第三章 刻まれた記憶<13>
陽はまだ高い。港でペリアスと別れたアリウスは、後背の敷地を埋め尽くすばかりの倉庫群を抜けると、煩雑に馬車の行き交う街道を渡り、丘陵の登り坂を歩いていた。
ミレトスでも高級とされている地域だけに、それぞれ趣をこらした広壮な白亜の建物が立ち並んでいる。
どの趣向もアリウスには合わない。大理石の壁が陽を照らすのが眩しすぎ、その健康的な明るさが、彼の心をイライラさせるのだ。くすんだ灰色の壁、薄暗い部屋の中にぽつねんと、一人座る自分の姿が一番落ち着く風景だ。
ひときわ大きな建物の前に出た。その土台の石垣のところに、オリーブの木が植えられており、濃い緑の葉が日陰を作っている。そこで道は二股に分かれていた。
此処までたどり着くと、アリウスは歩いて来た道を振り帰った。いつもと変わらぬ港の佇まいと、エーゲ海が絵画のように静まり返っている。
何も変わらない、いや、変わることなど出来はしないのだ。アリウスは、諦めとも、失意ともつかぬ、気怠い気分に落ち込んでいく。これまたいつもの事であった。
二股の道を、マンドロス邸とは、違う方向に歩を進めた。
足が重い。心がはずまない。いやで仕方がないのだが、どうしてもこの道を辿ってしまう。待っているであろう男のことを思い浮かべると、嫌悪感にさいなまれる。
しかし、アリウスの肌と肉は、あきらかにその男を欲している。アリウスは拒むことが出来ない。強い肉への欲求がアリウスの心を傷つけ、そして痛めつける。
足取りも重く、彼は男の邸宅へ歩いていった。サンダルの底が、尖った石を何度も踏みつけた。
六ヶ月前のことであった。アリウスは、いつものように港で、入出港する船、走り回る人々、潮の香溢れる男達の喧噪の内に身を置き、想いに浸る時間を過ごした。
毎日同じ時間、港で過ごすのは習慣になっている。想いは時空を超え、肉体の束縛を受けることなく、何処へでも飛んでいける。自室で想いに耽るのと、潮風に当たりながらのそれとは、明らかに趣を異にしていた。
その日も、いつものような時間を過ごした後、丘陵の上り坂をマンドロス邸に向かって帰り道を辿っていた。
今日もいる! オリーブの木陰で、男が石の上に腰を掛け媚びるような目つきで、アリウスをジッと見つめている。時間を計ってこの場所にいるに違いない。このところ毎日のことだ。
男の目つきで、彼が何を欲しているか、アリウスには解っている。決して珍しいことではない。今まで、あらゆる男達の欲望にたぎった眼差しに晒されはしたが、アリウスはかたくなに忌避してきた。
男はこれ見よがしに、均整の取れた身体を誇示している。金髪で健康的な顔立ちは、神話の神々を彷彿させる美しさがある。一方見方によっては、軽薄さを映し出していると言えなくもない。年の頃は二十五〜六であろうか、自分の姿態に自信満々という素振りである。
自分を相手に魅力的に見せようとする一つの類型だろう。と、アリウスは身も蓋も無いことを思いつつも、意識は男の姿態を追っている。
「やー、君。一寸いいかい?」
男の横を通り過ぎようとした時、突然声を掛けられた。
「何ですか?」
アリウスは素っ気ない返事をした。
「君は、マンドロス家のアリウス君だよね」
「ええ、そうですが」
「毎日のように港へ行っているようだが、何か目的でも有るのかい?」
アリウスが毎日のように港へ行く目的など、この男が知りたい訳はないはずだ。単に言葉を交わす糸口に違いない。
「別に、ただ海を見るのが好きなだけです」
「海はいいね。俺も好きだよ、近々、市民の義務として海軍に入る予定だ」
「海軍ですか?」
アリウスは、仕方なく相づちを打った。
「そうだ、健全な男子たるもの、身体を鍛えて市民の義務を遂行しなくては・・・・・我が家はこの近くだ。一寸寄って話をしないか」
「今日はちょっと・・・・・」
「良いじゃないか、一寸だけだ」
「いえ、今日は用事がありますので失礼します」
アリウスはハッキリ言いきった。
「そうか、・・・・・」
男がまだ何かを言おうとしたが、アリウスは取り合わず家へ向かって歩き出した。
それ以後も、男が毎日のように、オリーブの木陰で待っていた。何かと、アリウスに話しかけてくる。
「やー、今日もあったね。俺の名はパライモンと言うんだ」
その都度、アリウスは適当にあしらっていた。しかし、徐々に、彼の心境に変化が生じてきた。
男の望んでいる事をアリウスは十分に理解している。気持ちを抑えつけてはいるが心の中では、アリウス自身、その事に強く引かれるものがあることを知っている。十七歳という年齢は、その事を体験する年齢としては、むしろ遅いほうだろう。
アリウスには、好きな人がいた。堪らなく好きな人が・・・・・。一日中、その人のことを想い、誰にも口に出来ない妄想を抱いていた。しかしアリウスは抑えた、彼のの素振りからは、そのような感情に苦しんでいることなど、まったく窺うことはできない。決して叶うことのない想い・・・・・。恋しさに狂わないのが不思議であった。
その日も、アリウスは港に座っていた。人々がざわめく、喧噪の中に身を置き一人静かに、瞑想に耽るのがアリウスは、堪らなく好きだった。
しばらくすると、ペルアスがやって来た。ペリアスは、アリウスの側に腰を下ろすと、アリウスと同じ方向に視線を向け、黙したまま海を見つめ始めた。
アリウスの趣向を十分承知し、邪魔にならないよう気配りをしているようにアリウスには思えた。
おそらく、アリウスが話しかけない限り、ペリアスから口を開くことはないであろう。「ペリアスは詩や文芸の話しはしないが、興味はないのか?」
アリウスが言葉をかけた。
「読みはしますが、それほど、心引かれることはありません」
「なぜだ、あれほど素晴らしいものなのに」
「私には、頭の中の世界より、現実の世界の方がおもしろいのです」
「現実の世界?」
アリウスはペリウスを見つめた。その目は、話を聞きたくてたまらぬという眼であった。ペリウスは小さく頷くと、話だした。
「アリウス様、目の前の海は、人を隔てます。しかし、結びつけもします。船で海に乗り出し、様々な人々、様々な風物と出会うと思うと心躍るものがあります。世の中には、空想することもできない、不思議な出来事に満ちあふれています。恐怖にさいなまれる事態にも遭遇します。美しい恋情にも出会います。そうです、すべては、あらゆる人との係わりのなかにあっるのです。現実の破天荒な出来事に出会うと、私は、人間の想像力が、いかに貧困でみすぼらしいかを思い知らされます。広い世界は、興奮、悲愛、快楽、苦痛に充ちています。その世界へ乗り出す為には、航海術、造船技術、そして金、銀を必要とします。私の興味はそちらにあるのです」
アリウスはペリアスの言う、現実世界には興味の方向が向いていないと思っている。想像の世界にこそ、人に糾弾されず、いや少なくとも人の視線を気にする必要がない安らぎがある。空を自由に飛び回る空想は、人の想像力の限界以外には、制限を受けることはない。
しかし、アリウスは解っている。想像力を育むのは、現実世界の経験であることを。無縁の人との接触を恐れるアリウスは、書籍を通して、構築された現実世界を窺う。
実際の手に触れる現実世界。その世界をこいねがう気持ちも強い。そうありたいとも思う。しかし、どうしてもアリウスは一歩を踏み出せない。人との交わりは、関係が深くなればなるほど、お互いに傷つけあうことになるからだ。
そして、空想の世界と異なり、一度おかしたことを、消し去ることは出来ない。極端に言えば、正当化するか死ぬしかないと、アリウスは思っている。
「アリウス様が、詩や文芸の世界に恋しておられるのは良く分かります」
「恋して・・・・・」
「そうです、言い方を替えれば、魅了されているのです。円形劇場でおこなわれる、悲劇の出し物をご覧になったあとは、港に来られても、しばらくはその世界から戻れないような感じがしますよ」
ペリアスの言うとおりだった。劇場で演じられる悲劇は、アリウスの魂を揺らし、しばらく現実世界に戻れなくなるのだ。しかも、悲劇は常に人間の性の不条理を表明し、悲惨であり、滅びを意味していた。
「でも、私はそういう感性を拒否するペリアスが好きだよ」
「だからこそ、好きなのです。おそらく私と話すことは、アリウス様にとって癒しになるとおもいますよ」
「人の性はどうしようもないのだろうか?」
「どうしようもないと思います。あとは自分で飼い慣らすしかないでしょう」
俯いて話したアリウスに、ペリウスは空を見上げてそう言った。
「・・・・・比較の問題ですが、私の故国カルタゴには、私のような者が多く。ミレトスには貴方のような方、つまり、観念の作り出す空想の世界に価値を見いだす人々が多いと思います。男性同士の交合、愛し合うことが崇高だとミレトスでは一般的に思われていますが、私には詩、文芸、劇を愛する心と通ずるのではないかと想像します」
「カルタゴでは、男が男を愛することはないのか?」
「ございます。しかし、まれです」
「ペリウスは、男同士の愛の交合については、どう思う?」
「私に、聞かれるのですか。結論から言いますと、それもまた、人間の在りようとして認めます」
アリウスには、ペリウスがこの問題に関して、深い考えを持っていると感じた。
「その件に関する、ペリウスの考えをもっと言って欲しい」
「なぜ私に?」
「現実世界に興味を覚える。ペリウスの話しこそ聞いてみたい」
ペリウスが顎に手をやり、撫で始めた。アリウスの問いかけに直ぐには答えない。考えを整理しているのだろう。
「ミレトスは繁栄に充ちています。衣食住、人間の生存する最低限の条件を獲得する苦労はなく、美しく着飾ること、美味を追求すること、演劇を楽しむこと、学問に励むこと事が、許されます。ただし、自由な市民にとってのみですが。その体制を支えるのは多数の奴隷です。奴隷制度の頂点に位置する自由人にのみ許された快楽なのです」
「ペリウスの言うごとく、私には生きていく必要最低限のことは保証されている。その事を理由に、したいことが出来ないと言うことはない。マンドロス様という庇護者もおられる。しかし、私の魂は苦しい悲鳴をあげている。奴隷のように、何も考えず単純に喰う為に労働をする感性に、憧れを持つこともある」
「魂が問題です。生きるために労働する必要のない人間は、観念の世界に誘われます。そして、食を得ることともう一つ、人間に不可欠な、生殖。これが観念に犯されることになります。それが証拠に、いまや女性の最も大きな関心は、性愛と妊娠、つまり生殖を切りはなす避妊の方法に費やされています。そして、同性どうしの性愛は生殖と完全に切り離されています。すべて観念のなせるわざです。戦争ですら、観念で行われます。ポリスを守るという大義名分のもとに」
「ペリウスは、随分過激なことを言う。その行き着く先はどう思う?」
「観念に犯された性愛は、単なる生殖の為の性愛よりも、さらに大きな悦楽を得ることが出来るでしょう。しかし、観念にも、それに導かれる悦楽にも限界が在りません。行き着く先は、性的倒錯の世界になる事でしょう。そして、待ち受けるのは『滅びの美』に違いありません。ミレトスは滅びます。イオニアもギリシャも遠からず滅びるでしょう。社会を支える奴隷制度の崩壊と供に。空中を浮遊する観念は足元をおろそかにします。現実世界の生き様を軽蔑し、出来得れば関わりたくないと思うでしょう。ギリシャは観念に於いて最高潮に達した時、滅びます。性愛の絶頂が仮死、いや死そのものであるように」
「ペリウス、貴方は何と言うことを云われるのだ。貴方は現実世界にのみ興味があり、観念の世界には心を引かれることはないと申したではないか。なぜその様に、観念を分析するのだ。いや出来るのだ」
「人は、みな同じような心を持っています。私とアリウス様も同じようなものです。ただ取り巻く環境と、資質に差があるのです。比較の問題です。しかし、この資質の差が行為に大きな差異をもたらします。アリウス様、お聞きして宜しいでしょうか」
「何だろう、ペリウス」
ペリウスが、優しい眼で微笑みながら言った。
「アリウス様は、エラステースが居られないようですね」
突然の具体的な言葉は、アリウスの胸を突いた。エラステース、つまり愛者として考えられるのは、マンドロス以外にはありえない。しかも、その事は誰にも言えず、永久に胸の内に秘さねばならないのだ。
「何故そう思う?」
「ずいぶん聞かれるからです。私とそういう関係にあるのか? と尋ねてくる若者が引きも切りません。アリウス様は、随分人目をひくようですよ」
「たしかに、言い寄られることも多い。ペリアスはどう思う?」
アリウスは真剣な眼差しで、ペリアスを見つめた。
「私にその事を聞かれるのですか・・・・・先ほど申したように、人間の性は、飼い慣らすかもしくは抑えるしかしないと、この現実社会で生きていくことは出来ないと思います。決めるのは貴方です。『滅びの美』に殉ずるのも、それは、その人の人生でしょう。誰からも非難される謂われはないと思います。奴隷も含めて、本質的に人間は何をしようと自由な筈です」
そう言い切る、ペリウスの横顔をアリウスは穴の空くほど見つめた。ペリウスは海を見つめたまま、視線をアリウスにあわせることはしない。しかし、その横顔からは自分に対する愛情が溢れているようにアリウスには思えた。
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