第三章 刻まれた記憶<8>
今年もまた、アリウス邸の深紅の薔薇は今を盛りと咲き誇っていた。
花園の中にサティーのドレ−パリーと金髪が見え隠れする。ヤクシーとユイマの朗らかな声が、薔薇の香りに運ばれてくる。
はやいもので、ユイマがアリウス邸に来て、二年近くの歳月が流れた。
穏やかに、微睡むような時間の流れだった。
「ねぇ・・・・・お願いだから、よく見てちょうだいね!」
懇願するサティーの声には、怯えが混じっている。
「・・・・・大丈夫ですよ。一所懸命探してますから」
棘を気にしながら、ユイマは薔薇の茂みの中に分け入り、茎を脇に寄せながら何かを探していた。
薄くしなやかな手の皮膚は、引っ掻き傷だらけになっている。薔薇の棘が皮膚に刺さろうとも、声をあげもせず、黙々と作業を続けていた。
「いてッ」
また、ユイマの小さく花弁のような唇から、ほんの微かに声が洩れた。
中腰から立ち上がったユイマは、あたりを見回した。
「ヤクシーも手伝ってよ!」
「何云ってるの! 虫退治は、男の仕事に決まっているのよ」
ヤクシーのつれない返事が返ってきた。
『虫』と聞いただけで、サティーの顔から血の気が失せた。考えように拠っては、極めて他愛のないことと言えるのだが、サティーにとっては重大事件だった。
薔薇を慈しみ、いつものように手入れをしていたサティーは、手の中に柔らかい、あまり経験したことのない感触をおぼえ、そっと手の平を眺めた。
そこには、在りうべきでない事態が生じていた。なんと、毛虫が潰れ緑の体液が見えたのだ。
スーと気が遠のいた。叫ぶことすら出来ず、失神したサティーはその場に倒れた。
薔薇の上に倒れたからたまらない。バラの刺が身体にまとわり付いた。
「きャーッ!」
その時はじめて、目覚めたサティーは、彼女らしからぬ大声を張り上げた。
ヤクシーとユイマが駆け寄り、大変な事が生じているのを知った。
毛虫だった。
サティーの身体は痙攣をおこし震えがとまらない。何も考えられない、虚ろに二人の姿を見つめるだけだった。
優しく、穏やかであるが、芯の強いところもあるサティーをして、ここまで恐れを与える事態はまず考えられない。短剣で胸を貫かれてもここまで恐怖することは無いだろう。
『いやーッ! 殺して!』
彼女は、心底そう思った。
二人でサティーを抱きかかえ、水場に連れていき・・・・・後始末は大変であった。
「ヤクシー、虫退治が男の仕事なら、アリウス様はどうなんだろう。毛虫と聞いた途端、部屋に籠もってしまったよ」
「あの人は、ダメ! ユイマ君、きみにだって分かるでしょ、卒倒するに決まってるんだから・・・・・ダメ人間なんだから」
その時、離れたところから怖々、声が掛かった。
「ねえ、だいじょうぶ?」
手を胸の前で組み、少し腰が引けてるサティーだった。
長い金髪を後ろに束ね、後ろ頭に巻き上げている。白く細いうなじと、柔らかい肩の曲線が、たまらなくあでやかだ。
「サティー、もう少し待ってね、今、ユイマ君と調べているから」
サティーは、探るようにそっと手のひらを眺めた。光に透かして見もした。緑色の痕跡は見あたらない。そっと、匂いを嗅いでみた。大丈夫だ! しかし、あのいやな感触だけは、残っている。
サティーは、激しく手を振った。そんなことで、おぞましい感触が取れるわけではないのだが、そうせざるを得ないのだ。
「ユイマ君、きみがアリウス様を尊敬しているのは、良く分かるわ。すごく綺麗で、物知りで、頭が切れて、執政官も勤めておられるのだから。でも、生活面に置いては欠陥人間よ。サティーにも、好きになっちゃあ駄目と良く言ってるんだけど・・・・・」
「そうかなぁー、ぼくから見たら、ヤクシーよりサティーの方が、しっかりしてると思うよ」
「確かに、サティーは、優しくて、美しくて、しかもしっかりしてるわ。私もネストル様の次に大好きよ。でも毛虫もそうだけど、人間どこかに欠点があるの。サティーは、大きな欠陥があると思えて仕方ないのよ・・・・・」
「そうかなぁー」
他愛のない会話をしながら、二人は薔薇の棘を避けながら、毛虫をさがしている。
「サティー、もう大丈夫だよ」
と、ユイマが言った。
「本当に、大丈夫?・・・・・向こうの生け垣の方は調べてないでしょ!」
まだ興奮から醒めていない。やっぱり変だ、いつもの穏やかで、優雅なサティーではない。
サティーにとっては重大事でも、和やかな風景とも言える。
一ヶ月前にも同じような事件が持ち上がった。アリウス邸に突然の話が舞い込んできて、ネストルのパルサ行きが決定したというのだ。
知らせは、パルコスよりもたらされた。ネストル、アリウスを含めた、三者会談が開かれ、結果的には、アケメネス家のカンピュセス王の強い懇願を聞き入れ、キュロス二世の教育係として、ネストルはパルサの地に赴任する事になった。
そこには、様々な勢力の思惑と陰謀がかくされていた。むろん、それに気がつかない三者ではないが、戦略的に、メディア国の将来を考えての結論であった。
ところが、アリウス邸に大騒動が持ち上がった。ヤクシーが完全に取り乱してしまい、アリウスにくってかかるのみならず、暴力まで振るう始末になったのだ。
「ヤクシー、興奮するな! 話しを聞け!」
アリウスは躍起になって、説明しようとするのだが、ヤクシーは聞く耳を持たない。
「ガチャーン」
返事は、食器を投げつけることであった。
アリウスは、途方に暮れ、取りあえず逃げ出すことにした。サティーが、何とかヤクシーの興奮を収めてくれることを期待しながら。
いまのヤクシーは、とてもアリウスの手に負えるものではない。
「サティー! ネストル様が、遠くに行かれてしまう。私、生きていけない・・・・・死ぬしかないわ!」
そう言うと、サティーの胸に泣き崩れてしまった。
「ヤクシー、泣かないで。私も出来るだけのことをするから、死ぬなんて言わないで、お願いよ」
「いや! 死ぬ、死んでやる」
ユイマは呆然と立ち尽くしていた。まったくどうして良いか分からないらしい。恐る恐るその場を立ち去ろうとしたその時、脱兎の如くヤクシーが駆け寄り、ユイマに抱きついた。
「ユイマ君、私って、なんて不幸な女なんでしょう・・・・・」
涙ながらに身の不幸を嘆くありさまだった。
苦心惨憺して、何とか二人でヤクシーをソファーに座らせた。
「落ち着いて、私がアリウス様によく事情を聞いてくるから・・・・・ね、ユイマ君、ヤクシーを頼むわね」
「うん、大丈夫だ・・・・・と思うよ」
ユイマは多少、不安そうである。
サティーが、アリウスのところへ行こうと階段の方に向かった時、柱の影から少し覗いている、白いプラチナブロンドの髪が眼に入った。
アリウスが、こわごわ応接室の中の様子を伺っていたのだ。
サティーは、不謹慎にも笑い声が洩れそうになり、思わず両手で自分の口を押さえた。
サティーの予感は的中した。ヤクシーにとっては、喜ばしい話しであった。
ネストルの望みもあり、パルサに旅立つ前に婚儀を挙げるべく、ヤクシーの意向を聞こうとした、アリウスだったのだ。
しかし、彼の言葉を、皆まで聞かずに、『ネストルがパルサへ行く』というところで、ヤクシーは逆上してしまった。
アリウスから、事情を聞いたサティーは、ヤクシーの頭を抱え、優しく金髪を撫で、気持ちを配慮しながら、穏やかに、詳しく説明した。むろん、ネストルの気持ちも伝えた。
「えッ、それ本当! 私、どうしよう・・・・・」
今まで泣いていた、ヤクシーの眼が歓喜に輝いた。
「サティー、夢じゃないわよね!」
「ヤクシー、もちろん承知よね?」
サティーの言葉を聞き終わらぬうちに、ヤクシーは脱兎の如く駆け出すと、部屋の隅で怖々様子を伺っていたアリウスに突進した。
アリウスは逃げだす暇もなかった。
ヤクシーは、激しくアリウスに抱きついた。
「アリウス様!・・・・・ありがとう!」
そう叫ぶと、ヤクシーは流れ出す涙をぬぐいもせずにアリウスの白いドレーパリーに顔を埋めた。どう対処していいか分からないアリウスは、困惑した薄水色の双眸を、サティーに向けた。あたかも、助けを求めるかのように。
サティーは微笑みながら、何度もうなずいた。
その時、ユイマの薄赤い唇から、小さく言葉が洩れた。
「たしか・・・・・なんて不幸な女って、言ったよな・・・・・」
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