第四章 救済の劫火<10>
朝の一仕事を終えたパルコスは、執務室の椅子に大きな身体を投げだし、所在なげに顎髭を触っている。襲撃事件の捜査は思うように進んでいない。ついいましがたまで、部屋はパルコスの指示を仰ぐ人で、ごった返していたのだ。嵐が過ぎ、今は忙中閑ありの状態であった。
大きな机の上には、乱雑に書類が積み重ねられていた。補佐官になったオリオンが、見かねて片づけようとするも許さない。まして、身の回りの世話をする用人には、触れることすらできない。
何故か皆、パルコスの世話を焼きたがる。例外はアリウスだけだった。
アリウスが、常にパルコスとは一定の距離を置いているのは、リディアでの初見以来のことであった。
馴れようともせず、かといって忌む訳でもない。アリウスにとっては、それなりの精神の均衡の保ち方なのであったのだろう。彼が、脇目も振らず只ひたすら政務に邁進してきたのは衆目の認めるところだ。しかし、襲撃事件以来の変化に、パルコスが気づかないはずはなかった。
最近変わって来たのは、パルコスも同じであった。机に座っての執務が多く、しかも執務自体、以前のような、緊迫感のなか国家の存亡をかけ、脳漿を絞り切る執務とは明らかに異なる。
また、ことあらば騎馬に身を預け戦場を駆け回る必要も無くなった。ようは、身心を持て余すような、日々が数年続いているのだ。
パルコスは、その大きな手を二度叩いた。部屋を揺るがすような、大きな音が響いた。「お呼びでございますか」
四十過ぎの、男の用人が部屋に入って来た。
「おお、悪いが葡萄酒を持ってきてくれ」
「はい、承知致しました」
「失礼いたします」
オリオンの声である。
「おお、入ってこい」
オリオンが入って来て、眼を剥いた。長椅子に身を横たえ、パルコスが葡萄酒を飲んでいたのである。
「閣下、それは・・・・・」
「オリオン、お前も飲むか? それとも仕事中は飲まないなどと、ネストルのようなことをいうのか」
葡萄酒が入ったせいか、パルコスはすこぶる機嫌が良い。
「閣下、自分はネストル様の指導を仰いでまいりました。執務中の葡萄酒など以てのほかであります」
「ネストルはそれしか言わなかったか? 儂のことはどうだ?」
パルコスの顔が意地悪そうに笑った。一方オリオンが困ったような顔をした。
「は、はい。パルコス閣下がお飲みのなるのは問題ないと・・・・・」
「ハッ、ハハハ・・・・・そうであろう。ネストルが身共の副官を努めていた折りには、常に葡萄酒を用意しておったぞ。戦陣の時でさえ、常に革袋に入れておったわ」
「では、自分も今後はそのようにいたします」
「その必要はない、お前は執政官である儂の補佐官だ。ネストルのように将軍の副官ではない。身の回りの世話は、役務ではないわ。それより、一杯飲め!」
「いえ、それだけは何とぞご勘弁を」
最近には珍しく、パルコスの気分は浮き浮きしていた。かつてネストルをからかった時と同じように、オリオンを相手にしている。いや、オリオンの方が人間が固いだけ、からかうと、おもしろいのだ。
「そう言えば、お前はアリウスのところへ通っておるそうだが」
「おるそうだが、ではございません。閣下の指示ではありませぬか」
「おおそうであった。話しの腰を折るでない。儂の言いたいのは、アリウスもよく葡萄酒を飲むと言うことだ。あやつも執務室で葡萄酒を呑むぞ、もっとも儂が勧めたらではあるがな」
と言うパルコスの発言を聞き、オリオンの顔つきが変わった。
「不思議です。あの高徳で冷静なアリウス様が葡萄酒を好まれ、良く口にされるのです。厳正なネストル様も、パルコス閣下と同じく、アリウス様の葡萄酒には何も申されませんでした」
「アリウス、あの男は儂でも計りかねるところがある。謹厳にして高潔な男であることは間違いはないが、非常な脆さを秘めている。あたかも、ガラスのように、一カ所罅が入れば全体が崩れてしまう感じがする」
パルコスは打って変わって、額に皺を寄せ心配そうに言った。彼にとって非常に気になる存在らしい。いや、パルコスのみではない。アリウスは、出会う人それぞれにとって、気になる存在になって行くところがある。
「パルコス閣下、自分はアリウス様を心より尊敬いたし、手本に致したいと思っております。しかし、閣下の申されることも解ります。たとえて言えば・・・・・アリウス様が、赤葡萄酒を飲まれるときは、ハッとすることがございます」
「ほう、葡萄酒を飲むときハッとすると申すか」
パルコスは興味深げに、オリオンの顔を覗いた。
「はい、口に含まれた赤葡萄酒がアリウス様の白い透けるような喉を、紅い筋となって流れて行くように見えるのです。そして、網のように胸に拡がっていく気がするのです」
「質実剛健が取り柄のお主も、アリウスの薫陶を受け詩を解するようになったか・・・・・おい、そう赤くなるでない。儂は誉めておるのだ。素晴らしい表現であるぞ」
オリオンが、真っ赤になって俯いた。
「見ろ!」
そういうと、パルコスは葡萄酒を一杯飲んでみせた。
「どうだ、赤い筋が見えるか、それとも髭が邪魔だとでも申すか・・・・・ハッハハハ・・・・・」 オリオンが、身を縮めた。身の置き所もないとでも、言いたげに。
宮殿警備隊の訓練を見ると言ってオリオンが部屋を出ていった。宮殿警備隊は五つの班に分かれてそれぞれの部署を担当している。部署は一定せず順番に交代する、よって五日に一度は非番が廻ってくる。非番の二回に一度は戦闘訓練の日となる。訓練施設はエクバタナから少し離れた原野に建物と広い敷地を要していた。馬を走らせても相当の時間を要する。午後、陽のまだ高いうちに終わっても、帰り着く頃には夕暮れになる。よって、オリオンが指導に行くときは一日仕事になる。
オリオンの戦闘技術は定評があり、補佐官でありながら、特に頼まれて教官を努めることがあった。今日はその日であったのだ。オリオンが進められても葡萄酒を飲まなかったのは、その辺の消息もあったことを、パルコスは知っている。
葡萄酒を飲むと、どうしても動きが緩慢になる。飲むと更に戦闘能力が増すのは、パルコスだけである。まさに化け物と言っても過言ではあるまい。
「パルコス閣下、た、大変であります。只今、アッシリアの残党の情報がもたらされました」
部屋に飛び込んできたのは、治安と警務を担当する高官だった。
「なに、アッシリアの残党だと!」
アッシリアという言葉はパルコスに興奮を呼び起こす。決して憎しみではなく、逆に好敵手として尊敬の念さえあった。アッシリア帝国との戦いに半生を掛け、文字通り命懸けで対峙してきたパルコスにしかこの気持ちは理解できない。
四周を睥睨し、厳然とそそり立っていたアッシリア帝国。版図こそ今のメディア王国が勝っているが、その他のすべての面では遠く及ばない。メディアはあくまでも王国である。
あらゆる民族を包含する帝国ではない。いや、帝国たらんとして、パルコスもアリウスも必死の努力をしているのである。残念なことに、これを身を以て理解しているのは、惜しいかなアリウスと自分しかいないとパルコスは思っている。
「たった今、自分の配下の探索方より連絡が入りました。アリウス閣下襲撃事件を追っていた者からの情報であります。エクバタナ郊外の、イスドに潜んでいるとのことでございます」
警務官が、直立不動で話しをする。
「なに、イスドとな!」
そこは、パルコスの生誕の地であった。今は親類縁者誰も住んではいないが、まぎれもなくパルコスが少年時代を過ごした土地である。オアシスに寄り添うように暮らす人々の姿が浮かんできた。貧しいが、寄り添うように助け合う人々の明るい微笑みがこぼれていた。数十年前とは異なり、今ではずいぶん開け人も多く住んでいるという。 十一歳の時パルコスは両親と共にその地を離れ、近くでありながら、その後足を踏み入れた事もない。 アッシリアの残党がイスドに籠もっているとの報告は、パルコスに運命的なものを感じさせた。
「報告では、イスドの集落から少し離れた丘の上に、数個の幕帳を張り集結しているそうであります。人数は百人を数えるとのことです」
パルコスは窓辺に寄り外を眺めた。広場に面した宮殿の三階、パルコスの部屋よりの眺望は、パルコスをして感慨深いものがあった。広場より放射状に延びる路に沿って建物が並び人々の往来は煩雑だ。平和と繁栄の風景が繰り広げられている。
「おい、宮殿の警備隊の配置はどうなっておる」
パルコスは窓の外から視線を移さず、警務官に質問した。
「はい、三、四、五の三班がそれぞれの持ち場に付いております。第一班は非番であり、第二班が予備隊となり、控えております」
「確か、一つの班は三十人構成であったな」
「左様でございます」
「では、予備隊のみで、アッシリアの残党を殲滅するのは無理だな」
パルコスは考え込むように、外を見たままだ。
「とんでもございません。見張りを厳重にいたし、明日を期して大軍で包囲し殲滅するのが、常套だと思います」
「普通は、そちの申す通りである。しかし、往々にして正論は、機を逸することが多い。誰でもそう思うからだ。儂が参ろう」
そう言い、振り向いたパルコスの眼は爛々と輝いていた。久しぶりに、闘志が五体に充満するのをパルコスは感じた。
「かッ、閣下がですか!」
「儂では、不足と申すか」
「とッ、とんでもございません。閣下が出陣致せば、百や二百の敵など、一騎で蹴散らされること間違いございません」
警務官の膝が、小刻みに震えている。パルコスの出陣とはすなわち、『朱の獅子』が今蘇ろうというのだ。
「予備隊に伝えよ、すぐに進発する用意にはいれとな」
「ハッハーッ」
警務官が、脱兎のように部屋を掛けだした。
「オリオンは不在か・・・・・仕方あるまい親衛隊の若者を二人ほど連れていくとするか」
|