第三章 刻まれた記憶<10>
「ヤー!」
気合いと供に、ユイマは手にした槍を突きだした。
「オーッ」
オリオンが、突いてくる槍を払うと、ユイマの体勢が崩れた。つぎの瞬間、ピタリと穂先が喉元に吸い付いた。
「駄目だ! 相手が構えている処に突き掛かってどうする。虚を突くのだ。もう一度、来い」
二メートル半はあろうという槍の穂先は、危険防止の為、牛革で覆われている。ユイマは、槍を構えなおし、穂先をピタリと相手の眼に着けると、柄をしごきはじめた。
ユイマの額にはうっすら汗が滲んでいる。肩に緩やかに巻いている金髪を、帯革でキリリと縛り、革の筒袖、革ズボンを履き、凛々しい少年兵の姿をしていた。
その後、何度か技の応酬が行われた。
ユイマが呼吸を乱し、肩で息をはじめた頃、声が掛かった。
「そこまで、しばらく休め」
テラスの椅子に寄りかかり、カップの葡萄酒を傾けている大男、パルコスだった。
ドレーパリー姿でくつろいでいる。
稽古を止めた二人も、テラスにやって来た。さすがにオリオンは、呼吸を乱していない。
「ユイマ、なかなか使うではないか」
と、パルコスはユイマに言った。
「はい、ありがとうございます」
息を弾ませながら、ユイマは答えた。
「オリオン相手に、そこまで戦えればたいしたものだ。おいッ、オリオン、一手、合わせようか?」
「えッ、パルコス様、宜しいんですか?」
パルコスは、カップをテーブルの上に置くと、ゆっくり立ち上がった。
「ふーッ」
息を吐き、大きく伸びをすると、ユイマの槍を受け取り庭に出ていった。柄をしごいた後、準備運動をするかの如く槍を、大きく振り回した。
オリオンが、後に続いて庭に出た。彼は、興奮していた。伝説の『朱の獅子』に手合わせ願えるのである。気持ちが浮つき、足の運びも危うげだ、こんなことで勝負になるのだろうか?
ドレーパリーを風になびかせ、パルコスはすっくと立っている。脱力した自然体である。オリオンは、その姿を見ただけで、自分を遙かに超えた使い手であると悟った。それが、分かるということは、オリオンも相当の使い手であることは間違いない。
二人は、向かい合った。
オリオンの眼がキラリと光ると、彼は腰を落とし、半身に構えた。穂先は、ピタリとパルコスの眼に着けた。
パルコスは、微動だにしない。右手で柄を握ったまま泰然としている。
そのまま、二人は動かない。
暫く時が経過した。
オリオンの額に汗が浮かび、ツツーと頬を伝わった。『動けない、何処にも隙がない』呼吸も乱れてきた。
その時、パルコスがゆっくり、前に出た。オリオンの発する殺気を気にする風でもなく、自然に間合いに入った。オリオンが槍をそのまま伸ばせば届く距離だ。
だが、オリオンは動けない。毛ほどの隙も見いだすことが出来ないのだ。
パルコスの眼が光った。眼光が刺すようにオリオンの瞳を貫いた。心臓が締め付けられ、膝が微かに震えた。
パルコスの眼光に吸い込まれるように、オリオンが動いた。地面を蹴ると、身体ごと穂先を前に突きだした。
「いえッー!」
裂帛の気合いと供に突き出された槍は、パルコスの胸ぐらを突き抜けるかと思えた。
穂先が、まさに身体に触れようとした瞬間、パルコスの身体が開き、右手に持った槍で、突いてくる槍を受け流した。
力点を外し、そのまま巻き込むと、オリオンの槍は、彼の手を放れ大きく弧を描くと、青空高く舞い上がった。
オリオンは呆然とした。何が起こったか解らない。手の感触すらも感じられなかった。「うん、まー、こんなところか」
何ごとも無かったかのように、パルコスは言った。
オリオンは、肩でゼーゼー息をしながら、その場に跪いた。
圧倒的な技量の差は遺憾ともしがたい。『朱の獅子』は健在だった。
「オリオン、そちの技量、たいしたものである。もう十年も勉めれば、儂を凌駕するであろう」
「本当で・・・・・本当で、ございますか! パルコス様」
「嘘は、言わない。クレオンの若い時に、よく似ておる」
「クレオン将軍にですか!」
オリオンの崇拝する、クレオン将軍に比較されたのだ、嬉しさに鳥肌が立ち、膝の震えが収まらない。
ユイマは、二人の戦いを呆気にとられたように見つめていた。そこに、繰り広げられた動きには、野蛮な殺伐さとはかけ離れた美しさがあった。
執務室の窓より、先ほどからアリウスは、外の稽古風景を眺めていた。少し、陽の光が強いのか、額に皺を寄せ、薄水色の瞳を細くしている。
武術にはまったくと言って興味のない彼ではあるが、ユイマのことは気になる。
それにしても、先ほどのパルコスと、オリオンの対戦は、門外漢の彼をして、素晴らしい勝負だと思わせるものがあった。
戦う男と男の、殺気だった緊迫した空気。両者の気の流れが、色の違いとなって、アリウスの眼にも見えた。しかし、その中に自分は入って行けないのだ。悲しいかな、ユイマも、パルコス、オリオン側の人間であることを、改めて感じてしまった。
サティーが、盆にメロンを乗せてテラスに近づいていくのが見える。薄桃色のドレーパリーの姿が、美しい。背を真っ直ぐ伸ばし、いくぶん俯き加減に歩いていく。
ここに、ヤクシーの姿が見えない。彼女がいれば、場は一変に華やぐことだろう。
ヤクシーが、先に赴任したネストルの後を追い、パルサの地に出発して十日になる。
アリウスの胸に言いしれぬ寂しさが取り付いて離れない。自分は此処に立っているのに皆、思い思いの方向へ、自らの人生を求めて、去ってしまう気がした。
サティーが、盆をテーブルの上に置いた。
パルコスが、サティーをからかったのだろう、彼女は口を抑えて微笑んでいる。
四人のあいだで、何度か言葉が交わされたあと、オリオンとユイマが座を外し、何処かへ歩いていった。
サティーがこちらに向かって来るのが見える。
テラスを廻り、玄関に入ったらしい。もうすぐ顔を見せるはずだ。
「失礼いたします」
「サティーか」
「アリウス様、テラスの方で、ご一緒にいかがですか? 美味しいメロンがございますよ」
「ありがとう、書類を片付け終わったら行くことにしよう」
「では、私は飲み物の用意をいたしますので」
そう言うと、サティーは、お辞儀をして執務室を後にした。
立ち居振る舞いが自然で、すこぶる優雅である。
アリウスは、白いドレーパリーの裾をなびかせ、テラスへ向かった。四月にしては、少し陽が強すぎる。部屋を出てすぐのせいか、かなり眩しい。
「戴いておるぞ」
「どうぞ」
これが、パルコスとアリウスの挨拶である。
アリウスは、椅子を引くと、パルコスの横に腰掛けた。
「お前も、飲めよ」
そう言うと、パルコスは、カップをアリウスの前に置き、壺から葡萄酒を注いだ。
葡萄酒の壺はかなり大きいのだが、パルコスが持つと、小さく、軽く見える。
「部屋より拝見させて戴きました。先ほどの勝負は素晴らしいものでした」
「貴殿から、そう言われるとは光栄だ。まったく武術に興味のない貴殿からのう・・・・・ハッハハハ・・・・・いや、決して皮肉ではないぞ」
「承知しております」
丁度その時、布で濡れた髪を拭きながら、オリオンとユイマが、やって来た。水浴びをしてきたらしく、ドレーパリーに着替えていた。
「おお、良いところに来た。まあ座れ」
と言うと、パルコスは、ポンと拡げた両膝を叩いた。
「いま、アリウス殿から誉められたところだ。オリオン解るか、先ほどの勝負、戦う前からお前は負けていたぞ、何故だと思う?」
「はい、パルコス様と戦う、そのことだけで興奮して、冷静ではおられませんでした。さらに向かい合うと、とても眼を正視することが出来ませんでした」
「悪いが言わせて貰おう、それを『位負け』と言うのだ。位で勝つのが本当の勝ち方だ、技を磨け、人格も磨け、そして始めて戦わずして『位』で勝つことが出来る。お前も知っておろう、クレオンは技に於いては、儂を遙かに凌いでおる。しかし、『位』では儂がまだ少し上だろうと思う」
「ありがとうございます。肝に銘じて精進いたします」
「そう生真面目になるなよ、もう少し楽にせい。本当にクレオンによく似た漢であることよのう」
「随分楽しそうですね」
サティーが、盆に飲み物を乗せてやって来た。カップが四つと、壺が二つ乗せられている。かなり重そうだ。
ユイマは、すぐに立ち上がり盆に手をのばした。
「云って下されば、僕が持って来ましたものを」
「ありがとう、ユイマ君。果汁も持ってきましたから、好きな方を飲んでね」
サティーはニッコリ笑うと、そう言った。
「ここに、ヤクシーがいれば、本当に華やかでしょうに、女が一人では申し訳ないよう気がいたしますわ」
「いやー、ヤクシーのことでは、本当にみんなに世話になった。とくに、サティー、お主には、何から何まで世話になりっぱなしだ。あのじゃじゃ馬娘が、とにかく何とか様になったじゃからのう」
「とんでもございません、助かったのは私の方です。この館に来た当初は、これからどう生きていけばいいか何も分かりませんでした。ヤクシーのおかげで何とか立ち直ることが出来ました」
サティーの眼がすこし潤んできている。
「しかし、びっくりしましたわ。馬車を連ねてヤクシーを迎えに来られたのが、市場でお会いした方だなんて。右頬の深い傷がとても印象に残ってました」
と、気を取り直すようにサティーは云った。
「私もいささか驚いた。そして彼は、丁寧に詫びられた。『過日は、偽りを申してまことに相済みませんでした。アリウス殿の言われた通り、私はアケメネス家ゆかりの者で、名をメムノン、と申します』鍛え上げられた精悍な体つきに、鋭い目つきであった」
アリウスにとっても思いがけない出逢いだった。
パルコスも身を乗り出すと言った。
「じつは儂も以前会ったことがある。何年前になろうか、リディア王国、サルデスの都でのことであった。先方は非礼を詫びておった。あの男ただ者ではないぞ・・・・・そう言えばアリウス殿との初対面の日でもあったな。酒場でだ・・・・・」
アリウスにとっても、懐かしい思い出だ。パルコスとの初対面は、サルデスの酒場でのことだった。
パルコスは酒場の人々を相手に、上機嫌で酒をふるまっていた。彼の醸し出す雰囲気は、今この場でのそれと、少しも変わるところはない。
アリウスはパルコスらしいと思った。彼が酒を飲む時の振る舞いは、何処であろうとまったく同じである。ごく自然に、いかにも旨そうに先ほどから葡萄酒を飲み続けている。
陽はまだ高い。
「・・・・・アリウス殿。少し話もある、酔い覚ましに庭でも散歩しないか」
パルコスは、多少ほろ酔い加減かもしれない。しかし、彼はいくら飲んでも酩酊することはない。底がないのだ。
「私も、いくぶん酒が回ったようです。お供いたしましょう」
アリウスの白い頬が紅く、ほんのり色付いている。
抜けるような青空だ。
アリウスとパルコスは並んで、花園を歩いている。アリウスの隣で分厚い胸と肩が、ユックリ動く。彼は、懐かしい想いに囚われていた。かつて、毎日のように感じていた想いは、これではなかっただろうか?
風が優しく、プラチナブロンドの髪を撫でていく。アリウスは、細い指で髪をそっと掻き上げる。白いドレーパリーの裾がなびき、時に膝あたりまで露わになる。
アリウスも背は高いが、パルコスには、とても及ばない。横幅など、アリウスの倍はありそうだ。
庭には紅薔薇が咲き乱れていた。
紅薔薇には、アリウスの心を揺らす何かがある。
二人は花園に踏み込んでいった。
その時、パルコスの視界の隅で、黒い物が動いた。
一瞬、パルコスの全身に緊張が走った。数多の修羅場を潜ってきた、本能が危険を察知したのだ。
パルコスの眼光が、遙か先、塀の上に潜む二つの黒い人影をとらえた。その時、影の手元で、何かが光を反射しキラリと光った。
「危ない!」
パルコスはアリウスを掻き抱き、紅薔薇の上に伏せた。倒れ込むときアリウスの耳もとで、ヒューと風を切り裂く音が響いた。
アリウスには、何が起こったか分からない。耳朶にパルコスの息が掛かった。葡萄酒の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
心の暗闇から、何か得体の知れぬ物が顔を覗けてくる。あがらうことの出来ぬ、妖しい痺れが四肢を襲う。
「うッ・・・・・」
呻きがアリウスの唇から洩れた。
パルコスに仰向けに組敷かれた身体を、動かすことが出来ない。ヒュー、ヒューと風を切り裂く音が続く。
のし掛かる重みと、圧迫感に肌が反応をはじめる。アリウスの心に何かを呼び戻した。抵抗することが出来ない・・・・・もはや相手のなすがままになってしまったのだ。
微かに見えていた紅薔薇の色が薄れていく、反対に、芳しい香りが身体全体をつつみだした。
眼の前が真っ白くなり、ボーと意識が浮き上がっていった。
遠い過去より、淫らな記憶がよみがえる。胸は締め付けられ、心臓の鼓動が激しく脈打つ。
「あッ・・・・・」
身体の奥底から、淫欲の炎がチラチラ燃えはじめ、神経を伝わり全身に巡り出す。
薔薇の棘が、ドレ−パリーを透し、白い肌を突き刺す。
その痛みが快楽に変容していく。
アリウスの顔に、淫蕩な微笑みが浮かんだ。
両手は、指の色が変わるほど紅薔薇の茎を握りしめた。
アリウスの意識は遠のいていき、官能の揺らぎは、桃源の世界を浮遊しはじめる。
下帯に締め付けられた一物は、堅く勃起していた。
テラスから、死角を突いてオリオンとユイマが塀に向かって駆けだした。
襲撃者は失敗したのだ。
次の矢は飛んでこない。そう直感すると、パルコスは身を起し、脱兎の如く黒い影に向かって突進した。
紅薔薇の溢れる花園に、白いドレーパリーが横たわっていた。プラチナブロンドがばらけ、茎に絡まり付いている。
白い頬に紅い筋が見える。筋にはプツプツと血の玉が浮き出ていた。
両手は強く紅薔薇を握りしめ、白く細い指の間から、紅い血が流れ出ている。
すでに、意識は飛んでいた。
白いドレーパリーが妖しく悶え蠢く。薔薇の棘に刺されるたびに、血の紅い点がその数を増していく。
「アリウスさまーッ!」
サティーが駆け寄るが、アリウスには、悲鳴も足音も聞こえない。
ただ、遠のく意識の隅に、キラキラ輝く陽射しと、蒼い海の光景が浮かんでくる。
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