第四章 救済の劫火<11>
宮殿前広場はざわめいていた。警備隊の兵士の三十人は騎馬に乗り整列をしている。噂が流れるのは早い、人々が次々に集まってきた。
「いいかい、パルコス様が出陣なさるよ」
と母親が、子どもに話し掛けている。
「うれしいね、パルコス様の勇姿がまた見られるよ」
「朱の獅子の出現か」
「また、あの勇姿が見られるとは・・・・・」
「おじいさん、パルコス様が出てこられるよ」
集まった群衆は所々に固まり、それぞれ各自の思いを語り、すぐ後に出現するであろう興奮の予感に浸っていた。
「おーッ、パルコス様の馬だ」
一際高く声が挙がった。警備隊の兵士の馬より一回りは大きい馬が引かれて出てきた。パルコスの巨体を乗せ駆け回るには、普通の馬では無理である。
広場から歓声が挙がった。
持ち馬が出てきただけで、広場は興奮に包まれた。
その時、ひときわ大きなどよめきが起こった。
宮殿の入り口から、パルコスがその巨体を顕わしたのだ。
上半身は革製の腰まであるチュニックを身に着け丸太のような二の腕が、短い袖からニョッキリはみ出している。太い帯には、大振りの太刀を佩いていた。
下半身は革の長ズボンに、編み上げの靴を履いている。腰には葡萄酒の入った革袋を付けていた。
そして、頭には朱色の革製の兜を被り、はみ出した毛髪と顎髭は、獅子のたてがみを彷彿とさせた。
何処からともなく拍手がわき起こり広場全体を覆うかのように、鳴り響いた。
「朱の獅子が帰ってきたぞ!」
「朱の獅子だ!」
「バンザイ!」
絶叫とも言える声が方々から湧き起こった。
パルコスは表情を変えることなく馬上の人となった。親衛隊の若者が二人パルコスに従う。彼らも誇らしく朱の兜を被り、長槍を掲げていた。
パルコスが大きく手を掲げた。
朱の獅子を先頭に、二列縦隊で三十数騎が進みだした。いまや広場を覆わんとする人垣が崩れ道を開けるとおもえたが、事態は逆になった。行く手を阻むような行動を取り始めたのだ。
「ウオーッ、ウオー ・・・・・」
興奮のかけ声がうねりのように、次々に伝わり、広場全体が沸騰したように沸き立っている。興奮した人々が手を振り上げ、声を限りに大声を挙げる。
パルコスをはじめ、三十数騎は立ち往生をしてしまった。群衆に囲まれ身動きが出来なくなった。あわてて宮殿から、警備隊が出てくると、群衆の整理をはじめた。
何とか、エクバタナ市街を脱出した一行は郊外に達し、パルコスはイスドへの道を急いでいた。親衛隊の若い二人は、かなり興奮しているのか、手綱を持つ手が強張り蹄の音が調子を刻まない。
伝説の朱の獅子のすぐ後ろに控え行軍しているのだ。朱の獅子の復活など思いも寄らぬ事であった。しかも、なんと名誉ある朱の兜まで被っているのだ、興奮しない方がおかしいといえる。
エクバタナを離れ、暫くは草原が続く、なだらかな丘陵に放牧の羊の群が眼に入った。草原の緑の上には、何処までも蒼い空が拡がっている。決して消え去ることなく、永遠に同じ色彩を維持するかの如く、クッキリした光景であった。
「おい、そばに寄れ!」
パルコスが若者に声を掛けた。一人の若者が、馬を走らせパルコスの側についた。
「ハッ・・・・・」
そう言うと、若者は命令を待った。
「その、鞍に付けている。葡萄酒をわたせ!」
パルコスは、葡萄酒を用意させていた大きな革袋を受け取った。自分の腰の小さい革袋は後で飲むつもりらしい。
「おい、少し相手をしろ」
馬を走らせながらパルコスは言った。
「ハッ、光栄であります!」
パルコスから声を掛けられた若者は、興奮気味に返事をした。
「儂は、イスドの生まれだ。そう、今向かっている場所だ。十一歳までそこで暮らした。父は軍人であったが彼の地の有力者でもあり、少ないながら領地も持っていた。父が軍の高官になった時、我が家はイスドを離れエクバタナに住むこととなった。それ以来、一度もイスドには帰ってはいない。イスドはお前も知る通り、オアシスを中心とした集落である。子どもの頃の儂は、牛、馬、羊の放牧の仕事をする母の手伝いをしていた。むろん多数の牧童を使ってはいたが、父の不在中は、男の儂が母を助けねばと言う気持ちが強かった。あるいは父にそのように言われたのかも知れない・・・・・」
パルコスが自分の身の上を話すことは滅多にない。ましてや子どもの頃のことなどを長々と・・・・・。
「閣下がイスドの生まれであられることは、誰もが承知いたしております」
若い兵士の、言葉が続かない。過度の緊張のせいだろう。
「まあそうであろうな、しかし、儂の口から話したことはない」
パルコスは革袋に口をつけ、葡萄酒を飲むと更に続けた。
「お前は知っておるか、放牧と遊牧の違いを。放牧は動物を家畜として扱う、農業も行う。あるいは農民との共存を計らねば生活できない。遊牧は違う、遊牧の民は動物と共に生きる。他者との接触は必ずしも必要とせず自己完結をする。前者はオアシスの近くに定住し、後者はステップ草原を移動する。生活環境も異なれば戦闘形態も異なる。メディア国は放牧と農業の民が中心だ・・・・・」
葡萄酒のせいか、あるいは久しぶりの戦闘を期待し多少興奮してか、パルコスは珍しく饒舌に話す。馬を走らせてはいるが、嘗ての、朱の獅子の爆走とはほど遠い。
馬の立てる蹄の音も整然として激しくはない。走るにしたがい草原は、草も疎らな荒野になっていく、二列縦隊の三十数騎は、数刻後には始まるであろう戦闘の素振りも見せず駆けていた。
どの位、駆け続けたであろうか 、パルコスの鼻は、水と草の深い緑の色を嗅ぎ分けた。廻りは荒野であるが、水辺が近いはずだ。それは、彼の確信であった。
案の定、暫く走ると川に出くわした。川は満々と水を蓄え流れており、川辺は葦に覆われていた。パルコスは若い兵士に言葉を投げかけた。
「おい、こんな所に川が流れていたか?」
「はッ、冬の雨期に出来た川だと思われます」
雨期に突然出現した川が、アッと言う間に荒野を緑の大地に変えてしまうのは、信じられないほど見事なものである。水性昆虫、魚が泳ぐのも珍しい事ではない。驚嘆すべき生命力と言える。
「止まれ! 二人ほど斥候を出し、渡航地点を確保せよ」
パルコスは命じた。三十数騎の騎馬集団は動きを留めた、若い親衛隊兵士が後続の警備隊に、パルコスの命令を伝えると、後続より二騎が走り出て川に向かって行った。
川面から涼やかな風が吹いてくる。渡航地点を探索すべく二騎は川に入っていった。穏やかな流れを蹴散らす飛沫が、陽の光を反射し、キラキラ輝いている。
パルコスは何処かで見た風景だと感じたが、思い出せない。
「下馬! しばしの休息を取れ!」
と言うと、パルコスは一番に馬から降り、大きく伸びをした。渡河後は一気にイスドまで駆け抜けるつもりであろうが、今ひとつ緊張感に欠けている。
パルコスに続き、全員が下馬した。宮殿前広場を出て以来、警備隊の面々は全く口をきいていない。
警備兵がパルコスの側に集まって来た。何故か音を忍ばせている。パルコスは別段不思議には思わなかった。パルコスが、腰の葡萄酒の入った革袋を取ろうとしたとき、彼の右脇が一瞬ヒヤッと冷たさを感じた。何だろうと思った瞬間、身体の内部に火がついた感覚に襲われた。
「ぬッ!」
クワっと、目を見開きパルコスは右を見た。警備兵が突きだした槍が、パルコスの右脇腹を穿っていた。兵士に顔色はない、緊迫感もなく眼は虚ろである。
パルコスは太刀を払い、槍を断ち切った。長い経験で槍を抜けば出血が激しくなるのを知っている。そのまま太刀を背後に回し襲いかかって来る兵士を切り捨てると、駆けだした。
「何ごとだ!」
包囲されては、さすがのパルコスにもどうしようもない。見れば、親衛隊の二人の若者も攻撃を受けている。
「閣下!」
健気にも二人は、パルコスを庇おうと駆け寄ってきた。一人は腕に傷を負い、もう一人は頭から血を流している。パルコスと同じく不意を付かれたのだ。
「かッ、閣下。全員が謀反人です!」
取り囲まれた。見れば、三十人の警備兵全てが襲撃者となっている。襲撃者の動きは何故か鈍い、雄叫びを挙げる者はいない、興奮すらもせず虚ろな眼をパルコスに向け迫ってくる。
全く常識では考えられない事態だ。パルコスは殺し合いの修羅場を数多く経験してきたが、人は殺し合うとき、眼は血走り、身体は震え、奇声を放ち、狂気に犯されるものだ。 しかし、この場の襲撃者は異なる。闘志の欠片も見えず、あたかも操り糸で操作される人形のように意識の片鱗すら伺えない。
パルコスに背に冷たいものが走った。それは彼が、初めて感じた恐怖であった。
迫り来る敵に、太刀をかざしパルコスは切り込んだ。脇腹を貫いた槍の穂先も忘れて。パルコスの鋭い太刀筋が乱舞したと思うや、一瞬のうちに数人が倒れた。
親衛隊の若い二人も必死の形相も凄まじく戦っている。同じく数人の敵を倒した。
「危ない!」
パルコスが叫んだ。
何と、片腕を切り落とされ倒れた敵が、血を吹き出しながら若者に襲いかかったのだ。若者は背後から刺されたものの、振り返りざま敵を袈裟に斬りつけた。敵は左肩から右腰に掛けて切られその場に崩れた。しかし、又立ち上がろうとする。
痛みを感じないとでも言うのか?
「うわァー!」
悲鳴を上げ、恐怖に震えながら、若者は首を刎ねた。やっと敵は動きを止めた。その時、脇腹を切られ倒れていた敵が起きあがり、槍で若者を串刺しにした。
「首を刎ねよ!」
パルコスは大声で怒鳴った。もう一人の若者も全身血だらけになりながら戦っていた。パルコスは、敵を斬りつけると返す刀で、首を刎ねた。あるいは頭蓋骨を真っ向から切り下ろした。
十数人を倒すと、太刀が欠け、相手を切り裂くのが無理になった。首を刎ねられて横たわる敵の太刀を奪い、彼は敵の中に切り込んでいった。
累々たる無惨な死体が転がっている。いまや、戦い続けているのはパルコス一人になった。敵はまだ十人はいる。パルコスは、全身傷だらけになりながら全く怯む気配はない。
また、パルコスの太刀が駄目になった。その僅かな隙をつき、敵が太刀を腰に溜、体当たりした。太刀がパルコスの腹部に刺さった。パルコスは相手の頭を掴むと、首をねじりきった。
パルコスは、腹部に刺さった太刀を引き抜くと、その太刀で新たな敵を薙いだ。
葦の生えた川辺は、血なまぐさい匂いに満ちている。三十人の無惨な死体が散らばっていた。殆どが首のない死体、それは、普通の戦場ではあり得ない陰惨な光景であった。主を失った馬があちらこちらに散らばり、のんびり草を食んでいる。
一人だけ、全身から血を噴き出した男が、川を睨み付け仁王立ちになっていた。
パルコスだ。頭には朱の兜が乗っている。よろめきながら歩を進めていく、得物は手にしていない、素手の両手はだらりと垂れ、眼は虚ろだ。
川辺にたどり着くと、パルコスは崩れるように座り込んだ。腰の革袋は無事であった。蓋を取るのももどかしく口を着け葡萄酒を流し込んだ。
葡萄酒は乾いた喉を浸しながら、血を噴き出す内蔵へ浸み渡っていく。風が葦を揺らし、無惨な死体の上を撫でていく・・・・・。
命亡き者たちの横で、あたかも死者を追悼するが如くに、瀕死の男が葡萄酒を飲む。口から零れた赤い液体は、血と混じり合い、大地を濡らす。
死者たちの身体よりあふれ出た血液も、大地に吸い込まれる。死者たちはなにも考えていない。なにも感じない。つかの間輝いたであろう彼らの人生の上を、ただ、ただ、悠久な時間が流れ続けていく・・・・・。
パルコスは、なにも考えていない。ただ網膜の奥に、鮮やかな景色が映るばかりであった。
穏やかな川面が陽の光を照り返し、キラキラ輝いている。川の向こう遙かに、アッシリアの都、ニネベの城壁が眼に入る。
時を置かずに新バビロニア軍も到着する手はずだ。
パルコスは両手を頭の後ろに組み、仰向けに寝転がった。無意識に朱の兜を外すと腹の上に置いた。血は流れつづけ大地を赤く染めていく。草の匂いが心地よい。
「クレオン、あとは任せた。ニネベを落とすのはお前の役目だ。ネストル、明日からの攻城戦では、クレオンに従え。儂の役目は終わった・・・・・」
言葉の最後は、虚ろに草の中へ消えていった。パルコスは微かに寝息をたて出した。
髭面のパルコスの顔は、満足そうにニッコリ微笑んでいた。
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