第三章 刻まれた記憶<12>
「接岸! クレタ商船だ!」
石造りの高楼から声が響いた。監視所から監視員が叫んでいる。その声を合図に、波止場は急に慌ただしくなった。ロープを肩に、男達が駆け回る。長い棒の先端に鉤の着いた物を持っているのも居る。
十七歳のアリウスは、岸壁の側に組み上げられた石の上に座り海を見つめていた。
エーゲ海の色は蒼に葡萄酒を流しこんだ、紫色をしている。魚類の影は薄く、決して豊かな海ではない。エーゲ海の価値は、入り組んだ大陸と無数の島々を結ぶ交通路としてのそれである。
胴回りを、白地に金糸で刺繍を施された帯で締め、踵までの白いドレーパリーで身を包んだアリウスは、プラチナブロンドの髪を風になびかせ、薄水色の双眸は水平線の彼方を見つめたまま微動だにしない。
堅牢な石造りの船着き場では、人々の往来が繁忙を極めている。もうすぐクレタ島からの交易船が接岸するのだ。毎日数回は繰り返される光景であった。
「アリウス様、何が見えますか?」
声を掛けてきたのは、ペリアスだった。彼は元々カルタゴの新興貴族であったが、ギリシャ連合との戦いで戦時捕虜となり、ミレトスへ連れてこられたという経歴を持っていた。
歳は四十を越え、背は高く痩身を貫頭衣に包み、ズボンを穿いている。気品と教養は彼をして、奴隷の身でありながら、ミレトス港の監督官の地位に付くのに長い時間は要しなかった。
「ペリアスか、私は何を見ているのだろう」
アリウスは振り向くこともせず答えた。おかしな返答である。それだけに、二人の親密さ解ろうと言うものだ。アリウスの眼にはエーゲ海が写っているが、他のことを考えていたのだ。
「自分の心でも観ていなさるのか?」
「ペリアス、お前は国に帰りたいと思わないか?」
アリウスが返したのは、回答ではなく、質問だった。
「おそらく、数年以内に帰ることになると思います。身代金の支払いは、ミレトスとの間で合意が出来ております。しかし、此処に来て十年近くになります、未練もあります」
そう言うと、ペリアスはアリウスの横に腰を降ろした。
広壮なマンドロス家の本宅は、港を望む丘の上に建っている。いまアリウスが座っている所まで歩いても、それほど時間がかからず、散歩するには丁度よい距離だ。
港に来て海を眺めるのが日課のようになっているアリウスは、毎日のようにペリアスと話しをした。
「どのような、未練なのか?」
「人との交わりです。マンドロス様をはじめイオニア学派とよばれる人々の知性は、今の世界を見渡してもこれ以上、望むべくはなく、素晴らしいと思います。むろんアリウス様との交流も私にとって大切なものです」
それは、アリウスにとっても同じことが言えた。元々がカルタゴの交易商人出身であるペリアスからの海外情報は、アリウスの胸をときめかせることが多かった。
「ペリアス、お願いがあるのだが」
「何でしょう」
「スカンジナビアとは、どのような所なのだろう?」
アリウスは胸にわだかまっていたことを思い切って尋ねた。
ペリウスを見つめるアリウスの秀麗な顔には、真剣さの中に、幼い影がまだ少し残っている。
「スカンジナビア、その言葉は誰から聞かれましたか?」
詰問するように、ペリアスは言った。
「義父、マンドロスから聞いた」
ペリウスは顎髭を撫でながら、少し考え込むと、踏ん切りを付けたように言い出した。
「私は、あなたから何時かは、その質問が出ると思っていました」
「どういうことだ?」
「マンドロス様から聞かれたのならば、良いでしょう。あなたの風貌は明らかに、スカンジナビア人の血を引いていると思われます」
「スカンジナビア人! 父は間違いなくギリシャ人だ、しかし、母は・・・・・」
そう言いながら、アリウスはペリウスの眼を覗き込むように見つめた。
「エトルリアの北に、ガリアがあることはご存知ですね。ガリアの北方にゲルマニアがあります。そのさらに北方、海を隔てたところにある大地を、スカンジナビアと言います、そこに住む人々がスカンジナビア人です」
ペリアスはとつとつと話し出した。
「そんなに、北に位置しているのか?」
「そうです、あまりに北方に位置するため、太陽の恵みを受けることが少なく、一年の半分は、夜の闇と氷に閉ざされた世界です」
「では、残りの半分は?」
アリウスはペリアスの話しに引き込まれていった。波止場の騒音がまったく耳に入らない。
「残りの半分は、弱々しい陽の光が、深い緑の森林に吸い込まれ、薄暗い夜の来ない世界です。大地は森林に覆われ、魑魅魍魎が跋扈すると言われています。むろん、農作物を育てることは不可能です。スカンジナビア人は、魚と獣を獲り、トナカイと言う動物を飼育することで生活をしています」
アリウスは、想像を巡らした。自らの体内に間違いなく、スカンジナビア人の血が流れているのだ。しかし、そのような過酷な条件の中で、人は果たして生きていけるのだろうか?
「スカンジナビア人は、背の高い痩身、白金の髪、透き通る白い肌、薄水色の瞳を、身体の特徴として持っています。アリウス様と同じように・・・・・」
私、そして母クレオメストラ・・・・・鳥肌をたてながらアリウスは、血の遠い記憶を探り続けだした。よりどころのない、不安に包まれていく。
「ペリアスは、スカンジナビア人と交流があったのか?」
「いえ、直接はありません。ガリア人の貿易商を通じて話しを聞いたのです。スカンジナビアの物資も僅かながらギリシャに来ていますよ」
「えッ! それは何だ?」
「大部分は、金、銀をはじめとする金属です。そして、琥珀です」
「コハク? 初めて聞く名だが?」
「遙か何万年も前の樹脂の化石です。黄色く半透明で光沢があり、身に着ける装飾品として高価なものです。何とか探し出してアリウス様にプレゼントしましょう、きっとお似合いのはずです」
「本当か?」
「お約束いたします」
ペリアスは自信を持って答えた。
樹脂の化石! アリオスの想いは、遙かなスカンジナビアの薄暗い森林に漂った。魚を獲り、獣を追う人々が緑の薄いヴェールを透して見える。空から、弱々しい陽の光が樹木を照らしていた。その大気と生物の結晶が琥珀に違いない。
「ペリアス、早く欲しいものだ」
「お任せ下さい。私には地中海に張り巡らした人脈がございます。それゆえ、奴隷の身でありながら監督官の地位にあるとも言えます」
「琥珀か・・・・・」
二人はそれぞれの想いを胸に秘したまま、黙って、海の彼方の水平線に視線を移した。
「船がくるぞ!」
高楼から、また監視員の声が響いた。海には白い帆を掲げた新たな船が、港を目指しているが、アリウスの眼にも耳にも入らない。
どのぐらい時間が経過したことだろう。アリウスもペリアスも言葉を発しない。
エーゲ海の風は、アリウスのプラチナブロンドの髪を撫で続けている。潮の香りが心に浸みる、心なしか母の血の匂いと似ているとアリウスは思った。
昨夜のことであった。
軽くドアをノックする音が聞こえた。
「いいよ、入りたまえ」
マンドロスが言った。太く低い声だが、えも言われない優しさに満ちている。
「おじゃまします」
入ってきたのは、マンドロスの妻ペルセだった。マンドロスとアリウスは開いていた本を閉じた。アリウスは立ち上がると、机の上の書籍を片付け始めた。
片付けが終わると、アリウスは椅子に腰を降ろしペルセに微笑みかけた。ペルセはグラスを二つと、葡萄酒の壺をトレーに乗せたまま、黙って机のうえに置いた。
気品に満ちた、中年の綺麗な婦人である。
「アリウス、頑張っているわね」
「はい、すべて、お二人のおかげです」
アリウスは心より感謝している。
ペルセは穏やかな眼差しで、二人を交互に見つめるとお辞儀をし、退出していった。彼女が、お辞儀をするのは、二人が心魂を傾ける学問に対してであることは、アリウスも十分に承知していた。
講義の頃合いをみて、葡萄酒を持ってくるのはペルセの役目である。使用人に任せればいいのだが、彼女は決してこの役目を他人には譲らないのだ。
ガラスは有史以前から存在していた。広く用いられるようになったのは、古エジプト王朝からであるが、大部分が装飾用としてであり、この当時のミレトスでもグラスとしての仕様は高価であり一般的ではなかったが、アリウスが特にグラスを好んだ。
透き通る冷たいグラスにアリウスは魅了されていた。アリウスの望みは何でも叶えてやりたいペルセが、苦労して手に入れたものだった。
講義が一段落し、葡萄酒を飲みながらマンドロスと話すのは、アリウスにとって、この上もない至福の時だった。
しかし、今日は少し違う。以前から聞こう聞こうと思っていたことを、今日こそ切り出そうと機会を伺っていたのだ。
「マンドロス様、以前から心にわだかまっていたことがあります。よろしいでしょうか?」
アリウスは、マンドロスの眼を見つめながら、意を決したように言った。
「何なりと申しなさい。遠慮することはない」
マンドロスもアリウスから視線を外さない。何を聞きたいのか、おおよその予測はついているかに見えた。
「私の髪と眼の色です。そして、母の・・・・・。ミレトスをはじめ、ギリシャ世界ではまず見かけません。もしかして、違う種族なのでしょうか? もしそうなら、何処よりきたのでしょうか?」
アリウスにとって、極めて深刻な質問であった。常に考えてきた恐怖をともなう疑問だった。
「君がそのことを、気に病んでいたのは知っていた。遺伝について調べているのも知っておる。私の知る範囲で答えよう」
アリウスの質問は、マンドロスの予想した通りだった。マンドロスはこれから話すことを、頭の中で整理するように葡萄酒を口に含み、飲み込んだ。
アリウスは食い入るように、マンドロスを見つめ、彼の口から出てくる次の言葉を待った。
「今から五百年前の出来事である。『海の民』と称される民族の、大規模な来襲があった。住民を伴った大船団であったそうだ。ヒッタイト王国はその戦いで疲弊し、その後滅亡の道を辿ることになった。エジプトは彼らをかろうじて撃退した。エーゲ海の諸国はそう言う訳にはいかなかった。クレタ、キクラデスと次々に侵略されていった」
マンドロスは直接には関係のないような話しから始めた。
しかし、アリウスは知っている。マンドロスが前置きから話し出すのはきわめて重要な案件であるということを。
「ギリシャ本土も例外ではない。さしもの栄華を誇ったミケーネ王朝も崩壊してしまい、そして、再び蘇ることは無かった。東地中海一帯を『海の民』が席巻し、住民をともなって来襲した征服者は各地に自らの王朝を打ち立てた。彼ら、征服者は北の果てスカンジナビアから来た民族であったという。そして、彼らの外見的特徴は、白い肌、白金の髪、薄水色の瞳である。そう、アリウス、君のように」
アリウスの胸は高鳴り、呼吸が乱れるのを止めようもなかった。薄水色の瞳は、まばたきするのも忘れマンドロスを見つめていた。
マンドロスは又、葡萄酒を一口飲み、大きく息を吐いた。アリウスの反応を探りながら、意を決したように語りだした。
「クレタ島の北に、ティラ島という小さな島がある。そこが、君の母の故郷だ・・・・・五百年という時の経過は、各地に打ち立てられた『海の民』の王朝をすべて滅ぼしてしまった。最後に残ったのがティラ島の小さな王朝であった。それまでは忘れられていたティラ島が注目を集め各国の争奪の的になったのは、交易の発展が原因だ。航路の要にあたるティラ島をミレトスは攻めた。そして、攻撃軍の司令官が君の父、テアゲネスである。『海の民』の最後の王朝は滅んだ。最後の王女、クレオメストラ。君の母のあまりの美しさに、テアゲネスは恋いに落ち、自らの妻とした・・・・・」
マンドロスの長い話は終わった。まるで講義でもするかのように、感情を抑えた話し方だった。
アリウスは呼吸をするのも忘れていた。大きなため息をついた。自分の血の中に、壮大なドラマが繰り広げられていたことに驚くと同時に、疑問が明らかになり安堵するものがあった。知らず知らずに、目頭が潤んできた。
マンドロスはその太い腕で、アリウスの頭を優しく抱くと、
「誇りに思って良い。君は、遙か昔、万里の波濤を超え、東地中海を席巻した偉大なる『海の民』の血と、勇者テアゲネスの血を引いているのだ」
アリウスの頭に一つの想念が駆けめぐった。
(そうだ、私は母、クレオメストラの血を色濃く受け継いでいるのだ・・・・・)
安堵したのもつかの間、アリウスの心に、あの日の、母の悲惨な姿がありありと浮かんだ。
(滅びた民族の最後の生き残りは私か! 白いドレーパリーに染まった、真っ赤な血痕が、滅びの象徴として浮かんでくる。消えてくれ! 拭おうとしてもだめだ。私も・・・・・私も、滅びるのだ!)
アリウスの背筋に恐怖が走り、身体が小刻みに震えた。
頭を抱いたマンドロスは、いたいけな魂に慈悲深い体温をそそぎ込み続けている。
マンドロスの慈悲の心が、アリウスの心の闇に小さな炎となって燃えてきた。その炎に、アリウスは驚き、戸惑いはじめた。
この狂おしい炎を自覚したのはいつからだろう?
切なく、胸が潰れるように苦しい。マンドロスの鼓動の響きが聞こえ、微かな体臭が鼻腔をくすぐる。抱かれた身体の力が抜け、意識が朦朧となって行った。
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