第四章 救済の劫火<9>
アリウス邸に風ばかりは、穏やかに吹いている。
あの日から何日になるだろう。アリウスは、まだユイマの顔がまともに見られない。お互いに避けて言葉も交わさずにいる。ユイマが屋敷を出て行く事態になることを考えると、夜も眠ることが出来ず、寝返りを打つばかりであった。
サティーからも音沙汰は無い。サティーがいてくれればと、アリウスは思うこともしばしばある。
テラスの椅子に腰を下ろし、ユイマがぼんやり庭の紅薔薇を見つめている。サティーの手入れが無いせいか、薔薇は少し元気がない気がする。アリウスは柱の影からそっとユイマの後ろ姿を見つめていた。
長い金髪が無造作に肩の下まで垂れている。今日は、極淡い薄水色のドレーパリーを身に着けていた。ドレーパリーから出ている片方の肩が白く眩しい。顔は見えないが、元気のないユイマの後ろ姿は、アリウスの胸を締め付ける。
どのぐらいの時間、ユイマの後ろ姿を見つめていただろうか、アリウスは肩を落として立ち去ろうとした。
その時、ユイマが気配を感じたらしく、振り返りざまにアリウスにつぶやいた。
「アリウス様・・・・・」
躊躇しながらも、穏やかに呼びかけるユイマの声をアリウスは背中で聞いた。
アリウスの頬を一筋涙が伝わる。アリウスは顎を上げ涙がこぼれるのを必死に堪えた。
「アリウス様・・・・・」
もう一度、優しい呼び掛けがあった。自分は救われたとアリウスは思った。振り返ったアリウスの顔は、喜びを顔に出すまいと必死になっているせいか、妙に強張っている。
ユイマが正面から見てくれている。ドレーパリーの裾を揺らしながら、アリウスはテラスへ向かった。
ユイマの碧眼は澄み切り、翳りは見られない。
アリウスはユイマの側へ腰を下ろすと、数日ぶりに話しかけた。
「薔薇が綺麗だな・・・・・」
アリウスは視線を庭に向け、横目でユイマの顔を探る。
「はい、アリウス様、とても綺麗です」
「花の手入れは、どうなっておるのだ」
と、アリウスは言った。他に言い様は無いものか。
「二〜三日致しておりません、今日の午後いたします」
「哲学の勉学の進度はどうだ」
ユイマが、微笑んだ。いつものアリウスだと感じたらしく、安堵感が顔一杯に拡がっていった。
「イオニア学派、中でもアナクシ・マンドロス様の著作を中心に学んでおります」
「マンドロス様か・・・・・本は、前から申しているとおり、私の蔵書をどのように用いてもかまわぬぞ」
「はい、そうさせて戴いております」
「本から得るものは、君がその気にさえなれば無限にある。しかし・・・・・」
そこで、アリウスの言葉は詰まってしまった。
「しかし、何ですアリウス様」
ユイマが先を促した。
「しかし、人の一生を決定付けるものは他にある。人と人との邂逅だ。それは、宿命とも思え、また自らが切に欲した結果とも言える」
「私は、アリウス様との出会い。今までこれに勝る出会いはありませんでした」
「えッ! ユイマ、それは本心か!」
アリウスの眼は、カッと見開かれた。その頬に紅みがうっすらと刺した。
「本当です、アリウス様・・・・・」
ユイマがアリウスを見つめる。
アリウスは大きく何度も頷いた。眼にはいっぱい涙を貯めながら。
暫く沈黙の時間が訪れた。
アリウスの胸は幸福感で一杯になった。爽やかな風が、彼のプラチナブロンドの長い髪を撫でていく、テラスに張り出した日除けの布も僅かにはためく。ユイマが椅子の背にもたれ、青空を見上げている。
何かを決心しようとしていたらしい。アリウスは踏ん切りが着いたように、寄りかかっていた椅子から身を起こした。
「ユイマ、お前に渡すものがある」
「えッ、何でしょう・・・・・」
アリウスは立ち上がり、後ろの長い髪を掻き上げると、首筋の金の鎖を外した。琥珀のペンダントが着いた鎖を大事に手の平に乗せると、ユイマの正面に立った。
「髪を掻き上げなさい」
アリウスの声は落ち着いていた。
ユイマが言われた通り、金髪を掻き上げた。ユイマの細いうなじにアリウスの手が延び、金鎖を留めた。鎖の垂れ下がった胸元には琥珀が輝いている。
ユイマの細い首筋は鳥肌がたっている。鎖を手放したアリウスの手は、そのまま頬を伝い、ユイマの顎を少し持ち上げた。見つめ合う、アリウスとユイマ。
ユイマが、そっと眼を閉じた。アリウスの唇がユイマの唇に重なった。穏やかで羽根のように軽い口づけであった。
「アリウス様、これは・・・・・」
「ユイマ、君にあげるよ」
「しかし、これは大切なものでは」
「ああ、そうだ。私に流れる血の遙かな記憶が込められている。丁度私が君ぐらいの年の頃だった。ミレトスにペリアスと言う男がいた。当時彼はミレトス港の監督官で、私は毎日のように彼と話しをしていた。その彼にお願いして手に入れたものだ。ユイマ、これは大変に貴重なものだよ、これは琥珀という。何で出来ているか解るかい」
「琥珀・・・・・解りません。そんな貴重なものを・・・・・」
ユイマが少し戸惑いを感じ始めているように見える。
「ガリアの北にゲルマニアと言う北の大地がある。そこから更に海を隔てた北方に、スカンジナビアという氷の大地があるという。スカンジナビアは、一年の半分が闇の世界であり陽を見ることはない。残りの半分は弱々しい陽が、深い森に僅かに射し込む陰鬱な世界だ。遙かな、スカンジナビアの大気の結晶がこの琥珀である。数万年前の森の流した、樹脂の化石が琥珀となった。そして、そのスカンジナビアこそ我が故郷だ!」
アリウスの視線は青空の遙か遠く、北方の大地を見つめている。薄水色の双眸を細くしたまま、椅子に背をもたれ、穏やかな息づかいして、ユイマの存在を忘れたかの如く、話しを続けていく。
「ペリアスは、私よりも早くミレトスを後にし故郷のカルタゴに帰っていった。マンドロス様もテッサリアの地におられると聞く。ネストル、ヤクシーはパルサの地だ。サティーは何処へ行ったか分からない。ユイマ、君も近い内に、私の元から旅立つ予感がする」
「アリウス様、そのようなことはありません。私はアリウス様の側にこれからも居ます」 そう言うと、ユイマがアリウスの手の甲にそっと手を添えた。アリウスはそのユイマの手をもう一方の手で柔らかく包んだ。
「ありがとう、ユイマ。君に『海の民』の話しをしたことがあるね。私はその末裔だ、滅び行く民の血脈は途絶える。しかし、君に受け継いで貰いたいものがある。想念の相続をして貰いたい。叶えられる事のない私の切なる願望いを、受け継いで欲しい。君の眼を見れば解る。君なら或いは叶えられるかもしれない・・・・・」
「アリウス様、何を仰るのですか、それではまるで・・・・・」
その時、アリウスはユイマの口を手で押さえた。
「何も言わないで欲しい。私には予感があるのだ。唯、黙って受けとめてはくれまいか」 アリウスは自分でも感じていた。この数日来、何かが壊れてしまったらしく思われた。自らを支えてきた、自制し耐える力を失ったらしいのだ。別の面から捉えると、自らを解放してしまったと言えなくもない。
快い春風がアリウスの白いドレーパリーを揺らす。
ユイマがアリウスの気持ちをおもんばかったのだろう、何ごとも言わず琥珀のペンダントを掴み、考え込むように俯いている。
眼を閉じ、安らかな呼吸をするアリウスの胸には、何時もある琥珀のペンダントが無い。そこには、ある種の欠落のもたらす心もとなさが漂っていた。
テラスには土埃がうっすら積もり、隅では蟻が長い列をつくり、細かい食べ物の喰い差しを運んでいる。ここにも何かが欠けていた。
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