第四章 救済の劫火<4>
夕食の後、アリウスは自室に籠もりベッドに身を横たえた。オリオンも今日は、食事をみなと一緒に取り、楽しそうに帰っていった。
襲撃事件以後、アリウスは自分の気持ちに、大きな変化があったことを感じていた。その変化は、決して好ましいものとは言えない。
仰向けになり、見るともなく天井を眺めながら、心の軌跡をたどりだした。断片的な思い出をつなぎ、頭の中で自らの生き様を構築し始めていく。辛く、苦しかった数々の出来事が浮かんできた。
枕元には、葡萄酒の壺が用意されていた。酒は思考の流れを滑らかにすることを、アリウスは知っていが、今夜はその限度を超えているようだ。
アリウスが、アナクシマンドロスに対する、自分の想いを断ち切ったのは十九歳の時だ。とても叶わぬ想いであった。いや、アリウスは果たして断ち切れたといえるであろうか?
破滅という恐怖感に苛まれる日々、心の闇、肉の欲求を封印することは、無感動になることだと彼は信じた。
感じない。ひたすら無感動に・・・・・。彼は、奈落に架かる細い橋を、手探りしながら這う日々を取り留めもなく思い出している。
挫折することもあったが、徐々に自分が変わって行く姿を実感するのは、アリウスにとって、快い充実感をもたらすことでもあった。
マンドロスとペルセの夫婦は、本当に善良で、心より親切に接してくれた人達だった。それゆえにこそ、アリウスは辛くもあった。彼らを思い出すと、アリウスは心まで癒され、優しくなってしまうほどであった。
その彼らと離れざるを得ない事態が生じてしまった。原因は色々あったが、最も重大なものは嫉妬であった。マンドロスの学識と人格を、ポリスの有力者階級が妬み、彼をポリスから追放してしまったとアリウスは思っている。
アリウスは傷心の身を、メディア王国に運んだ。それは、アリウスにとって爽やかな開放感を感じさせるものでもあった。
そこでも又、素晴らしい人々との交流があった。アリウスは自分では気づいていないらしいが、彼をメディアに引きつけたのは、精神の潜在下にマンドロスの面影を、パルコスに感じたせいかもしれない。
葡萄酒がアリウスの頬を少し紅く染めた。
風が出てきた。今夜は雨になるらしい。窓の板戸がバタンと音をたてた。
アリウスは立ち上がり窓辺へいくと、戸に錠を下ろした。部屋に二つある燭台の炎を弱め、寝台に戻ると深い吐息をした。これで、落ち着けると思いながら、葡萄酒の壺に手を伸ばした。
微かに雨音が聞こえ始めた。
アリウスは、大きく手を広げ寝台に横になった。
国家への帰属意識、連帯感、、通信、物流網の確立、アリウスの頭を次から次に、やりかけの仕事が浮かんできた。執務には終わりが無い、心身ともに彼を苛む。しかし、仕事の疲れが、彼を傷つけることは無い。
計画と手順に頭を巡らす。片づけて行けばよい問題点が湧いてくる。問題点さえ正確に掴めば解決は容易である。まず手始めに・・・・・と彼は思いを巡らせた。
しばらくの間、思考は次々に頭の中を巡っていった。執務にかんする問題点にそれなりの結論が出た時のことだった。
突然、アリウスの脳髄に引き延ばされた白い裸体が浮かんだ。奴隷市場のなかでのユイマの姿だった。何故か同じ光景が何度も浮かび上がってくる。アリウスは思いを振り払うように首を振った。
ドクドク、彼の内部で音をたて、理性を突き破りかねない感性の蠢きを感じた彼は、恐怖を覚えると同時に、抑えに抑えてきた感情を意識してしまった。
アリウスは突然起きあがり、葡萄酒を盃に注ぐと一気に呑み干した。喉を溢れた葡萄酒が一筋、紅い唇から白い喉を通り胸元を濡らした。
葡萄酒が気管に入ったのか、むせんだ。止まらない。身体を折り、涙を流しながらむせび続けた。
やっと、楽になり寝台へ身を投げ出した時のことだ。
またもや、幻覚のように、蒼い光、白い裸体の場面が浮かんできた。
次々に、アリウスを襲う感性を、彼は必死に抑えようとした。しかし、もはや明らかに無駄な努力なことをアリウスは知っている。
パルコスの厚い胸に押さえ込まれた記憶、紅い薔薇が眼に入る。アリウスの白い肌に、鳥肌が立つ、肉が覚えているだ。
アリウスの虚ろな双眸は、何を見ているのだろうか?
両腕で自らの胸を抱き締めたまま、アリウスは彫像のようにピクリとも動かない。
どのくらい、時間が経過したことだろう。幾分落ち着いたアリウスは、我に返り、紅い葡萄酒を一口飲んだ。
口に含んだ紅く甘酸っぱい液体は、喉を通り襞に絡まりながら、ユックリ食道を落ちていく。
雨足が早くなる。
アリウスは自分の心の奧を手繰続けた。このような思いが起こること自体、この十年間あり得ないことであった。心の闇を必死に塗り固めた。あたかも漆喰を塗るように、乾くたびに、上から上へ塗っていった。今まさに、その漆喰にひびが入ったのだ。
雨音がさらに激しくなって来た。水滴が窓の板戸に当たり、砕ける音がする。
燭台の炎が揺らめく。アリウスの思考はますます深みに落ちこんでいく・・・・・。
「アリウス様! サティーがいません」
ユイマが部屋に駆け込んできた。ひどく慌て、小さく息もはずんでいる。アリウスは気づかないかの如く返事をしない。アリウスの思考は、ユックリ表面に浮上して来た。
(サティー・・・・・彼女も自分と同じだ、宿命に抗いながら何故、必死に生きなければならないのだ? サティー、抗うのを止めて、宿命を受け入れないか? 自分もいささか疲れた・・・・・サティー、楽にならないか・・・・・)
ユイマの顔色が変わった。アリウスの変化に気づいたらしい。アリウスは寝台に腰掛けたまま、魂のぬけたような瞳で、ユイマを見つめるばかりだ。
ユイマの瞳は、『正直になれ』と、アリウスの心に問いかけているごとく見える。ユイマの双眸は、鏡となって、アリウスの情念を映し出す。
アリウスは返事をしない。しかし、このままにするわけにはいかないとばかりに、ユイマは、繰り返す。
「サティーが居なくなったのです。アリウス様!」
アリウスは、プラチナブロンドの髪を掻き上げながらユイマを見つめている。燭台の揺れる炎に照らされ、薄水色の瞳が妖しい光を放った。
「座りなさい」
穏やかではあるが、拒絶を許さぬアリウスの短い言葉であった。
ユイマの身体が、アリウスの言葉に背筋に冷水を浴びせられたかのように引き吊った。
「座りなさい」
アリウスは繰り返し言うと、手を延ばし場所を示した。
ユイマが、言いしれぬ不安を感じたのも無理はない。おずおずと、示された寝台の端に腰を降ろした。
「ユイマ、サティーには、彼女なりの生き方があるのだ」
「えッ、アリウス様、それは、どういうことですか?」
ユイマが、アリウスの言う意味が分からないという顔をした。
「サティーは定められた出自に逆らうかのように、必死の努力をしているのだ。誰にも知られることなく孤独な戦いを続けている。あるいは、私はそんな彼女の孤独を癒す事ができるかも知れぬ。しかし・・・・・私の孤独の癒しは・・・・・誰も出来はせぬ」
アリウスは、自分の言葉がユイマを混乱に陥らせていることを知っている。しかし、言葉が後を突いて出てくる。
「私は、サティーの孤独を理解できる。理解できるのだ! しかし、私の孤独は誰にも理解できない。私と同じ血を持つ人間以外には・・・・・クレオメストラ・・・・・母よ!」
白いドレーパリーの胸に突き立てられた剣、沸々と流れ出る血痕、窓から漏れる夏の陽射し、マンドロスに抱かれながら、幼いアリウスの網膜に焼き付いた光景が、今、アリウスの脳裡に浮かんでいる。
アリウスは寝台に座った姿のまま、頭を深く垂れた。プラチナブロンドの長い髪がばらけ、膝を覆った。
「アリウス様、アリウス様・・・・・」
困惑したように、ユイマが語りかけた。手をアリウスの肩に掛け、揺すぶった。ユイマにとって、こんな、アリウスを眼にするのは初めてだった。
「ユイマ!」
そう叫ぶと、アリウスは肩に置かれたユイマの両腕を掴み、一気に抱き寄せた。ユイマの金髪を鷲掴みにし、顎を挙げると唇に唇を合わせた。
瞬間、動転し何が起こったか分からないとでも言いたげに、ユイマが眼をカッと見開いた。くぐもった呻き声がユイマの口から微かに漏れる。
執拗な口付けが暫く続いた後、アリウスはユイマを放した。ユイマは寝台に倒れ、目を伏せ、肩で息をしている。
そのまま二人は、会話を交わすことも、動くこともしない。緊迫した沈黙の時間が流れていった。
口火を切ったのは、アリウスだった。
「行きなさい、もう一度・・・・・」
意味が、分からない。ユイマの表情が、驚愕の色を帯びた。
「もう一度、探してみなさい。私も後から行く」
アリウスは低い抑えた声で言った。
「えッ!」
ユイマの頭は、その発言を直ぐには理解できないほど、動揺しているのだろうか。アリウスの眼は、そんなユイマを見据えている。見つめられるユイマの頬に紅がさした。うつむいたユイマは、アリウスの唇の感触でも思い出したのだろう。
「サティーのことだ」
と、アリウスは厳かに言った。
そもそも、サティーが居なくなったと、慌てて報告に来たのは、ユイマだった。
ユイマが当惑の眼をアリウスに向けている。呆然と立ち上がり、部屋を出ていく彼の後ろ姿は、混乱の極みにあることを窺わせた。
廊下を、たどたどしく歩く、ユイマの微かな足音を聞きながら、アリウスは寝台に横になり、天井を見上げた。雨音が先ほどより激しくなっている。十年来、抑え続けてきた感性が少しづつ蘇るかのように溜息をついた。彼は思っている、(解き放つのだ、少しだけで良い、楽になりたい・・・・・)と。
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