ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






   第四章 救済の劫火<6>

   
ラオメドンは、寺院内にある実験室のソファーに身を投げると、深い溜息をついた。
「できた!」
 宮殿での密謀会議を終え、この部屋に帰って以来、二昼夜、一睡もせずに実験を重ねていた。 
大きな机の上と言わず床にまで、不思議な器具、薬草、書籍が乱雑に散乱していた。  ラオメドンの端正な顔も、疲労の色が濃く浮き出て、眼の下には隈がみえる。
「これで、なんとかなる・・・・・」
 長椅子に疲れた心身を投げ出し、そう独り言をもらすと、ラオメドンは深い眠りに落ちて行った。
 ラオメドンが動物実験を繰り返し、研究を重ねてきた、最後の仕上げが終わったのだ。今作り出した薬品は、人間の痛感を麻痺させるものだった。神経細胞の一部に作用し、痛みを感じさせないというのだ。
 
 ラオメドンは切れ長の眼を微かに開いた。眼がさめたらしい。長椅子で眠ったせいか、身体の節々が痛い。時間は分からないが、外は明るいようだ。
 表情のない白い顔に、疲労の脂が少し浮き出ている。
 彼は、手元にある木製の長細い管を取り出し、管の中に枯れ草を摘めると、燭台にかざし火を付けた。管の一方に唇をあてると、大きく息を吸い込んだ。
 大麻である。大麻の薬効が徐々に身体に染み渡っていく。
 ラオメドンは、酒を飲まない。大麻を常用している。
 彼の心が、喪失感と絶望感に囚われてしまったのは、アリウスと出会ったことが契機となった。そのことをかれは知っている。
 いたいけな少年少女を飼育する、嗜虐性に感じていた歓びも、何処かへ行ってしまった。約束されたマンダ本山の長老の座も虚しいものに思える。
 喪失感と絶望感の源は、十四歳の時、男性機能を失ったことに全ての原因があった。
失ったはずの男性器が疼いている。男性器の挙げる悲鳴がラオメドンの耳に届く。
ラオメドンは大麻の煙を深く吸い込んだ。乱雑な部屋に、窓の隙間を通して光が射し込んでいる。埃の乱舞が眼に入る。

 先ほどから、寺院の入り口を叩く音が聞こえる。音の間隔と強さで、用件の度合いが解る。かなり切迫しているらしいが、ラオメドンは腰を上げない。
(やつらだな、うるさいことだ)
 扉を叩く音に、声が混じり始めた。
「ラオメドン様!・・・・・ラオメドン様!・・・・・」
 大声の呼び掛けは止まない。
 ラオメドンはゆっくり腰を上げ、入り口に向かって歩き出した。
 入り口の扉に着くと、ラオメドンは一呼吸おき声を掛けた。
「静かになさい、今、開けよう」
「おお! ラオメドン様、やはりおいででしたか、我らは・・・・・」
「名乗らずとも解る。静かになさい」
 そう言うと、ラオメドンは扉の鍵を内から外した。扉が開いた、眩しい。寺院内部の薄暗さに慣れた眼には、外の光は強すぎた。
 男が二人立っていた。逆光のため顔がよく見えない。
「入られよ、用向きは中で受けたまろう」
「では、失礼いたします」
 鍛えられた、大男であった。年の頃は四十に近いだろう、二人とも黒い顎髭を蓄えている。
 ラオメドンは入り口の側の、接客室に二人を案内した。あまり掃除をした形跡は無いが、豪華で広い部屋であった。大きなテーブルに十脚近い椅子が並べてあった。そのテーブルの向かい合わせに、ラオメドンと二人は座った。
「さっそくですが、ラオメドン様、大変な事に相成りました。実は、内密にしておりましたが、我らの皇女様が、舘にまいられたのです。そして、我らと行動を供にすると申されるのです」
 席に着くなり、一人の男が身を乗り出しながら一気に話した。
「ほお、アリウス邸のサティー殿が、貴殿らと行動を供にすると申されるのか」
 ラオメドンは落ち着き払い、さり気なく言った。
「えッ! な、何故にサティー様のことをご存知で・・・・・」
 二人の男は度肝を抜かれたらしく、慌てふためいた。アッシリアの残党にとって、サティー皇女は、かけがえのない至宝の玉である。誰にも知られてはならぬ、極秘事項だったのだ。
 アリウス邸は有る意味で最も安全と言え、危険は無さそうであったが、常に警戒を怠りなく行っていた。しかも、あくまで極秘に行動をしていたのだ。
「私は、マゴイである。見通せぬものはない」
「しッ、しかして、その事を知る者は?」
「私のみである。パルコス、オロデス、アリウス、誰も知るはずは無い。もし、知っておったならば、無事でいたと思うか」
「さ、左様でございます・・・・・確かに言われる通りです」
 二人が顔を見合わせた。興奮に吊り上がっていた眼もとが落ち着き始めた。

「話しを、元に戻されてはいかがかな。内密にしておられた、皇女様のことを、あえて言い出された訳はなんです。して、私に相談とは? 相談相手になぜに私を選ばれたのかな」
 興奮のあまり、今日来た目的さえも失念しているこの者達にとっては、サティーはそれ程の存在なのか・・・・・おそらくそうであろう。と、ラオメドンは思った。
「おお、そうでした。実は昨日のことです、サティー様が、突然舘に来られたのです。そして、我らの襲撃事件を口を極めて糾弾されました。その気迫に、知らぬでは通すことが出来ず、有り体を申し上げました。協力者が居るむねの話しも匂わせましたが、ラオメドン様の事は決して申してはおりません。サティー様はひどく嘆かれました・・・・・泣き伏してしまわれたのです。災いの元は自分にあると云われ、短剣で喉を突かれようとするのです。我々は慌てて止めました。そして、今現在も見張りが常に貼り付いております」
「して、何故に私に?」
「我々は、真剣に討議いたしました。サティー皇女あっての我々です、皇女を失えば我々は分解してしまい、終わりになります。今でこそ、ラオメドン様の御配慮により、資金の都合もつきました。食を得ることが出来、希望も持てるのです。今や頼れるのはラオメドン様だけなのです。いろいろな意見も出ましたが、ラオメドン様に相談する。これ以外ないとの結論に達しました」
「なるほど、不本意ながら仕方なく私のところに来られた訳であるか。そして、私の返答しだいでは、私を亡き者にと考えておられるわけだ」
「とッ、とんでもございません・・・・・」
 二人の男は、慌ててしまった。どうやら、ラオメドンの言ったことは、図星であったらしい。
「驚かずともよい。当然のことである」
 そう言うと、ラオメドンは切れ長の眼もとを弛めた。 
「サティー皇女殿に、私がお会いしお話しを伺おう」
「えッ! ラオメドン様が直接に・・・・・」
「なにか不都合でもあるのか」
「いえ、そのようなことは・・・・・」
「私が、そちたちの舘に、単身行こうと言うのだぞ。意に添わねば、その場で殺せば済むことではないか」
 ラオメドンの眼が光った。決意するものがあるらしい。
「い、いかに何でも、それではあまりに・・・・・」
「勘違いされるな。私には私の行くべき理由があるのだ」
 もう完全に、ラオメドンの思う壺である。二人には敢えてラオメドンの来訪を断る理由はない。ただ唖然として口を半開きにするのみであった。
  
 暫く時間が過ぎた後のことである。ラオメドンは二人を連れ、寺院の外に出た。褐色の髪の毛はまだ濡れている。
 先ほど二人を待たせ、清らかな岩清水で念入りに身体を清め、疲れと身体に浮き出た老廃物を取り去り、清々しい気分になっている。
 ラオメドンは少し歩くと立ち止まり、振り返ると、自らの寺院を見つめた。老朽化はかなり進んでいる。外壁の石は一部崩れ掛けており、そこに蔦の蔓が絡みつき建物のかなりを覆っていた。
 扉などの木製の部分は朽ち始めている。市場のすぐ近くにありながら、茫々たる雑草に囲まれた寺院は廃墟と見えなくもない。
 ラオメドンは納得したかのように、ニンマリ微笑んだ。
 アッシリア残党の二人は、ラオメドンを案内するが如くに、すぐ目の前を歩いている。言葉を交わすことは殆どない。
三人は、市場を通り抜け宮殿前広場に向かって歩いていった。煩雑な人の往来にラオメドンは一顧だにせず、抜き身の太刀のような眼を光らせ、真っ直ぐに歩いて行く。
 とある建物の前に着くと、一人が駆け寄り広い間口の大きな木製の扉を開けた。灰色にくすんだ、大きな建物が石畳の道に面している。何の飾りもない大きな倉庫だった。
 ギーと音をたて、扉は手前に開いた。二人は辺りを伺うと、ラオメドンを内部に誘った。
乾いた匂いが充ちた薄暗い空間に、天井近くまで麻袋が積み上げられていた。
 二人はラオメドンを、麻袋の間を縫うように案内する。上方に付けられた窓よりわずかな光が足下まで届く。
 少し広い場所に出た。隅に階段がある。椅子に座り張り番をしていたらしい若い男が二人立ち上がると、ラオメドンたち三人を、階段の方へいざなった。狭い煉瓦造りの階段を手摺りに捕まりながら三人は、二階へと登って行った。 

 思ったより二階は広い。真ん中に通路があり、通路に沿って部屋が並んでいた。一番、奥まった部屋まで歩くと、一人の男が軽く扉らを叩いた。
 中から声がして、扉がゆっくり開き、年若い男が顔を出した。二人の男に気づきくと、頭を下げ、扉を大きく開けた。部屋の中へは、ラオメドンが最後に入った。
 質素な部屋の窓辺に、椅子に座った女性が居た。彼女はゆっくり顔を上げ、碧眼の双眸でラオメドンを見つめた。サティーだ!
『美しい!』ラオメドンをして、感嘆させるぼどであった。
 後ろに束ねた金髪の乱れ毛が、わずかに額に垂れている。やつれた顔が、物憂げな眼差しを蓄え壮絶な美貌を醸し出している。
 耐え難い心労は、彼女をかくも美しくしてしまった。
「サティー様ですね」
 確認するように、ラオメドンの呼びかけた。
「・・・・・」
 サティーの返事はない。
「二人にしては戴けまいか」
 ラオメドンは案内してきた男に言った。
「それは・・・・・ご勘弁願えませんか。我々は退出いたしますが、この若者はこちらへ控えさせたく存じます。なにとぞ御願いいたします」
「致し方ない。結構だ」
 ラオメドンの返事を聞くと、二人の男は部屋を出ていった。若い男が、サティーの前に椅子を用意し、ラオメドンに勧めた。そして、若い男は、今まで座って居たであろう扉の近くの椅子に腰を降ろした。
「皇女サティー様ですね? 私はラオメドンと申します。アリウス殿とも知り合いの者です」
 ラオメドンは突然、皇女と呼びけた。
「アリウス様・・・・・!」
 アリウスと言う言葉を聞いたとき、サティーが明らかに狼狽えた。憂愁を帯びた彼女の瞳に驚愕の色が浮かび出た。
「ご心配無きように、私はすべてを承知いたしておりが、アリウス殿のみならず、ユイマを始めサティー様の関係者には一切を秘しております」
「ユイマもご存知ですか! あなた様はいったい・・・・・」
「私は、ラオメドン。マゴイです」
「マゴイ!」
 オリオンが忌み嫌うマゴイ。妖しげな術を使い人を惑わすマゴイ。サティーの顔に恐怖が走った。
「御心配なされぬよう。あなたに危害を加え、どうこうしようという気はまったくございません。いや、それどころかあなたの苦しみを救うことになるでしょう。結果的には」
 そう言うと、ラオメドンの能面のような表情が少し緩み微笑んだ。混乱し理由が分からず戸惑うサティーの姿を、愛おしむように見つめた。
「あなた様が、私の力に? 理解できませぬ。何故に?」
「単なる気まぐれです」
「気まぐれで、私の心を弄ぶのですか!」
 サティーが語気荒く、鋭い眼でラオメドンを見つめた。ラオメドンはまったく動ずることなく答える。
「気まぐれと申したのは言葉が足りませんでした。サティー様を弄ぶつもりはまったくありません。ただ私が自分のために行う行為が、貴方を救うという結果をもたらすのです。そして、その動機はあなたには、関係ありませぬ」
「動機こそが、大切ではありませぬか。単なる気まぐれで、私を救う? そして、結果のみを享受せよと云われるのですか・・・・・承知出来ません。絶対に!」
 サティーが決然と言い放つ。強がってはいるが、恐怖を覚えていることはラオメドンには、お見通しである。ラオメドンはこの美しい女性に好意を持ったが、彼の考えが変わることはない。彼にとってはまったく別の問題なのだ。

「それ程までに申されるのであらば・・・・・よろしい、動機はアリウス殿です」
「えッ、アリウ・・・・・」
 サテイーの半眼の眼が大きく見開かれた。
 ニヤリと不敵な笑いを漏らしたラオメドンはさらに続けた。
「驚かれましたかな。私が何を言っているかあなたには解らないでしょう。説明申し上げても無駄です。また申し上げる気もありません。ただ覚えておいて戴きたいのは、私の今後の行動によって、結果的にあなたは救われるということです」
 サティーが困惑の表情を浮かべた。
 ラオメドンはサティーが惑い戸惑うのを楽しんでいるのだろうか。
「いずれにせよ、アリウス殿の意志を継ぎ、人々を安んじるのは、あなた様とユイマです。そのことは、私以外の者には決して解らぬことです。私はマゴイの聖職者です。五年後の世界を見通す事が出来れば実に単純な事であり、当たり前のことです」
「解りません。何を仰っておられるのか・・・・・アリウス様の意志を継ぐ? アリウス様の身の上に何かが起こるのですか? 五年後まで私は生きているのですか?」
 不安そうに尋ねるサティーに対し、ラオメドンは動じることもない。
「皇女サティー様、すべては宿命づけられているのです。人間には自由な意志なぞ在りませぬ。原因が在り結果が在るだけのことです。私はその事を言うためのこの場にまいりました。私には見えます五年後のすべてが。あなたはアリウス殿を愛しておられますね」
「そんなこと・・・・・私ごときが・・・・・」
 愁いを帯びたサティーの顔に困惑がよぎった。
「あなたの苦しみもそこに在るのです。アリウス、あの男を好きになってはいけません。あの男の深い闇に対峙できるのは私以外に存在致しませぬ。いや、私ですら対峙することは叶わないでしょう・・・・・でも解っています。他ならぬアリウスが、私を必要とするのです。私は彼の毒牙に魅入られてしまったのだ。この私がだ!」
 ラオメドンは珍しく興奮している自分を感じた。決して不愉快な感情のたかぶりではない。しかし、心の動揺に彼の表情が動くことはない。それは訓練を重ねてきた結果といえるだろう。
 サティーが戸惑った顔をした。
 扉の側で、聞いている若い男には話の内容はさっぱり解らぬらしい。
「サティー様、従順に宿命に従うのです。結果を素直に受け入れて戴きたい。あなたは廻りの人々を救うべく宿命づけられているのです。今後、あなた様の身の上に急激な変化が起こります。廻りの人々が、今以上にあなた様を必要とする事態が生ずる事でしょう。必要に答えることが貴方を幸せにするでしょう。私の云いたいのはそれだけです。アリウス、あの男に私は呼ばれています、邪魔をしないで戴きたい。これだけを云いたいために今日は伺ったのです。あなたにではありません、あくまでも私自身に言いたかったのです。私がこのような事を申すのも、あなた様に敬意を表していると思われてけっこうです」
「従順に素直に・・・・・」
 ラオメドンを見つめるサティーの瞳は、彼の言葉に従うことを表明している。 
 サティーには、話の内容の半分も理解出来たとは思われない。しかし、彼女の心に強く訴えかけ、魂を揺さぶる何かが、ラオメドンの象徴的な言葉と雰囲気の中にあった。
 ラオメドンの妖しさを含んだ、研ぎ澄まされた眼光はサティーの身体を透し、遙か彼方に焦点を結んでいる。サティーから気持ちが離れている。最初からサティーに関わりがなかったと言う方が適切かも知れない。しかし、ある意味で、自分を確認するためにラオメドンはサティーという存在を必要としたのだ。
 言葉の無い沈黙の時間が流れ出した。サティーは窓辺より外の景色を眺めだした。自分の人生に付いて考えているのだろう。
 ラオメドンの瞳は、サティーのほつれ毛の掛かった横顔を見つめている。
 穀物の枯れた香りが、床下からほんのり漏れ、ラオメドンの鼻腔を撫でていた。


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