ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






 第三章 刻まれた記憶<9>


婚礼の儀は、パルコスの舘で開かれた。
 メディアの慣例に従い、ネストルとヤクシーの二人は、別室にて婚姻の秘儀を行い、介添え役の三人の「マゴイ」に導かれて、新郎、新婦のために設けられた席に着いた。
 さすがの、ヤクシーも今日は神妙な顔をして、緊張の色が隠せない。ヤクシーの神妙な顔みると、アリウスにも感慨深いものがある。介添え役がマゴイと聞いたときには、もしや、ラオメドンがと思ったが、彼の見知らぬ五十過ぎのマゴイであった。
 別室では、黒衣のマゴイが二人に祝福を与える儀式があると、アリウスは聞いていた。
 後年のことだが、ユダヤのイエス・キリストの生誕の際には、七人のマゴイが祝福を与えている。
 ヤクシーは、幾重にも着重ねた艶やかな民族衣装に身を包み、顔も上気してほんのり紅くなっている。
 アリウスは思う。しょせん、今の内だけだろう。そのうち、辺りに気を配るのも忘れ、うっとりした瞳でネストルを見つめるに決まっている。そう思うとアリウスの頬は自然に緩んで来るのだった。
 ネストルは、メディア民族伝統の男子の服装である、革製の上着、ズボンを身に着け太いベルトをし、気品ある精悍さを醸し出していた
 祝福する人々が、次々に二人の前に出て、祝いの言葉をかける。

アリウス、サティー、ユイマの三人も、祝福の言葉を掛けるべく二人の前に出た。
「ヤクシー、とても綺麗よ」
 サティーは、そっと耳打ちをした。
 ヤクシーの、幾重にも重ねられた色鮮やかな衣装には、細かい刺繍が施されている。頭にも黒地に金糸で刺繍の施された布地を巻いていた。
「ありがとう、ほんとに綺麗? みんなサティーのおかげよ」
「幸せになってね・・・・・」
 そう言うと、サティーは、ヤクシーの手を優しく握った。
「ユイマ君、私は遠くへ行くことになるけど、君はサティーと一緒に頑張ってね」
「うん・・・・・」
 ユイマは相づちを打っただけだったが、眼は輝き決意を新たにしている。そんなユイマを見るにつけ、アリウスの胸は痛む。そんなに頑張る必要はないと声も掛けたくなる。その思いを振り切って、ネストルに話しかけた。
「ネストル殿、かの地に行かれたら、頑張っていただきたい」
「アリウス様も、十分にお気をつけられますよう」
「私は大丈夫である」
 またもや、根拠の無い自身である。
「ネストル殿は、彼の地のキュロス二世の教育係として・・・・・」
 議論が始まるかに見えたその時、サティーがアリウスのドレーパリーの裾を引いた。思わずサティーの顔を見たアリウスは、彼女が小さく首を振り諫めている事を感じた。
 ヤクシーの眼は吊り上がっている。
 
 祝宴は、大勢の人が集まり、思い思いに歓談している。歓声が方々からあがった。歌あり、踊りありで、賑やかに進んでいく。 
 色彩溢れる華やかな衣装に身を包んだ人々の前には、食べ物が山と積まれていた。丸焼きの子羊が数頭、香ばしい匂いを振りまいている。色とりどりの果物も溢れている。
 パルコスは先ほどから、葡萄酒の壺を手から離さない。
 大声で笑いながら、葡萄酒で喉を潤おす動作を繰り返している。
 パルコスの廻りからは、歓声が絶えることがない。
 パルコスの並びに用意された席で、アリウス、サティー、ユイマの三人は、優雅なドレーパリーを身に着け、辺りの色彩溢れる世界とは、異なった雰囲気をかもし出していた。
 広間の一群の人々は、ときおり、チラリと三人を見つめる、思い出したように微かなため息をもらす。
 人々の注意を引きつけてやまない、儚げで、たおやかではあるが、類希な存在感が確かにあった。

「ユイマ君、どう? 先ほどから黙っているけれど」
 ユイマは、華やかな宴に圧倒されていた。先ほどから、アリウスのドレーパリーの裾をギュッと握りしめている。
「ユイマ君、食べなさい、ほら」
 そう言うと、サティーは子羊の肉を切り分けたものを、皿にのせユイマにわたした。
「ありがとう・・・・・」
 ユイマは、辺りの華やかで騒々しい雰囲気に飲み込まれ、どういう対処をしていいか分からないらしい。
 不安げな、ユイマの気持ちを察したサティーは、なに繰れとユイマに気を使っている。
 アリウスにとって、婚礼の宴会への出席は初めての経験であった。ミレトスにいた頃から不思議と縁が無いのだ。
 男女が一対になる、着飾り、宴を催しても、動物としての生殖活動としか思えない気がする。それはそれで重要なことではあるが、アリウスは実感として、自分とは無縁な気がしてしかたがない。
 人が群れ、華やかな儀式に対しては、強い違和感を感ずる。人に心ならずも、気を配らねばならないことが不快なのだ。
 サティーは、臆するところが、全然ない。優雅に、雰囲気にとけ込んでいた。
「サティーもこういう風に、結婚するの?」 
 何気なく発っせられたユイマの言葉に、サティーの顔色が変わった。
 サティーにとっては思いも寄らぬことだったように、アリウスの目に映った。
「サティー、どうしたの?」
「・・・・・どうもしないわ、良いからユイマ君、食べなさい」
 そう言いながらも、心の動揺は隠すべくもない。 
 アリウスほど、サティーの動揺を理解出来る者はまずいない。ニネベの王宮、侍従にかしずかれた幼き日々。望むものがすべて叶えられる生活に、突如出現した野獣の群。身に加えられた荒々しい暴力。
 パルコス将軍の包容に身を任せ、たどり着いたアリウス邸での人々との交わり。そして、突然出現し、彼女を担ぎ上げようとする、アッシリア帝国の残党。皇帝の血を受け継ぐ最後の一人・・・・・。
 しかし、アリウスは言葉を発しない。サティーの足跡に想いを巡らせていく、薄水色の双眸は焦点を定めることなく、浮遊している。
 時々あることだが、完全に自分の世界に入り込んでいるらしい。

「ユイマ、パルコス様が側においでと呼んでるぞ」
 ユイマにそっと耳打ちをしたのは、目つきの鋭い精悍な美丈夫の、オリオンだった。彼がアリウス邸を訪れるようになって、二年が経っている。いささか、融通の効かない気はあるが、ネストルの紹介した通り、率直な青年であった。
 ユイマは、アリウスとサティーを見たが、二人はそれぞれ自分の世界に入り込んで、意識は此処にはないらしい。
 ユイマは、信頼しているオリオンの後に従い、パルコスの側に座った。
「おー、ユイマ!よく来た、もっと近うよれ」
「はい、パルコス様」 
 パルコスは、ユイマを抱き寄せると、頬ずりをした。パルコスの顎髭がユイマの柔らかい頬をゴシゴシ擦った。痛さに、ユイマの眼に涙が潤んだ。
「はッ、ははは・・・・・」
 パルコスは、大笑いをした。すこぶる機嫌が良いらしい。
「ユイマ、聞いておるぞ。頑張っておるそうではないか。アリウスが見所があるといっておったぞ。あの男、人を評するときは、微塵も主観をまじえない。その男が評価するんだ、自身を持ってよいぞ」
 パルコスはアリウスに聞こえぬように小声で話した。しかし、アリウスの耳には入っている。ユイマの事ならどんな些細なことでも、気になってしまうのだ。
「本当ですか! パルコス様。ぼく、学問においてアリウス様から、誉められた記憶がありません。『駄目だ、もっと勉めよ』と言われるばかりです」
 パルコスは、我が意をえたりとばかりに膝を叩いた。
「そうだろう、そうだろう、あやつそういう男だ。自身を持て、ユイマ。おい、オリオン、お主ユイマに武術を教えているらしいな?」
 そういうと、オリオンを見つめた。
 パルコスの前に控えているオリオンは、緊張している。なんと言ってもパルコスは、彼にとって雲の上の人物である。
「どうしうたオリオン、ほらッ」
 と言うなり、パルコスは、葡萄酒の壺をオリオンに放った。慌てて、受け取ったオリオンは、パルコスの意をくみ、葡萄酒を一気に飲んで、フーッと息をついた。
「見事!」
 オリオンは紅潮して頭を掻いた。葡萄酒のせいとは云えまい。
「恥ずかしながら、ユイマに武術の指導を致しております。一見か弱そうに見えますが、間違いなく、筋は良いです」
「え! 本当ですか? 何時も、駄目だと・・・・・」
 ユイマは、オリオンの言葉が信じられなかった。
「はッはは、ユイマ、お前の師匠はそろいも揃って頑固者だな。よし、こんど儂が指導してやろう。オリオン、お前もだ」
 オリオンの顔に驚愕がはしった。
「パルコス様、本当ですか?」
「オリオン、儂が嘘を言うと思うのか」
「ハッ、とんでもございませんッ!!」
 オリオンは、壺に口を着け、残っている葡萄酒を一気に飲んだ。あまりに急激に飲んだため、むせってしまい、身体を折り畳んで苦しそうに咳をした。
 またもや、パルコスの大笑いが響きわたった。

「娘さん、美味しい葡萄酒ですよ、どうですか」
 優しく話しかけて来たのは、初老の穏やかな顔をした女性であった。
 我に返ったサティーは、心配そうに見つめている眼を認めると、慌てて身繕いを正した。想念の世界から現実に戻ったのだ。
「ありがとうございます」
 カップを受け取るサティーの表情がなごんだ。
「先ほどから、気になっていたのですよ。悩みでもあるのですか? あなたの様な綺麗な娘さんが」
 サティーはひどく懐かしそうな表情をした。
 アリウスには分かる。サティーの心には、記憶の彼方にこのような場面が有ったであろう事が。人々の歓談、白い布の上に、溢れる果物・・・・・彼女に向けられる、優しいねぎらいの言葉の数々。
 サティーは、老女の好意の葡萄酒を慈しむように口に含んだ。
「美味しい! 本当に美味しいわ・・・・・」
 サティーの眼に涙が溢れ一筋、頬を伝わる。
「娘さん、もう少し楽になさっては、如何ですか? とても辛そうに見えますよ」
「えッ!」
 サティーは意外そうな顔をした。
「ごめんなさい。とても悪いことを申したようですね」
「とんでもございません! 本当にありがとうございます」
「心の持ち方一つで、人生は楽になりますよ」
 アリウスは、サティーの涙をこらえる横顔を見つめている。細く、か弱い体で精一杯何かを支えてきた心棒が、ひと時、緩んで見えた。
 身体を折り曲げ、嗚咽が漏れるのを必死にこらえている。
 サティーの細く白いうなじは、いかにも儚げで、肩に流れる曲線は、男なら誰しも、ある種の欲動を抱かずにはおられない。
 しかし、アリウスは彼女を抱き寄せることをせず、彼の細くしなやかな手で、サティーの背中を優しく撫ぜた。
「サティー、どうかしたのか?」
 少し困惑したような低い声で、アリウスが耳元で響いた。
 アリウスとも思えない、優しい問いかけだった。
 サティーは、アリウスの優しさに、必死に堪えていた何かが壊れた。その場に、泣き伏してしまった。
アリウスは、突然の出来事に驚いた。どうして良いか途方に暮れ、おろおろするばかりだ。
 初老の女性は、心配そうにサティーの片手を取ると、両手で慈しむように撫でてくれている。
 美しい男女が揃っていて、一方のヒローインが泣き崩れている。廻りの人々はそこに悲劇のドラマを想った。刺すような鋭い視線がアリウスを次々に襲ってきた。
 すぐ近くで、パルコスの大きな笑い声が聞こえた。祝宴の空気はまた元の華やかさに戻った。
 ヤクシーは、ネストルのことしか頭にないらしい。嬉しそうに、ネストルによりかかり、皆の冷やかしの言葉を夢うつつに聞いている。これまた、元のヤクシーに戻ったようである。
 



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