第四章 救済の劫火<13>
エクバタナの南方、ペルシア湾の近くに、スーサという都市がある。チグリス・ユーフラテス両大河の支流に位置し、交通の要害の地として古くから栄えており、メディア国に於いても経済の中心はこの都市であった。
一時は、パルサのアケメネス家の所領であったこともあるが、この当時は、すでにメディア国の直轄地であった。
河川流域の広い平原は、穏やかな曲線を描いて丘になっている。その上には、城壁がそびえ立ち、東西南北の方角には巨大な城門がある。夕日とともに隊商が到着し、朝日とともに旅立っていく。人種も入り乱れ、各国の情報が交差する。
この後、ペルシア帝国の時代になるとスーサは、物流の要の都市として、さらなる発展を遂げることになる。
夕暮れにはほど遠い、陽射しの強い草原を、二頭の馬が横並びにスーサに向かって駆けていた。
一人は、四十過ぎに見える男であり、強靱そうな身体をしていた。頭巾を通して微かに右頬に傷が見える。男はメムノンであった。
もう一人の男は、年も若く、体つきも華奢である。頭巾の下の顔は、ほっそりとして、優しそうな顔立ちをしている。涼やかな碧眼が光を秘めている。
二人とも、ごく普通のチュニックを身に着けており、下はズボンを履いている。取り立てて変わったところもなく、普通の旅人の服装である。
「もうしばらく走りますと、スーサの町に到着します」
メムノンが若者に話しかけた。へりくだった感じである。
「スーサか、今回で何度目だろう」
若者は真っ直ぐ前を見て答えた。
「しかし、王子は旅が好きですね。この数年でオリエント地域のめぼしい所は、ほとんど訪れたのではありませぬか」
メムノンが王子と呼びかけた若者こそ、英雄キュロス大王の若き日の姿であった。
「私の旅には、すべて意味がある。メムノンは言うまでもなく解っておろう」
「でも、好きでしょう」
とメムノンが言った。とても主従の関係とは思われぬ言葉使いだ。
「うん、好きだな。この大地を走る気分はなんとも言えぬ。それに、各地の人々、その風習、何とも言えず興味をそそる」
キュロス大王はその生涯を通じて、宮殿に鎮座することなく各地を転々とした。アケメネス朝ペルシャには、都が四つあり四都と称された。すなわち、スーサ、エクバタナ、サルデス、バビロンの四つである。晩年にいたり、出生地のパサルガダエに大宮殿の建造を始めたが、完成を見ることなく、戦場に倒れた。
「メムノンは、スーサに到着したら、また女であろう。あの町には色々な、民族が集まり遊女の出身地も、様々でさぞかし良いであろう。紅灯の巷か・・・・・」
「王子、また女、という言い方はいささか不満であります。表面的には事実でありますが、私は、遊女を通し各地の情報を探っているのであります」
メムノンの顔が紅みをおびた。多少憤慨しているのであろうか。
当時、スーサの町には、数百軒の遊郭が軒を連ね、その殷賑ぶりは、バビロンにも勝るとも言われていた。
「そうむきになるな。決して責めている訳ではない」
「王子は、どうなのですか。まさか女を知らぬ訳ではありますまいが、いっこうに女の影が致しませぬ」
「女はしっている。しかし、うつつを抜かす訳にはいかぬ。私には成し遂げねばならぬ、天命がある」
「好きな、女はいないのですか」
「もう良いではないか。話しを女に持っていった私が悪かった。早く行こう、デュマスが待ちかねているであろう」
この主従は、やはり少し変である。二人きりの雑談ということもあろうが、あまりにも開けっぴろげで、遠慮することがない。メムノンとて、相手が王子意外なら、油断ならぬ権謀術数を巡らす謀略家とも言えるのである。
二人の行く手に土埃が上がっている。
さらに近づいていくと、十数頭のラクダを連ねた隊商であった。成人の男が七〜八人、男の子が二人の集団であった。
遊牧の民、スキタイ人によって、鞍と鐙が発明され遊牧の世界で革命が起きたのは、それ程以前のことではない。今では、軍用ばかりでなく一般の商人の間にも普通に使われている。
その隊商のラクダには、鞍もあり鐙のような紐も着けられており、隊商の男たちはラクダに乗っていた。男の子は見習いのようだ。
「どうだ、景気は良いか」
キュロスは、隊長とおぼしき男のラクダに近づき、見上げるようにして声をかけた。
「まあまあだな。ところでお前さんたちは、何者だい」
隊長とおぼしき男は、多少ぶっきらぼうに返答をした。キュロスの開けっぴろげな雰囲気のせいか、警戒心は持っていないようだ。
「見てのとおり、メディア王国の官吏だよ。スーサに赴任する途中だ。大きな麻袋だな、中身は穀物みたいだな」
「ああ、大麦だ」
ラクダの背に振り分けられた大きな麻袋は、はちきれんばかりに膨れていた。メムノンは黙ったままである。また誰にでも話しかける、王子の癖が出たとでも思っているのだろう。
「大麦はスーサでは、高く売れるのか」
「高くはないが、すぐに売れる」
「売ったらその金で、金属や衣料でも買い込み、また次の市場にでも行くのだろう」
「ああその通りだ。最近は盗賊も少なくなったおかげで、道中は安全になったが、その分競争相手が増えてあまり儲からなくなった」
ここ暫くは、メディア、リディア、新バビロニアが確固とした基盤を築き、国内を治めているため、隊商路の秩序は維持されているらしい。
「そう言えば、あんた達、メディア王国の官吏と言うことだが、王宮で大事件が起こったそうではないか。情報を教えてくれないか」
すでに、隊商人の間にも、異変の情報は伝わっているらしい。
「我らは、エクバタナから来たわけではないから、詳しいことは分からぬ。スーサに行けば、なにか分かるだろう」
「そうか、スーサの城門も見えたことだし・・・・・」
男の言うとおり、キュロスの眼前に、スーサ城の巨大な城門が姿を顕わし始めた。
まだ夕暮れにはほど遠いスーサの繁華街の裏通りにある小さな隊商宿に男が三人、粗末な部屋の床に座り話し込んでいた。一人はデュマスといい五十過ぎの男である。本来、黒い頭髪と顎髭であるはずだが、年のせいか白いものが多く混じっていた。
商人という雰囲気ではない。皺の一筋にも知性が刻み込まれたように見える。
「王子、すべて旨く事は運びました。完璧といえるでしょう」
ディユマスに王子と呼びかけられた男こそ、キュロス王子である。
デュマスは、キュロスの父カンピュセス一世の家臣であり、子どもの頃よりキュロスの養育係として従ってきた経歴を持つ。いかにも元軍人らしい、頑強な身体ではあるが、明晰な頭脳を併せ持っている。
「これしきのこと、当然である。おまえたちに働いて貰うのは、これからだ」
と、キュロス王子は言った。
栗色の細い髪が波うっている。華奢な身体と、白くほっそりした顔立ちは整っており、髭もなく、女性的ですらある。ごく普通のチュニックを身に着けており、袖から出た腕と指は白く細い。
ただ、碧眼の双眸だけが異様に輝き、唯ならぬ雰囲気を醸し出している。
キュロスはパルサの地にメディア国の一部として、自治を認められているカンピュセス一世王の嫡男である。
パルサこそペルシアの語源である。
キュロス大王の事跡はあまり広くは知られていない。しかし、オリエント世界はむろん、世界の歴史に果たした、個人としての影響力はアレクサンダー大王を遙かにしのぎ、ジンギスハンに迫るものがある。
個人、つまり一人の英雄が歴史に直接影響を与えるのはまれである。
キュロス大王は、侵略と征服を大規模に行い殺戮を行ったが、統治政策の基本は、寛容と融和であった。各民族の文化、伝統、固有の社会組織を認め、弾圧することは決してなかった。
宗教に於いても同じであった。ゾロアスター教を国教としたが、他の宗教を弾圧することはなく、むしろ保護した。
旧約聖書には、キュロス大王がバビロンを征服したとき、ユダヤ人捕囚を解放し、エルサレム神殿の再建を許したことで、救世主と讃えられているそうである。そして、彼は同じようにバビロンの神マルドゥクの信仰も許した。
この事実をもって、キュロス大王の徳望を賛美するのは、必ずしも適切とは言えない。 何と言っても、事実として、オリエント世界を統一した、史上初めての「世界帝国」の創設者である。この広大なる版図を、少数のペルシャ人で、二百数十年に渡り支配したのだ。異なる文化、伝統、宗教の保護政策には、知謀神に達する、綿密な計算と、策略があったはずである。
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