第四章 救済の劫火<8>
ユイマは、あてどもなく歩き続けていた。宮殿前広場から放射状に延びた道の一つを、市場に向かっているのだが、本人はまったく意識していない。行き交う人々が眼に入らない。両手を前に組み、石畳を見つめ、うつむき加減に歩く。怯える心を、ドレ−パリーに包み金髪は無造作に垂れ、碧眼は悲しみに沈んでいる。
無理もないことだが、一昨日の出来事でユイマの思考は堂々巡りをするばかりだ。とても他のことを考える余裕がない。臀部の穿ちがまだ疼き、身体に何かが突き刺さったままの違和感がある。
「なぜ、アリウス様が? アリウス様は狂われたのか?」
独り言を呟いているのを、ユイマは意識していない。ユイマにとっては、男を受け入れるのは初めての体験ではない。数年前のことになるが、誘拐され市場に売られる前に、略奪者達の陵辱を受けた経験があった。野蛮な獣の様な男達であった。
あの、美しく、優雅で理性的なアリウス。尊敬するアリウスが、野蛮な獣と同じようなことをしたのか、ユイマにはどうしても理解できないのだ。
ユイマは孤独だった。父母、兄弟は無惨に殺害され、ヤクシー、サティーもいない。そして、もっとも信頼していたアリウスに陵辱されたのだ。精神的動揺は数年前の比ではない。ユイマは自失してしまい、涙すら流れない。どうして良いか分からず、出来ることは、トボトボと歩くことだけだった。
混乱した意識に囚われ足取りも重く歩き続けるユイマの眼が、路上の一点を捉えた。そこには、日干し煉瓦にすがり、道にうずくまる人影があった。
繁栄を誇るエクバタナと言えども、浮浪者は珍しくもなく、行き倒れの人を見ることも多い。死体がどのように処理されるのか、ユイマは今まで興味を抱いたこともなかった。
顔を布で覆った浮浪者の女が、子供を抱いていた。汚れ、すり切れた布を身体に巻き付けている。とても衣服とは言えるものではない。布からはみ出た手足は、垢で黒ずんでいた。
その女の前に、一人の男が、腰を屈め女に話しかけていた。黒い巻き毛の頭髪に、褐色の瞳をしている。白い整った顔は、高貴さをユイマに感じさせた。真っ黒い衣服は、心なしか、キラキラ輝いて見えた。
男はしきりと女に話しかけている。二人の相貌があまりにも極端に違う異様な光景は、ユイマの心を釘付けにしてしまった。
男の白い女性のような、たおやかな手が、垢だらけの女の右手を掴んだ。その時、ユイマの背筋に悪寒が走った。女の手には本来有るべき指が欠落していたのだ。子どもを抱きかかえた左手の指もない。必死に抱きかかえている子どもは、半ミイラ化しており、骨と皮だけになっている。眼は、闇に向かって開かれた洞穴になっており、底がうかがえない。
立ちすくんで動けないユイマに、男は艶のある声で話かけた。
「ユイマ、私と替わりなさい」
「えッ!」
ユイマは眼を見開き、口を大きく開けた。見知らぬ不思議な男から突然、名前を呼びかけられたのだ。
「アリウス邸のユイマだろう。私と替わって、暫くこの女を見ていてくれ」
「あなたは・・・・・?」
「アリウス殿と縁のある者だ。名をラオメドンと言う」
「ラオメドン様?」
「お前とも、多少の縁はある。さあここに跪き、女の手を取るのだ」
ラオメドンの言葉は、ユイマにとって抗うことの出来ないものであった。道行く人々は興味深げな眼をしながらも、遠巻きになり近づいてこない。
ユイマは、跪いた。ラオメドンが女の手をユイマに渡そうとする。
「ユイマ、乾いているから大丈夫だ。感染する心配はない、手を取ってあげなさい」
恐る恐る延ばそうとする、ユイマの手が微細に震える。
ラオメドンのうっすら脂肪の乗った白い手に替わり、ユイマの手が女の手に触った。その時、ユイマの背筋にまたもや冷たいものが走った。何とも言えぬ、厭な感触が指先の神経を通して、身体中を巡った。女の手はガサガサで、人間の手とは思えず、枯れ枝のような、生命を感じない物体であった。
ユイマは布で隠された女の顔を見た。左半分は崩れている。左瞼から口に欠けて、肉がそげ落ち、骨が剥き出しのようになっていた。
「しばらく、手を握っていてくれ。すぐに戻ってまいる」
そう言い残し、ラオメドンは立ち去った。ユイマは硬直した指で、女の手を掴んでいる。女は子どもをかき抱いたままだ。その両眼は、今はユイマを見つめている。
狂っている。爛れ目脂の貯まった瞳は明らかに狂人の眼つきだ。ヒューと小さな音をたて、わずかに喉から呼吸が漏れてくる。
ユイマの膝がガクガク音をたてる。逃げ出したいのだが、異形の女に囚われて、動くことが出来ない。狂った女の命は燃え尽きる寸前で有ることを、ユイマは感じた。命の炎は消え、残り滓が、燻っているだけのはずだ。しかし、ユイマを捉えて離さない何かがある。ユイマにとって囚われる何かがあると言ったほうが正しいだろう。
その時だ、狂った女の瞳に、一瞬光が走った。悲しさを秘めた光だった。
「あッ!」
思わず、ユイマは声を上げた。
ユイマがそこに認めたのは、あの夜のアリウスの眼だった。暗い庭でユイマを犯す、悲しみに狂ったアリウスの眼と同じ光だった。
ユイマの身体に鳥肌が立った。誰からも理解されることのない。いや、理解されることを拒まざるを得ない宿命の呪いに、呻吟する魂を感じてしまったのだ。
ユイマの胸は張り裂けそうに切なくなった。アリウスがたまらなく愛おしくなり、涙が瞼から溢れ、頬を伝わっていく。
ラオメドンが帰ってきた。両手に水の入った小さな器を捧げ持っている。ユイマの様子を見たが、顔色も変えない。
「手を離すな。そのまま握っておいてくれ」
そう言うと、ラオメドンが小さな器を石畳に置いた。懐から錠剤を取り出すと、ラオメドンはそれを水の中に落とした。水が白く濁り始める。
自然に溶けるのが待ちきれないのか、ラオメドンが木片で器の中の錠剤を突き始めた。
ラオメドンが何のためらいもなく、爛れた狂女のあごを掴むと、口を開かせ器の白濁した液体を流し込んだ。半分近くの液体が口から溢れだしたが、残りはかろうじて嚥下したようだ。
変化はゆっくり起こり始めた。狂女の眼に安らぎの片鱗が現れてくる。わずかに口元がほころぶ。枯れ枝のような手が、ユイマの手の中で動いた。
視線が、遠くを見つめるように変わった。ユイマの眼には、女の瞳が心なしか潤んできたように見えた。子どもの骸はしっかり抱いたままだ。
いかなる、人生を彼女は送ってきたのだろうか? 口が僅かに動くが言葉にならない。ラオメドンは表情を変えずに、狂女を見下ろしている。
彼女の顔が、一瞬輝き、光を放ったかにユイマには思えた。次の瞬間、狂女は深く首を垂れた。
「ご苦労だった。手を離して良いぞ」
ラオメドンが、抑揚のない声でユイマに言った。
ユイマは、言葉を発することも出来ず黙したまま、事切れた狂女を見つめている。
遠くから、石畳の上を走る馬車の車輪の音が聞こえてきた。
馬車はユイマの背後で止まった。馬車の座席から、男が二人降りてきた。
「ラオメドン様、こちらでございますね」
馬車を呼んだのはラオメドンらしい。
「ああそうだ」
そう言うと、ラオメドンが顎をしゃくった。
二人りの男は、黙って二つの死体見つめ、手で触れないように上手に布でくるむと馬車に乗せ走らせていった。遠巻きに眺めていた見物人も散って行った。
「ラオメドン様、馬車は何処へいくのですか?」
「エクバタナ郊外の死者の谷だ。そこへ投げ捨てる」
「投げ捨てる?」
ユイマの声が上ずった。
「そうだ、土に還るのだ。永遠の安らぎの世界へ。お前も、俺も同じだ」
ユイマには語る言葉が見あたらない。
狂女の悲しみに充ちた眼が、アリウスの眼に重なる。
「ユイマ、アリウス殿のことを想っているのであろう」
「えッ!」
ユイマには、鼓動が止まるほどの衝撃だった。
「一言、云っておく。あの男を好きになってはならない」
そう言い放つと、ラオメドンは何もなかったように、踵を返すと躊躇なく立ち去っていった。
ユイマは、金縛りにあったように動く事もできず、ただ立ち去っていくラオメドンの後ろ姿を見つめているばかりだった。
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