第四章 救済の劫火<12>
翌朝、まだ明けやらぬ宵の内であった。
アリウス邸の玄関が激しく叩かれた。二階の寝室のアリウスの部屋でも聞き取れるほどの激しさであった。アリウスは飛び起き、素早くドレ−パリーを羽織ると廊下に出た。薄暗いなか燭台の炎が、か細く揺れている。ユイマも何ごとだ? という顔つきで部屋から出ていた。
「アリウス様、何ごとでしょう」
「解らぬ、どうやら緊急事態のようだ」
そう言うと、二人は階下へ急いだ。
玄関の戸が激しく叩かれている。
「何ごとである」
アリウスの透き通る声が響いた。
「アリウス様、オリオンです。開けて下さい! 緊急事態です!」
玄関を開けると、オリオンと三人の部下が控えていた。オリオンの顔は真っ青である。事態の大変さが、その顔色からも読みとれた。
「何を致して居る。入りなさい」
オリオンが室内に入ってきた。燭台に照らされた瞳は真っ赤に充血している。
事態の唯ならぬ様子に、ユイマは後ろで息を潜めていた。
「アルウス様、パッ、パルコス閣下が・・・・・亡くなられました」
「なくなられた?」
アリウスの頭脳は通常の反応を失ったのか、怪訝そうな顔をして後ろのユイマを振り返った。
「なくなられたとは?」
アリウスは虚ろな眼をして、ユイマに話しかけた。
「アリウス様、しっかりして下さい」
ユイマがアリウスの腕を掴んだ。
「アリウス様、パルコス閣下が御逝去されたのです」
オリオンはアリウスを正視できない。俯いたまま抑えて言った。
「逝去されたとな!」
信じがたいという、アリウスの叫びだった。そして、そのままユイマの腕の中に崩れ落ちていった。
気がついた時、アリウスは応接室の長椅子の上に横になっていた。ユイマが手を握り、オリオンが顔の間近で覗き込んでいた。
アリウスはゆっくり眼を開けると、部屋を見渡した。意識がしだいに戻ってくる。
「アリウス様が気づかれた」
オリオンが、廻りを取り囲む四人に、僅かに聞こえるように小声で言った。
「アリウス様・・・・・」
心配そうに、ユイマが話しかけてきた。
アリウスは起きあがると、椅子に腰掛け、白金の髪を両手で掻き上げた。頭の中を色々な想いが駆けめぐる。
アリウスは突然立ち上がると、血走った眼でオリオンを睨み付けた。
「いかん! オリオン、グズグズしては居れぬ。宮殿へ向かうぞ・・・・・ユイマも同道せよ」
ともかくじっとして居れない、今にも走り出しかねない気配のアリウスだ。
「お待ち下さい、アリウス様! まずは、どうか、どうか、オリオン様の報告を詳しく聞かれては如何でしょう。お願いです」
ユイマが、アリウスのドレ−パリーを掴み必死に引き留めた。オリオンも両手を拡げアリウスの行く手を阻もうとしている。
アリウスは椅子に座り直した。動悸が激しい、額はうっすらと汗ばんでいる。
「落ち着いて下さい、アリウス様。大変な事態なのです・・・・・ともかく話しを聞いて下さい・・・・・」
オリオンが、詳細にわたるパルコス襲撃事件の報告を始めた。羊飼いによって発見された凄惨な現場と、自らの手の者による探索の結果を含めて。
「・・・・・すべてが、綿密に計画されたものに、間違いございません。自分が非番であり、宮殿警備隊の訓練の為に不在であること。賊らしき者が、アッシリアの残党であり、しかもパルコス閣下の生地、イスドに潜んでいるという報告がなされたこと。宮殿警備隊のあの班が、予備隊になっており、彼らの様子が朝からおかしかったとの情報も入手致しました。予備隊の面々は、その日一言も発せず眼は虚ろで、まるで幻術にでも掛かったか、幻覚の生ずる薬物でも飲んでいるようだった。とのことでした・・・・・」
オリオンが興奮を抑えながら、アリウスに思いのたけを話した。
「アリウス様、オリオン様のお話を伺うに、宮殿に向かうことなど、とんでもない事に思われます。いやそれどころか、この場にも、長居は出来ないのではないでしょうか?」
「ユイマ、お主の云うとおりだ。すぐにも此処を引き払おう」
オリオンもそのつもりで、アリウス邸を訪れたのだ。
「オリオン様、何処か心当たりでも」
「ある! あらゆることを想定し、用意は常にしてある。一時的に身を隠す場所に案内させていただこう」
あらゆる事を想定し、準備しておくことをオリオンに教えたのは、他ならぬアリウスであった。
頭を抱え俯くアリウスには、オリオンとユイマの会話が、空疎に思えている。彼の頭は混乱し一つの想いにだけ囚われていた。
(パルコス様が、死んだ! あのパルコス様が、私の前から消えてしまったというのか?もう二度とお会いすることは、叶わぬのか・・・・・何故、何故なんだ!)
アリウスの双眸に髭面の大男の顔が浮かんだ。椅子に寄りかかり、口を開けて大笑いしている髭面。片手には葡萄酒の壺を抱えて・・・・・。
身の回りを整理し、必要な物だけ持ち出すとアリウスとユイマは、オリオンの導きで、舘を後にした。まだ夜明け前の薄明かりの中を、二台の馬車を走らせている。車輪のたてる音が、石畳の上に響いた。
アリウスはもう二度と帰らぬであろう舘を振り返った。灰色の二階建ての舘は、もうすぐ鮮やかな今日の、朝日を浴びることだろう。
思えばこの舘もパルコスの用意して来れたものだ。そして、サティー、ヤクシィー、ネストル・・・・・パルコスに繋がる人も皆・・・・・アリウスの元を去っていった。
アリウスは、激しく揺れる馬車の端を掴みながら、ユイマとオリオンの緊張気味の横顔を見つめた。
「ユイマ、書籍は何か持ち出したか?」
ふと思い出したようにアリウスは言った。
「はい、一冊だけ持ち出しました」
アリウス邸の膨大な書籍はいずれ灰燼に帰すであろう。あれほど大事にした書籍に対する拘りも、アリウスの心には湧いてこない。
ユイマの胸には、金の鎖に繋がれた、琥珀のペンダントが輝いている。
「ユイマ、何という書籍だ?」
もしやと思ってアリウスは、尋ねた。
「はい、ホメロスのイリアスです」
やはり・・・・・アリウスの心の中で納得するものがあった。
(今日とは違い、あの日は夏の暑い昼下がりであったが、同じように急ぐ馬車に揺られていた。行き先は我が家であった。アナクシ・マンドロス様に抱かれた私は、しっかりと、ホメロスのイリアスを掻き抱いていた・・・・・その、マンドロス様も去っていかれた)
陽が登り、闇が景色の背景にしりぞき始めた頃、偉容を誇るエクバタナ宮殿は大混乱に陥っていた。
高官、下僕の別なく、あらゆる人々が同じように回廊を声を上げながら駆け回っている。オロデスもフラーテスも次々に訪れる役人、軍人の対応に追われていた。
国の柱石としてかけがいのない、パルコスが白昼殺害されたのである。宮殿警備隊のみならず、都を護る親衛隊に対しても集合の命令が下された。時を経るにしたがい混乱は極みに達していく。
伝令の馬が、次々に宮殿を後にし、各地へと散らばっていった。さわぎを聞きつけた、群衆が広場を埋め尽くていく。
朱色の獅子の勇士を、この広場で見たのが昨日のことであった。あのパルコス様が死ぬなんて信じられない。というのが、集まる人々すべての思いであった。
夕暮れ時、やっと手が空いたオロデスとフラーテスは、外に衛兵を立たせ、扉を閉めたフラーテスの部屋の片隅で、椅子を側によせ、額を突き合わせるようにして話している。「うまくいった。しかし、信じられない思いがする」
と、オロデスが言った。黒い頭髪に顎髭を蓄え、野心に燃えた褐色の瞳は輝きを増している。
「さよう、まさか白昼のパルコス襲撃が上手くいくとは、我ながら信じられない気がします。それにしても、恐るべきはラオメドン」
小さな両眼を、狡猾そうに瞬きながらフラーテスは言った。
「ラオメドンか・・・・・まさか、薬物であそこまで人間を操るとは、恐ろしき者よ・・・・・」
「オロデス殿、クレオン将軍への手配はいかがでしょうか。今我々にとって、恐るべきはあの男のみであります」
この二人にとっての心配はクレオン将軍の動向である。
「至急の伝令を出してある。一応、アッシリア残党とリディア王ダイダロスが背後で糸を引いている事を匂わせておいた。フラーテス殿、リディアへの働きかけは上手くいっておるのか」
「ご心配なく、メディア国境に兵を集結しつつあるはずです。ぬかりはありませぬ。アステュアゲス王子に、ダイダロス王の娘を迎えることも決定し、準備も着々と進んでおります。なにしろ、今、クレオン配下の第一管区軍に攻められては、とてもエクバタナは持ちこたえられませんからな」
そう言うと、フラーテスはたるんだ頬を引きつらせニタリと笑った。
「そうか、全てが上手くいったか」
オロデスが、安堵の息をフーと吐いた。
「ただ一つだけ失敗がござる。今朝方、身の安全を護るとの名目で、アリウスを拘束しようと兵を向かわせたのですが、立ち去った後でした。何かを感ずいたと思ったほうが良ろしかろうかと」
「アリウスめ! しかし、ネストルと結びつかぬ限り何もできまい。アケメネス家の対策を急ぐ必要があろう」
「いかにも、我がキュアクサレス王の長女、マンダネ様はカンピュセス王のもとに嫁ぎ、キュロス二世をもうけられております。まずは大丈夫とは思いますが、用心に越したことはありますまい」
二人の密談は暗くなっても続いていた。
「パルコス派の粛清は急ぐ必要はあるまい」
とオロデスが言った。
「いかにも、今すぐ動けば我らの謀略を悟られる恐れがございます。しかし、後のために粛清者の名簿は、極秘裏に進めましょう」
フラーテスは、国政を操る誘惑にのまれているようだ。肥満した身体を持て余しげに立ち上がると、部屋の棚から葡萄酒の壺と盃を二つ持ちだして来た。
「どうです。一杯」
とフラーテスは言った。
「おお、それは良い」
オロデスの険しい顔が緩んだ。
盃を掲げ、二人は満足そうな笑みを漏らし葡萄酒を飲んだ。
「ふーッ、いよいよ、オロデス様の天下でござりますな。国王は、あの様にほとんど廃人に近いありさまで、王子も、とても国政を担う器ではございません」
フラーテスの言葉を満足げに聞いていたオロデスが、何かを思い出したのか、話しを変えた。
「ラオメドン・・・・・恐るべき男だ、策略、薬物の知識に関しても並ぶべきものがいない。
今までは役に立ったが、今からは災いになるに違いない。まあ、もっとも彼には軍を動かす力も、国政に口出しすることもできない。出来るとすれば暗殺であろう」
オロデスがラオメドンを最も恐れていた理由は、寝返りを打たれ、パルコスのもとに走られる事であったはずである。しかし、いまやそのパルコスもいない。いや、そのパルコスを倒したのは、誰あろうラオメドンその人である。
フラーテスには、オロデスの考えが手に取るように解る。彼も全く同感であった。しかし、どうしても理解出来ない点がある。
「オロデス殿、ラオメドンの目的は、望むところは何でしょう。私にはこれがどうしても解りません。地位や財物で誘いを掛けてみるのですが・・・・・本心から欲しがる素振りを見せません」
「フラーテス殿、私にもこればかりは理解できぬ。ラオメドンは我々とは全く異なった、価値観を持ち、異なった世界に住んでいるとでも他に考えようがない」
二人を不安に陥らせるのは、ラオメドンの為す行為でも、力でもない。どうしても理解できぬ、その存在自体なのであろう。
夜も更けてきた。さしもの宮殿の混乱も落ち着いてきた。長い話しは終わり、オロデスが部屋を出ていったのは、つい今し方だった。
燭台の炎が揺れる中、フラーテスは肥満した身体を椅子に寄りかからせ、事変の余韻を楽しんでいるかのようだ。
(オロデス、ついにあの男の天下となった。自分に不満はない。メディア国の顔として、統治し民を導く才は、彼にはある。自分には全くその才はないが、裏に回り謀略を尽くすのは、彼より遙かにうわてである。自分はその事をわきまえており、オロデスもそれを知っているので、まず自分を排除することはあるまい。今からは思う存分、したいことをさせて貰おう。自分にとって、謀略を巡らす喜びは何ものにも替えがたい快感である。そして、肉の欲求を満たす・・・・・この二つ以外の快楽は考えられない。それだけが望みでもある。四階の王子の部屋に行くにはまだ少し時間が早いか・・・・・)
フラーテスの厚くぬめった唇から、涎が一筋糸を引き胸に垂れた。
王子の婚姻については一顧だにしていない。あれはあくまで、リディアとの政略の道具と考えている。
フラーテスにしてさえ、抑え、飼い慣らしてきた欲望の炎。それを今、さらに解き放つとでも言うのか。
いたいけな数多くの魂を、闇に紛れて犯し引き裂いてきたのではないか。そして今は、貴種のアステュアゲス王子を凌辱することに、欲望をたぎらせているフラーテス。
これ以上、解き放つ欲望があるとでもいうのだろうか。日々、快楽に溺れ、制御する何ものもなく、唯、淫らな肉の快感に埋没してしまう・・・・・肉の奴隷、地獄の住人になっていく宿命が、彼に課せれた運命の様相であろうか。
フラーテスは立ち上がり、戸棚まで歩くと扉を開けた。中に入っていた、小さな壺を大事そうに胸に抱くと、椅子まで戻ってきて腰を掛けた。
肉に埋もれた小さな眼が、異様にギラついている。半開きになった口元からは涎がたれていた。
フラーテスは大事そうに、小さな壺をなでている。
それは、ラオメドンが新しく調合した薬だった。強精剤と媚薬の効果が今までとはまったく異なり、効果は絶大という説明を受けていた。フラーテスは待ち焦がれているであろう王子のもとに行く時間になったと思った。その前にこのを薬と思い、フラーテスは壺の蓋を開け、匂いを嗅いだ。
(何と良い香りだろう・・・・・今までのものとは明らかに違う。・・・・・これは、杏の香りだ・・・・・)
フラーテスは一口飲んだ。
瞬間、彼は肥満した身体にかかわらず、バチンと弾かれたように突っ立った。小さな眼が、カッと見開かれ白目になった。そのまま棒のように背後に倒れると、喉を血の出るのも構わず掻きむしった。呼吸が出来ないらしい。
ほんの一瞬の出来事だった。口から血を吐き、仰向けに天井を睨んだまま事切れた。フラーテスの肥満した肉体が、物体と化し灰色のフェルトの上に横たわっていた。
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