ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






   第四章 救済の劫火<14>

   
「王子はこの年寄りを、まだこき使おうと仰るのかな」
 デュマスが、楽しげに遠慮なく王子に話しかける。
「人には生まれた時より定めがあり、役割が与えられている。与える者が、神であろうと悪魔であろうと私には興味がない。私の役割はオリエント世界の統一である。それ以外の欲望や望みは不要である。デュマス、メムノンそちらの役割はこの私の役に立つことだ。本当の試練は今から始まると考えた方がよかろう」 
「王子、諸国を遍歴なさるのは、何時まで続けるおつもりですか?」
 とデュマスがキュロスの意志を伺うように言った。
「このスーサで一応終わりとしよう。メムノン、特にお前には色々世話になったな」
「とんでもございません。王子の役に立つだけで本望でございます」
 と、メムノンをして言わせてしまうキュロスはただ者ではない。王者の器というものがあるのなら、キュロスこそまさにそれに相応しい。
「王子、よろしいでしょうか」
「なんだ、デュマス」 
 この臣下のあいだには、礼節はあるものの、極めてくだけたところがある。キュロスの醸し出す雰囲気がそうさせるのであろう。
「王子があれほど、尊敬されていたパルコス様を殺害なさるとは・・・・・もっとも直接殺害を指揮したのはラオメドンであり、王子がいっさい、手を下されなかったのは事実ではございますが」
 パルコス殺害の黒幕は、この年若いキュロスであったのか!
「私は何もしていない。パルコス閣下殺害が私の意に叶うことであり、ラオメドンを止めなかっただけだ。あわれにも、ラオメドン自身そうするしか他に、選ぶ道がありえないのだ」
「それはまた、どういうわけでござりましょう?」
 メムノンが身を乗り出した。
「お前には、解るまい。しかし、私には解っていた。そしてこの後も解るが、必要とも思われないので私は言わない」
 謎のような言葉を、キュロスは投げかけるだけだが、メムノンが不思議には思っていないことは、顔色でわかる。この主従にあっては普通のことなのだろう。

「メムノン、お前のおかげで色々な人物とあったが、クレオン将軍をどうおもう?」
 キュロスは人のうわさ話でもするように軽く尋ねた。
「自分は、武勇において人に後れをとるなど思った事もございませんでした。例外は、パルコス閣下とクレオン将軍にございます」
「あの男、武勇だけではない。高潔な人格、全軍を指揮する指導力、さすがパルコス閣下の後継者と目されているだけのことはある。来るべき我が国の軍事一切をあの男にゆだねることも考えておる」
「何と申される、たった一度会っただけで!」
 メムノンが眼をむいた。いつもキュロスには驚かされているにもかかわらず、さすがに今回は驚いたようである。
「一度会えば解る。何度も話し込まねば解らぬ者は、王の器ではない」
 とキュロスは身の蓋もないことを言った。
「王子、私はあなたのご判断に異存は御座いません。しかし、それ程尊敬されているパルコス閣下を何故に・・・・・」
 デュマスが疑問をキュロスにぶつけた。
「役目が終わったからである。アッシリア帝国を滅ぼしたのは、パルコス閣下一人の力だと言っても過言ではないほどだ。彼以外だれもなしえる仕事ではない。むろん私にも出来ない。アッシリア帝国の滅亡なくして、オリエント世界の統一などあり得ない。『朱色の獅子』いかに私が閣下に憧れたことか、お前たちには想像できまい。しかし、しかし彼の役割は終わったのだ。彼が生き続けること、こんどはそれがオリエント統一の障害になるのだ。悲しいことに、私の器をしても、とうていパルコス閣下を使いこなすことは、かなわぬ・・・・・」
 穏やかな顔のキュロスの額に一瞬、悲しみの影が走った。

「先ほど、私は諸国遍歴の旅を一応終えると申した。その理由をもう少し述べよう。ほぼ国家の構想が出来上がったのだ。クレオン将軍の事は先ほど申した。今、パルサの地にネストルがいる。この男も、パルコスとアリウスの薫陶を受けた、まれにみる逸材だ。我が国の表の顔として、全面に打ち出そうと思う。譜代の臣の中には不満が沸き上がろうが、それは私が潰す。このことは、お前たちも良く心得ておけ」
「王子、アリウス様招聘の件は如何?」
 とメムノンが言った。
「招聘はあり得ない。ネストルから彼の話はきいた。国家の運営、統治機構の構築、歴史的認識、まさに天才と言えるだろう。しかし、彼の役目も終わった。彼の意志はネストルほか数人に受け継がれている。私はその者たちを大切に用いよう。先頃、メムノンの導きにより、エクバタナの路上でアリウスを見た。あの男は滅びる。それこそがあの男の切なる願いである。メムノン、これまた、お前には解るまい」
 そう言うと、キュロスは静かに笑った。ラオメドンの時と同じように、意味ありげな言葉であった。
 二十歳の若者に、メムノンですら理解できない何が解るとでもいうのだろうか。キュロスの眼に、アリウスとラオメドンははたして、どのように映っているのだろうか。

「お前たちの役目は、裏の世界で私、即ち国家を支える事だ。決して表に出ることはない。如何なる手柄をたて、功績を残そうともだ。誰からも褒め称えられる事もない。しかし、私は見て居る。私が見続ける事だけが、お前たちの苦労に対する報酬である」
「そして、役目が終われば、お払い箱ですか・・・・・王子」
「そうだ、その通りだ。解って来たではないか、メムノン。そして、私も役目が終われば、お払い箱だ」
 キュロスはいかにも満足げに笑った。
 つられて、デュマス、メムノンも笑い出し暫く止まらなかった。
 二十歳の若者に、歴戦の猛者がこのように魅了され身を投げ出すとは信じられない事ではあったが、これもまた事実である。
 
 宿の空気が、何となく慌ただしくなった。隊商が到着する刻限になったのであろう。人の歓声や足音が部屋の中まで響いてきた。 
 雑談風ではあったが、内容的には深刻な打ち合わせは、まだ続いている。自らの構想を語ることが、年若いキュロスの数少ない楽しみの一つであった。かといって、誰にでも話すという事では決してない。相手によって言い方を変える分別は取り分け優れている。
 この場の話しは、ネストル、クレオンには決して漏らすことは出来ない。一方、ネストルとの話しを、デュマス、メムノンに漏らすこともない。ただ、キュロスの頭脳の中でのみ統合、止揚されて、彼は行動に移るのだった。
 隊商宿の粗末な部屋は、灰色のフェルトが敷き詰められていた。当然、寝台と言う上等なものはない。そのことが気にならないキュロスであった。
 先ほどから、デュマスとメムノンが胡座をし、葡萄酒の盃を傾けている。しかし、キュロスは酒を飲まない。美食の習慣もない。
「人材を抜擢することに関しては、父君のカンピュセス王は有名ですが、王子ほど大胆ではありません。不安はございませんか?」
 デュマスが白髪混じりの髪を掻き上げながら言った。
「不安はない。眼鏡違いにより失敗すればそれまでのことだ。それより、私の不安は、人事登用にあたり、躊躇し決断が鈍ることである。この場合、今までの経験で申すと、まず結果が良くない」 
「王子、クレオン将軍、ネストル殿の登用もまったく不安はないと仰るのですか」
 メムノンが確認するように言った。
「メムノン、お前は不安があるか」
「ございません」
「それなら良いではないか。私にはまったく不安はない」
 キュロスは微笑んだ。 
「アリウス様の薫陶を受けた者に、オリオンという若者がおりますが、王子はいかがお考えしょうか」
 メムノンには、アリウスの関係者に対する思い入れがあるようだ。
「オリオンは、良い若者である。いずれ私の力になってくれるだろう。しかし今のメディア宮廷は混乱の極みだ。彼は近い内にダハイの地に戻るであろう。彼は必ずや彼の地で頭角を現す」
「頭角を現すとは?」
「カスピ海の東岸、及び南岸一帯を睥睨するであろう。サティーの力も借りてな」
「えッ、王子はサティーのこともご存じですか!」
 メムノンが、口を半開きにした。かなり驚いたらしい。
 キュロスの彷徨は常にメムノンが同行しているとは限らない。キュロスは突然姿を消し各地を一人で彷徨することがある。後年にもその癖は治らず。ペルシア帝国統治の性格にもその影響が現れることになる。
「サティーは綺麗だ、あれほど心引かれる女性は初めてだ!」
「王子、聞き捨てなりませぬぞ。ぜひにでも娶られては如何でしょう」
 デュマスは、身を乗り出した。キュロスから女性の話が出ることは、まずないとでも言いたげに。
「デュマス、お前はサティーを傾国の美女にするつもりか。もしそうなれば、私はうつつをぬかすぞ。それでは、オリエント統一もあったものではない」
「いや、それは困ります」
「常々申しておるように、私の一生はオリエントの統一にあるのだ。后を迎える時は、その点を考慮する。ただ、気になる存在がある」
「王子が気に掛かるとは、なにごとでしょう」
 と、メムノンが言った。
「ユイマと申す少年だ。あの少年はどうにも解らない。この私が解らないと申すのだ。並みの人間ではないことは確かであるが・・・・・一度、話をしてみたいものだ」
「ユイマ、あの子は純粋で本当に良い子だとおもいます」
「ほおッ、メムノンはいたく気に入ったようだな」 
「あの子の眼を見ますと、自分が素直になってしまう気がします」
「権謀術数の限りを尽くすメムノンがであるか」
「王子、からかわれては困ります」
 と言うとメムノンが微笑んだ。
 主従三人の楽しそうな会話は、みすぼらしい隊商宿の一室でまだまだ続いていく。後年キュロス大王になっても、彼の醸し出す雰囲気は変わることがなかった。
 笑いを交え、軽く語られているようではあるが、オリエント世界の運命を左右しかねない重要な話題を含んでいた。
 波乱を含んだ、疾風怒濤の新しい歴史の展開が、今、この場からはじまった。

次ページへ小説の目次へトップページへ