彼の心は静まっていた。かつて、あれほど彼の心を捉えていた、饗宴を演出し、自ら演ずる時、感じられた興奮は、湧き起こってこない。
ラオメドンは、理由の解らぬ虚しさに苛まれていた。
(いったい、私はどうしたと言うんだ。身体全体を纏う、この虚脱感は何だ?)
暗い回廊を、ラオメドンは一人で帰って行く。彼の無表情な横顔が、燭台の光を照り返した。
行く手の闇の中から、白いドレーパリーが浮かんで見えた。肩までのプラチナブロンドの髪が、たおやかに揺れている。首には琥珀のペンダントが見える。
「・・・・・アリウス、なにゆえお前が・・・・・」
ラオメドンは小さな声で呟いた。
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