ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






   第四章 救済の劫火<7>

   
アリウスは宮殿への路を一人で歩いていた。
 白目は血走っている。昨夜は遂に寝付くことが出来なかった。歩く姿は、背筋を伸ばしドレ−パリーを翻してはいるが、瞳は力無く前方を見つめている。気持ちは千路に乱れ、悔恨が胸に迫って足取りは重い。でもとてもジッとして居られず歩を進める。
 オリオンからは、くれぐれも一人では出歩かないように言われてはいたが、今朝はどうしても一人で歩かざるを得ないのだった。
 昨夜の雨が嘘のように清々しく晴れ渡った空である。無垢な青空の下、アリウスには、昨夜の出来事が信じられなかった。
(そうだ! あれは私の意志ではなく出来事だったのだ!)
 しかし、アリウスの心は彼の思いを裏切る。あくまでも自分が犯した事なのだ。そのことは厳然とした事実であり、暗雲となって彼の心にのし掛かってくる。
(何と言うことをしでかしたのだ! 昨日は狂ってしまったのだ! 取り戻すことはもはや出来はしない。今朝、ユイマの顔を見ることが出来なかった。ユイマとは今後どうなるのだろう・・・・・駄目だ、耐えられない! 私は一人になってしまうのか・・・・・)
 自己嫌悪に引き裂かれながらアリウスは歩き続ける。
 通りに面した、建物の庭先やベランダに咲く薔薇は、毛根から昨日の雨の精気を吸い上げ、棘は鋭く、葉と花弁は、その色をいっそう鮮やかにしていた。 
 無縁の人々が行き交う、それぞれの人生を肩に背負い何かに耐えながら歩いていくようにアリウスには思えた。
 生きる事は胸に突き刺さる苦しみ、日々の怯えに耐えることに他ならない。他に何が在るというのだろう。アリウスだけの事ではない。過去の思い出は恥辱と悔恨であり、未来に待つのは不安と絶望のみだとでもいうだろうか・・・・・。
  
 アリウスの歩みが、とある倉庫の前で止まった。間口の大きい木製の扉が、閉じられていた。人の気配はまったく感じられない。アリウスの心に引っかかるものが生じた。
 そこは、確か以前サテーがアッシリアの残党と話しをしていた倉庫だ。もしやと思い、アリウスは扉を開けようとしたが、鍵が掛けられているらしく開かない。拳で軽く叩いてみたが反応はない。
 暫く佇んでいたアリウスは、また宮殿へ向かって歩き出した。心に引っかかるものがあったが、追求する気は起きなかった。決して、身の危険を感じたからという訳ではない。まるでサティーの生きていく人生の、邪魔になるのを恐れるかのように。
「アリウス殿」
 突然の呼びかけに、一瞬、アリウスの身体が強張った。しかし、敵意は感じない。アリウスは戸惑いながら振り返った。
 屈強な男が一人、微笑みを蓄えた眼でアリウスを見つめていた。
「貴殿はたしか・・・・・」
 アリウスはすぐに名前が浮かんでこない。
「メムノンです。ご無沙汰致しております」
 そう言うと、メムノンが深々と頭を下げた。穏やかではあるが、彼の相貌が醸し出す峻厳さは、右頬の深い傷に負うところも多い。
 この男、右頬の傷で損をしているか、あるいは得をしているのだろうかと、まったく関係のないことが、アリウスの頭を一瞬掠めた。
「いや、こちらこそ。して如何なされたのかな」
メムノンが呆れた顔をして微笑んだ。アリウスらしいとでも思ったのだろうか。
「アリウス様、幸いにして事なきを得られたそうですが、命を狙われたそうではありませぬか」
 アリウスはハッとした。昨日来、命を狙われた事を完全に忘れていたのだ。
「そ、そのとうりだ」
「身共は、ネストル殿とヤクシー様の依頼で様子を見に参りました。キュロス王子も御心配されておられます」 
「ネストルとヤクシーは元気ですかな?」
 アリウスは、そんな筈はあり得ないのだが、どうにも襲撃事件にはそれほど危機感を抱いてないらしい。
「ネストル殿は、キュロス王子の信任も厚く、アケメネス家の中枢に関わる相談に預かっておられます。ヤクシー様はもう元気一杯、カンピュセス国王をはじめアケメネス家の皆様がたへ、アリウス様直伝の、ギリシャの文化、風俗を説き廻っておられます。おかげで、身共も時には、ドレーパリーを着せられます。この私がですよ!」 
「メムノン殿のドレーパリー姿、是非拝見いたしたいものであります」
 アリウスの顔に久しぶりに笑顔が浮かんだ。
「とんでもない。フワフワして腰が定まらぬ。あれは男の着るものではない・・・・・あッ、これは失礼・・・・・例えばと言うことで・・・・・」
 柄にもなくメムノンは狼狽えた。
「クックク・・・・・」
 アリウスは声かみ殺して笑った。滅多にないことである。
「メムノン殿、私は男ではないのかな?」
「いや、その、男とは・・・・・野蛮な軍人のことでして、アリウス様は高貴な・・・・・アリウス様、からかわれては困ります」
「いや、これは失礼。とこれで、お話によるとヤクシーはとても元気そうですな」
「いやもう、元気なことこの上もございません。廻り中が振り回されております。キュロス王子も、さすが『朱の獅子』の姪ご様だと、眼を細めておいでです。ところが、この快活過ぎるヤクシー様は、ネストル殿にはまことに従順であります」
 メムノンが、ホッとしたような顔で話した。話題の方向が逸れて落ち着いたのであろう。「未だにそうであるか」
 アリウスは懐かしげな眼をした。 

「ところで、キュロス二世王子の評判はエクバタナでも良く耳にいたすが、メムノン殿から見られて、どういった方でござるのか?」
「参りましたなアリウス様、身共はキュロス殿下の配下のものです・・・・・しかし、はっきり言うことができます。まれにみる英傑です、ある意味においては、賢王として名高いカンピュセス国王を凌ぐと言えましょう。お恐れながらメディア国のアスティアゲス王子様とは、比ぶべきもございません。英明で在られたキュアクサレス王は、いかがなされたのです。政治を全く省みられなくなられたと言うことですが?」
 メムノンの耳にまで、キュアクレサス王の噂が届いているのかと、アリウスは不安になった。しかし、彼の言う通りなのである。最近は執政官会議ににも姿をみせず自室に籠もられたままなのである。
「キュアクサレス王は、最近は身体に変調を来たし少し静養を取られておられる」
 と、アリウスは当たり障りの無い返事をした。メムノンに対しては無駄だと知りながら。メディア国の命運は、パルコスの双肩に掛かっているという状態であった。
「アリウス様、襲撃者から一時的に身を隠すと言う意味も含めて、一度、パルサの地に入らして戴きたいのです。貴殿の国家構想を、ネストル殿より聞き及んだキュロス王子が、是非にアリウス様にお会いしたいと申されるのです」
 明らかに、キュロス王子はアリウスを招聘したがっている。アリウスは、キュロス王子の英明と英雄の才について、ネストルからの書簡で何度も聞いたことである。その時彼は思った。あるいは、彼の構想を実現出来るのは、キュロス二世だけもしれない。しかし、今のアリウスは三年前のアリウスではなかった。
「アリウス様、その事を言いに、身共はエクバタナに参ったのです。むろん、サティー様ユイマ殿も是非ご一緒に」
 アリウスの胸の鼓動が一瞬止まった。ユイマ・・・・・サティー・・・・・。アリウスは返事が出来ない。
「突然の申し出に、いささか戸惑われたようですが。我らは本気です。是非お考え下さい」
「ご配慮、痛み入ります」
 アリウスはメムノンにやっと返事を返すことが出来た。
「では、身共はこれにて失礼いたします。急ぎの用向きも在ります故に」
「ほう、用向きですか」
 アリウスは何げなく答えた。その時、メムノンの眼が光りアリウスを見つめた。射抜くような強い眼光であった。
「リディア国にまいります。その後、帰りに第一管区の司令官クレオン将軍にお会いする予定がございます。アリオス様が定められた、メディア王国の軍管区制度の頂点におられるお方です。おっとこれは失礼、あなた様には言うまでも無いことでした。そして、エクバタナに戻ってまいります。アリウス様、パルサ行きの件、何とぞ御熟慮いただき、良いご返事をお待ち申しております。では、これにて失礼いたします」
 そう言うと、メムノンが深く一礼した。彼は何ごとも無かったかのように早足にその場を立ち去った。
 アリウスは何故だか、メムノンが自分を置き去りにして立ち去って行ったと感じた。 
 アルウスの薄水色の双眸は、何処までも無垢なエクバタナの青空を見上げていた。
 メディア王国を巡るドロドロとした政争が、渦巻いていることは間違いない。しかも事は、急を要することらしい。しかし、アリウスには遠くの出来事に思えてならない。アリウスがその渦中にあるのは間違いはないが、彼の心を捕らえる想い、わだかまりは、全く別のところに存在しているのだった
 アリウスは気づかなかったが、メムノンは暫く歩くと、目深く頭巾を被った男と一緒になった。男はメムノンより身体が一回り小さく、まだ年若い感じであった。



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