ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






 第三章 刻まれた記憶<15>


 中庭では、今日も強い陽が照りつけている。白い壁は反射して、眩しい。
 広い寝台の上で、アリウスは、過ぎ去った嵐のような快楽の余韻に浸りながら、六ヶ月前の、初めての経験を思い出していた。
「お前はもう、私から逃れることは出来ない」
 自信ありげにパルテモンが言った。背が高く、巻き毛の金髪に碧眼の容姿は美しくはあるが、卑猥な影を漂わせている。
白いベットの上にうつ伏せになり、裸に剥かれたアリウスの肉体は、先ほどまでの執拗な愛撫と交接に燃えた余韻がまだ続いている。
 肉の歓びは否定する事ができない。それは時がたち、回数を重ねるごとに深まっていきアリウスを捕らえて離さない。
 パライモンの言葉は、その事を指しているとアリウスは知っている。
 間違いとは言えない。
 無防備に延ばされた手足が、けだるくベットの上に投げ出されている。髪は乱れ、額にはうっすら汗が光っている。
 アリウスの心は酷い嫌悪感に覆われていた。心にポッカリ空いた虚無は、回数を重ねるごとにますます大きくなる。どうすることも出来ぬ苛立たしさに、奥歯を噛みしめた。
 決して、パライモンを憎んでいるわけではない。かといって愛してもいない。肉の歓びに捕らわれ、快感にのめり込んでいく、自分の感性のおぞましさに強い憎悪を感じているのだ。
「お前を離しはしない」
 そう言うと、パライモンがうつ伏せのアリウスの髪を掻き上げ、うなじに息を吹きかけ、口づけをした。
 卑俗な精神のなせる行為だと忌避しながらも、悲しいことにアリウスの肉は鋭く反応するのだった。

 パライモンが枕元の葡萄酒をコップに移し一口飲んだ。アリウスの横で、片膝を立て、コップを持たない左手は顎に当てている。明らかに、自分の姿態がアリウスの眼にどのように映るかを計算している。 
 嫌な男だとアリウスは思った。
「お前は、私のパイデイカだ。愛しいパイデイカよ!」
 そう言うと、パライモンがアリウスの喉に、口移しで葡萄酒の液体を流し込んだ。
 アリウスは拒むことはせず、されるままになっている。
(パライモンになぞ、崇高な「パイデイカ」、「エラステース」が解るものか! お前とは単なる肉の交わりだ。私の被虐欲を満たす道具に過ぎない)
 虚しさに苛まれる。アリウスにとってエラステースはマンドロス以外に考えられないのだった。
 パライモンと別れる時期は、そう遠くはないという予感がした。
 この当時、すなわち紀元前七世紀末のギリシャ世界では、同性間の愛の交歓は一般的なことであり、男女間の愛よりも生殖を離れた同性愛は至高なものと見なされた。
 パイデイカは愛人であり、エラステースは愛者であった。
 しかし、不幸にもマンドロスは、エラステースをまったく解しない。恋いこがれるアリウスに残酷にも慈父の心で接するばかりだった。


 時は人々の思いにかかわらず、無機質に流れていく。しかし、時間に引きずられる人間は、藻掻き、足掻き、何かを見つけようとする。そして、その何かは、往々にして、自らの内に存在していることに気づかされる。
 二年の歳月が流れた。
 アリウスはその間、ひたむきな努力を重ねた。爪で大理石を剥がすような苦痛にあえて立ち向かった。一年前から、パライモンと会うのを止めていた。自らの意志で、必死に肉の誘いを抑えたのだ。
 決して、叶えられることのないマンドロスへの想いも抑えた。いや、抑えるしか方法がないのだ。
 アリウスは痛々しいほどひたむきに、学芸に意識を集中する訓練を積んでいた。すべての感性を抑え、無感動になろうと努める毎日を自分に課した。
 すべての根源に存在し、アリウスを操ろうとする、血の遺伝を克服するために。

 十九歳のアリウスは、マンドロス邸の一室で書籍をひもといていた。
 パピルスに手書きされた書籍は高価な物だが、購入資金に不自由する事はない。
父、テアゲネスの資産はすべてアリウスが相続している。農場からの収入は、アリウスには使い切れない額であり、マンドロスが後見人として管理していた。
 快い秋風が、窓から入ってくる。窓の外の落葉樹の葉は、黄色く変色しかかっていた。 アリウスの心は、常に満たされない想いに囚われている。わくら葉は毎年、腐食し又、再生する。しかし、アリウスの想いは腐食する事はなく、再生することもない。
 針葉樹の葉のごとく、色づいたまま、棘をますます鋭角にしていく。

 小さなノックの音がした。
「どうぞ」
 アリウスはドアの方を向くと小さな声で答えた。
「おじゃま致します。講義の時間でございます」
 用人がドアを開け、外から言った。
「もう、そんな時間ですか。すぐに参るとお伝え下さい」
 そう言うと、アリウスはゆっくり立ち上がった。白い頬にほんのり紅がさした。気持ちが昂揚して来たらしい。
マンドロスの部屋の前にで立ち止まり、呼吸を整えると軽くノックをした。
「アリウスです」
「入りたまえ」
 太くはあるが、優しい声であった。
 大きな部屋である。壁一面が書棚になっている。会議にも使用できる大きな机に椅子が四つ、三人掛けのソファーが二つ、小さなテーブルが一つ置いてあった。
寝室は別室になっており、寝台の枕元にはブロンズ像が据えられていた。マンドロスの寝台を眼にすると、どうしようもないほど胸が騒ぐ。
アリウスは部屋に足を踏み入れた。マンドロスがソファーから立ち上がり、大きな身体を机の前の椅子に運んだ。アリウスは向かいに腰をおろした。

「前回は何処までだった?」
「はい、宇宙の生成を神々でなく、合理的な論理で説明づけるということでした。マンドロス様は無から有が生ずることはなく、有から無へ消滅することもない。その根本的物質が『アルケー』であると申されました」
 いつものことながら、アリウスの理解力と整理された表現力に感嘆したように、マンドロスが大きく手を拡げた。
「良いから続けなさい」
「はい、『アルケー』は無限なるもの、無制約なものであり、諸存在の原理であり元素であると言われました。究極的実体は特定の存在ではあり得ず、タレス様の『水』アナクシメネス様の『空気』を究極的実体とする考えを否定されました」
 アリウスは熱い眼差しを、マンドロスに注ぎながら語った。
 首筋の金髪に手をやって、聞き入っていたマンドロスは穏やかに話し出した。
「良く理解できているよ、さらに付け加えよう。タレスは私の師である。アナクシメネスは私の弟子だとも言える。そして親交篤く、お互いに尊敬しあっている。大事なのは、自由な批判精神と討論である。これが、イオニア学派と呼ばれている我々のよって立つ基本である。君も私を大いに批判しなさい。ただし、もう少し時間が必要かもしれないが・・・・・」
 哲学の講義と質疑応答はなおも続いていった。


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