第三章 刻まれた記憶<11>
アナトリアのイオニア地方にミレトスと云うポリスがある。紀元前七世紀の末、ミレトスは、エーゲ海の交易都市として、重要な拠点であった。
船は行き交い、人々の往来は繁く、富の溢れる華やかなポリスだった。
陽ざしの強い、夏の昼下がりのことである。
港から離れた郊外にマンドロス家の別邸がある。その広壮な邸宅の一部屋から、小さな拍手が鳴った。
「マンドロス様、ほんとに歌がお上手ですね!」
十二歳のアリウスである。聡明そうな薄水色の瞳が、楽しげに輝いていた。
髭面のマンドロスの表情が笑顔で崩れた。哲学者というイメージから外れた、巌のような大きな身体をしたマンドロスの心は、喜びに包まれた。
「ありがとう、喜んでもらえて嬉しいよ。もっと練習して、上手くならねばな。ハッハハハ」
子どもの好きなマンドロスは、よく子どもに歌を唄ってきかせる。そして、歌を誉められるのが何より嬉しいのだ。
アナクシマンドロスが、子どもに歌を唄って聞かせるのが大好きなことは、プラトンの著述を通じて、二千五百年後の現代にまで伝えられている。
また、穏やかな性格と並はずれた学識は、当時の全ギリシャ世界を覆い尽くすかの感があった。
「マンドロスさま、もう一曲お願いします!」
「もう一曲か、うーん、お前も歌が好きだなあ」
マンドロスは満更でもなさそうである。それが証拠にアリウスの頭を撫で、微笑みながらまた、唄いだした。
ミレトスの郊外、イオニアの山間に囲まれた盆地には、裕福なポリスの市民が農場を経営している。ポリスの発祥はそもそも、自営農民をもって嚆矢とする。従って、商業の発展が著しくなった今も、市民にとって農場経営は憧れであり、ステータスであった。
アリウスとマンドロスのいる窓辺からは、夏の陽光に照らされ、オリーブ畑が延々と続いていた。
四十歳過ぎの大男で、金髪に碧眼そして髭をたくわえているマンドロスは、商船を所有する貿易商であるとともに、二十人を超す用人を使い、大きな果樹園を経営する農場主でもあった。
アリウスの父、テアゲネスは近隣に同じく果樹園を所有する大地主であり、マンドロスとは親友の間柄であった。
テアゲネスは特に天文学に造詣が深く、以前は航海術に優れ、ミレトス海軍を率いていた。
アリウスがギリシャ語と文芸の講義を受けるために、マンドロスの元へ通い始めて一年になる。
マンドロスは、利発で素直な少年を心より愛していた。
穏やかに流れている時を、あたかも切り裂くようにマンドロス家の執事が講義室へ飛び込んできた。
「たッ、たった今・・・・・テッ、テアゲネス家の用人がまいりました!」
その声は、いつもの冷静な執事とも思えぬ、上擦ったものであった。何か異変が起こったことは明らかだ。
「何ごとだ!」
マンドロスは戒めるような口調で言った。しかし、執事は慌てふためくばかりだ。
「うろたえるな! 用人を呼んで参れ!」
執事は部屋から駆けだした。狼狽する人間には、命令を下すことに限ると、マンドロスは承知していた。行動に指針を与えることにより、混乱する意識を現実に引き戻すのである。
息を切らせて駆け込んできた、テアゲネス家の用人の顔色は真っ青で、眼は血走っており、アリウスとマンドロスを認めるとその場に崩れた。
「アッ、アリウス様!・・・・・ご主人が・・・・・奥様を・・・・・」
上下の顎が合っていない。言葉がハッキリ聞き取れない。
「落ち着け!」
マンドロスは大声をあげ、用人の肩を大きな手でわしづかみにすると、前後に揺すった。 時ならぬ出来事に怯え、震えるアリウスは、先ほどまで講義を受けていたホメロスの書籍を胸に掻き抱いている。
気息を整えながら用人は、眼を潤ませながら叫んだ。
「ご主人様が奥様を・・・・・手に掛けられて・・・・・」
「馬車を用意せよ!」
アナクシマンドロスは大声で執事に命じた。
「大丈夫だ、大丈夫だ、私が付いている」
マンドロスはアリウスを掻き抱くと呻くように何度も言った。アリウスはマンドロスに身体をあずけ俯いていた。
馬車の用意が出来た。
マンドロスは馬車にアリウスを乗せると、テアゲネス邸へと急がせた。
(まさか? いや、ついに・・・・・)
マンドロスは、心のどこかでこういう事態が起こることを予想していた気がする。不安が的中したことに驚愕し、自責の念にかられるのだった。
(防ぐすべは・・・・・無かったのだろうか?)
急ぐ馬車の車軸の振動が、激しく身体を揺さぶる。アリウスはマンドロスの太い腕に肩を抱かれ震え続けている。眼は虚ろに足下を見つめている。黙したまま一言も喋らないアリウスであった。
テアゲネス邸がマンドロスの視界に入った。瀟洒な白亜の邸宅は不気味に静まり返って見えた。
門が見えた。控えているはずの門番の影が見当たらない。
マンドロスは門を駆け抜け、そのまま馬車を玄関にまで乗り付け、大声で叫んだ。
「誰か! 誰かあるかッ!」
声を聞きつけた、男と女の使用人が飛び出してきた。
「ああッ! アルウス様、マンドロス様・・・・・」
使用人の発した言葉は、助けを求めるようであったが、蒼白い顔に安堵の色が浮かんでくるのをマンドロスは見た。彼はアリウスを抱くと馬車を飛び降りた。
「どこだ!」
「こちらで・・・・・」
案内されるのも、もどかしげにマンドロスは邸内に足を踏み入れた。
長い回廊を案内された。マンドロスには行く先の見当はついている。
(クレオメストラの部屋に違いない)
案の定、その部屋の入り口には三人の使用人が、魂を抜かれたように呆然と立ち尽くしていた。
マンドロスは使用人を突き飛ばすかの如くに、部屋の中に駆け込んだ。彼の眼に飛び込んできた光景は、あまりに悲惨なものであった。
さしものマンドロスをして、愕然とし、しばらく立ち尽くさざるを得なかった。彼の鼻孔を生臭い匂いが浸し始めた。血の匂いだった。
美貌のアリウスの母、クレオメストラは胸を剣で貫かれ、仰向けに横たわっていた。白いドレーパリーは真っ赤な血で濡れ、まだ沸々と左胸からは血が流れ出ている。
血は床を浸し、彼女のプラチナブロンドの髪も朱く染まっている。薄水色の両眼はカッと見開かれ、虚空を睨んでいるようであった。
「アリウスッ!」
我に返ったマンドロスは、アリウスに駆け寄ると彼を抱き締め、眼を塞いだ。
しかし、その時すでにアリウスはこの場の光景をすべて脳髄に焼き付けた後であった。虚ろな眼差しをしたアリウスは、言葉も涙も漏らすことなく、ただホメロスの書籍を、必死に掻き抱いているだけであった。
遡ること一時間前である。
アリウスの母、クレオメストラは朝から食事もとらず、自分の部屋に引きこもっていた。 椅子に腰掛け、顎を上げた姿勢のままほとんど動かない。
薄水色の双眸は、うつろに虚空を見つめている。
プラチナブロンドの毛髪は、腰のあたりにまでとどき、白いドレーパリーから外気に晒された、うなじ、右肩、右腕は白蝋を想わせるごとく輝いていた。
彫像のように整った顔立ちは、三十三歳の年齢を、人をして二十代半ばとしか思わせないものだった。
その見事なまでの美しさの内なる魂は、もはやこの世にはなかった。
「また来たか! お前は私の何を探るのだ! 何を覗くのだ! ゆるせん! ゆるせん・・・・・!」
いままで身じろぎもしなかったクレオメストラは、突然立ち上がると、悲鳴のような声をあげ、叫び続けた。
部屋中を歩き回る、薄水色の双眸は明らかに常道を逸していた。
精神の狂気は身体を犯し始め、全身が小刻みに震えだした。
クレオメストラが、精神の異常をきたし始めたのは、五年前にさかのぼる。アリウスの妹コレーが生まれてからであった。
最初の異変は人を遠ざける兆候が見えたことである。さらに時を経るにしたがい、他人との交渉を断絶するようになり、余人との会話が成立しなくなっていった。
そして、明らかに神秘的妄想をもつに至り、妄想は時の経過とともに、幻覚となって彼女の魂を揺さぶった。
さらに、彼女の呻きと供に発せられる言葉を注意して聞けば、神秘的妄想は性的妄想に類似していることが理解できるだろう。
いや、性的妄想と同時に出現していると云ったほうが正解かもしてない。
狂おしく、淫らな精神の暗黒から吹き出てきた妄想であった。
彼女の住む空間は、人間の世界から離脱していき、思考は空中を浮遊した。
何処より来たりて、何処ともなく去っていく魂。
風の響きであった。
「キャーッ!」
コレーが泣き叫んだ。
叫び声の聞こえた、クレオメストラの部屋にテアゲネスが飛び込んだ。
近頃、煩雑にクレオメストラは自傷行為に走るようになっていた。部屋の机の上には隠していたはずの剣が不気味な光を放っていた。
「大丈夫だ! しっかりしろ!」
虚しい呼びかけであった。狂気に支配されたクレオメストラの精神は、この世に存在していないのだ。
以前は時々起こる発作であったが、ここ数ヶ月は毎日のように起こった。
金髪碧眼で背が高く、高貴さをそなえたテアゲネスの風貌は、度重なる心労で疲労の色を濃くしている。さらに眼は赤く充血していた。
凄まじい眼つきで、クレオメストラは夫を睨み、首を激しく廻し始めた。
「心配するな! 誰も来るわけがない!」
虚しく、叫びながらテアゲネスは手折れそうな妻の痩身を抱き締めた。
「ひィーッ! ひィーッ!」
意味不明の言葉を発しながら、クレオメストラは髪を乱し、さらに激しく首を振り続けた。
「ひィーッ!」
クレオメストラは、抱き締めるテアゲネスの首筋に白い歯を立て噛みついた。
テアゲネスは身じろぎもせず、ひたすら妻の痩身を抱き続けた。
クレオメストラの唇より、赤い血潮が流れ出た。そのあまりに美しい相貌のゆえ、凄絶さは、この世のものとは思われなかった。
コレーは、茫然とこの景色を見ていた。眼は虚ろであった。幼い心はこの場の衝撃に絶えられず、明らかに引き裂かれていた。
テアゲネスはしばらくそのままに、妻の身体を離すことはしなかった。しだいに妻の乱れた呼吸が収まっていくのを感じた。
ゆっくり彼女を椅子に座らせ、白い布で口の血をぬぐい、自らの首筋を拭いた。テアゲネスの双眸は悲しみに沈んでおり、狂わないのが不思議なほどである。
テアゲネスが退出しようと出口に向かった時である。
「ひィーッ!」
と、叫び声をあげブロンズ像を握りしめるとクレオメストラは、娘のコレーの頭上に振りかぶった。
テアゲネスに意識は無かった。自然に身体が動いていた。
咄嗟に彼は、クレオメストラを突き飛ばすと、机の上の剣を取り彼女の胸を突き刺した。さらに剣を引き抜くと、何度も何度も突き立てた。
手応えを感じない。剣は白いドレーパリーに吸い込まれるように動く。赤い血潮が吹き出し、彼は顔と衣服に返り血を浴びた。
テアゲネスの脳髄は、何の反応も起こしてはくれない。茫然と立ちすくむ彼が眼にしたのは、おぞましい光景だった。
娘のコレーが、頭から返り血を浴びながら、ニヤ、ニヤ、笑っていた。幼い心は完全に狂ってしまったのだ。
コレーの有様を認めたテアゲネスの精神は、不幸なことに現実に戻ってしまった。事態のすべてを認識してしまい、絶望の淵で、心の均衡が音を立てて崩壊した。何かが砕け散ってしまったのである。
彼は狂ったコレーを掻き抱くと、屋外へ飛び出していった。
テアゲネスとコレーの死体があがったとの報告がもたらされたのは、二日後のことである。二人が、エーゲ海の蒼紫色の水面に、高い崖から身を投げた姿は、数人から目撃されており、死体の発見は時間の問題ではあった。
テアゲネス邸に報告がもたらされた時、アリウスの側にはマンドロスと、彼の妻、ペルセが一緒だった。
ペルセはアリウスの肩を抱き、彼のプラチナブロンドの髪を優しく梳いていた。子のないペルセに取って、十二歳のアリウスはすでに我が子であった。
身よりのないアリウスにとって、マンドロスとペルセの存在は、かけがいのないものであった。
あの日以来、アリウスは寡黙になっていた。数年に渡る家庭内での不幸に立ち向かうかのように明るく振る舞っている少年だったが、さすがに事件は彼の心に暗い影を落とした。
血の惨劇の光景は深く脳髄に刻み込まれた。
そして、母親と瓜二つと云われた、アリウスの身体を流れる血の宿命。
はたして少年はその二つから逃れることが出来るのだろうか?
ミレトス郊外の舘で、母親と同じ薄水色の双眸を宿す、十二歳の少年アリウスの瞳を、真夏の陽光が容赦なく射抜いた。
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