第四章 救済の劫火<15>
早朝の陽が矢のように身体を、大地を射抜く。あぜ道を、弾けながら馬車が駆けていく。エクバタナの市街を外れたばかりの所だった。
まだ緑色の短い穂をつけた大麦畑のうねりが、アリウスの眼に入る。馬車が速度を落とした。比較的大きな農家の軒先に二台の馬車が止まった。
六人の人間が馬車から降り立った。馬車に揺られたせいか、多少足下がおぼつかない。眩しく煌めく朝日が、アリウスのプラチナブロンドの髪と、白いドレーパリ−に照り返され微細な光を放つ。
日干しレンガを積み上げた赤い壁、その上に麦藁を葺き占め屋根としている。メディアの典型的な農家の風情であった。農家の入り口で、農夫とその妻が、お辞儀をし六人を迎えた。
服装からすると、明らかに農民に間違いはないが、夫婦ともどことなく気品のようなものをそなえている。
足下からの、柔らかい土の感触が生命の息吹を感じさせる。アリウスの沈んでいた心が少し和んだ。
「アリウス様、汚い所ですが少しの間、我慢を御願いいたします」
「オリオン、世話になる。心配りは無用に願いたい」
心なしかアリウスの言葉に力がない。彼の思考は乱れ、進むべき方向を見失っていた。今はオリオンの言うがままに動かざるを得ない。オリオンがアリウスを、導こうとするのは何処であるのか。
「オリオン、あのご夫婦は」
アリウスは、一介の農民に対して、対等に感ずる何かがあった。
「アリウス様、お気づきですか。今は農民ですが、多少いわくがありまして、何というか隠者と申すべきでしょうか、何れにせよ、まったく心配はございません」
「アリウス様、ここはいいところですね」
ユイマの眼が輝き、庭先を駆け回る鶏の動きを追っている。彼にとっては、記憶にある懐かしい光景を、思い出させるものがあるのだろうと、アリウスには思えた。
入り口から入ってすぐの土間の部屋は、テェーブルに椅子、長椅子もあり一部にはフェルトも敷かれた、広く清潔な部屋であった。炊事場はすぐ横にあるらしく、農夫と妻が何か用意をしている水音がする。
六人はそれぞれ椅子に腰を下ろす、アリウスは長椅子に揺ったりと座った。
「アリウス様、しばらくはここでご辛抱願います。今、迂闊に動くことは危険です。私の手の者、ここにおります三人にエクバタナの様子を探らせます」
「オリオン、様子を探りどうするつもりだ?」
アリウスには、こうしたいという意志は湧いてこない。
「アリウス様をカスピ海の東岸、ダハイの地にお招きしようと思います。私はその地の族長の嫡男です。いずれダハイに帰り版図を拡げ、国を打ち立てる所存でございました。少し早まりはしましたが、良い機会だと思います。アリウス様に、来ていただけるのですから・・・・・」
オロデスは何としてでもアリウスをダハイの地へ招きたいらしい。今のアリウスには他に選択の仕様がないことも事実だ。しかし、アリウスはどうしても自分の危機状態を感ずることが出来ない。
「アリウス様、オリオン様の申される通りに致しましょう。今はダハイに身を隠して下さい。そのうちメディア国の状況も変化するに違いありません」
ユイマが言った。彼なりの政治に関する感覚を持っているのだろう。アリウスは、訴えるユイマの瞳を見つめた。ユイマの汚れのない碧眼は、アリウスの心の深淵に、また新たな感情の炎に火を灯す。
アリウスは戸惑い心が乱れた。
「わかった、そちたちの言葉にしたがおう」
アリウスは心の動揺を抑えながら言った。
「あッ、ありがとうございますアリウス様、どうぞこのオリオンにすべてお任せ下さい」
そう言うと、オリオンが満足げに部下の三人に言った。
「では早速だが、お前たち三人は、朝食を済ませたらエクバタナ市街を探るのだ」
「はッ、承知致しました」
ユイマには、何か気に掛かることがあるらしい。先ほどから言いたげにしていたが、思い切ったように言った。
「オリオン様、それから・・・・・」
「ユイマ、お前の言いたいことは解っておる。かならずやサティー様を捜し出し、一緒にダハイに行く。必ずや・・・・・」
「オリオン様、お願いいたします。そして、事態が落ち着きましたらパルサのネストル様、ヤクシーと連絡を取りたいと思います」
「それは、良い考えだ。私もそれは考えていた。ユイマその時は頼むぞ」
オリオンは、ダハイの地を中心とした、来るべき国家設立の際の構想を描き始めたようである。
「サティー・・・・・」
アリウスは人に聞こえないほど小さな声で呟いた。彼には自分の置かれた状況に、今ひとつ現実感を持てない。この感覚は初めてのことではない、少年時代から常に感じていた現実世界とのずれ、違和感、どうしても他の人と共感、共鳴することの出来ない自分が、あるのだ。
極端に言えば、他人とではなく、アリウス自身の内なる、身心の離反。彼の苦しみもそこを源としていることに、彼は気づいている。
「ユイマ」
「何です、アリウス様」
「サティー、サティーを頼む」
アリウスの会話は虚ろである。口から発せられる言葉は、無意識に喉から空気が漏れているだけかもしれない。
「アリウス様、お任せ下さい。全力を挙げて探索を致します。必ずや、必ずやサティー様を見つけてご覧にいれます」
顔を紅潮させ、興奮気味にオリオンが言った。熱い心を持った熱血漢にアリウスは快いものを感じた。
オリオンが、エクバタナに来てからの年月は、アリウスより短い。しかし、宮廷内で、いま陥っている難しい彼の立場にもかかわらず、彼に従う人は多くいるようだ。指導力、人間的魅力のなせる技と言ってよいのだろうか。
アリウスに従うものは、ユイマ、オリオンの二人しかいない。いや、従っているのは、むしろ、アリウスの方だ。
農家の好意あふれる朝食のあと、アリウスだけは小さな部屋に案内された。質素ではあるが、清潔な寝台もあり、アリウスの為に、あらかじめ掃除をして迎える準備をしていたらしく、部屋全体が清潔に整えられている。
窓の外には、緑の麦畑が一面に拡がり、風を受けて波うっている。
食事のあとすぐに、三人はオリオンの指示により出ていった。アリウスが食堂を後に、部屋に引きこもるまで、オリオンとユイマは、食道の上に地図を拡げ、熱心に打ち合わせをしていた。
アリウスは、寝台に仰向けになり天井の藁束を見つめていた。敷布を透して、藁の匂いがする。藁が肌を突く感覚がむしろ心地よい。
アリウスの廻りには、常に彼を庇護してくれる者がいた。彼の精神と態度は孤高にように起立していたが、はたしてそうであろうか。意識しない庇護の手を求めていたのではなかろうか・・・・・。
アリウスの精神の均衡は、揺らいでいく。それを、彼がはっきり意識したのは、あの雨の夜、アリウス邸の暗い庭での、ユイマとの出来事からだ。
アリウスは自分の心を、自らが制御できなくなりつつあるのを感じていた。
二日後の朝方だった。オリオンの手の者が一人、息を切らせて駆け込んできた。
「解りました!」
「落ち着け、慌てることはない」
と言う、オリオンの声も震えていた。彼には何の報告か当然に見当がついた。
「サティー様の居場所が解りました。無事ではありますが・・・・・アッシリアの残党にかくまわれておられるのです」
「なに! アッシリアの残党!」
オリオンは予期せぬ報告に驚愕の色を顕わにした。ユイマも驚いた表情をする。別に表情を変えることなく、何時もと同じたたずまいをしているのは、アリウスだけだった。
「はい、そうであります。宮殿の近くを歩いていますと、子どもが声を掛けてききました。『おじさんサティーさんを探しているんでしょ、案内するよ』というのです。あたりを見渡しても不振な人影はありませんでした」
「・・・・・・・・・・」
誰からも発言はない。
「子どもに案内された先は、少し裏道に入った路地奧の行き止まりのところでした。そこには男が二人待っていました。子どもはすぐに何処かに立ち去り、そして男は、アリウス様の関係者かと問うのです。いかにも、自分はアリウス様の関係者であり、オリオン様の手の者であると答えました。男は頷いておりましたが、私には何のことだかさっぱり解りません」
「続けてくれ」
「明日、昼前にこの場所にユイマと言う少年をともなって来てくれ。サティー様のところに案内しようというのです」
「行きます、行きます。行っても良いでしょ、アリウス様」
ユイマが、腰を持ち上げた。今にも飛び出しかねない勢いだ。
「待ちなさい、もう少し報告を聞きなさい。何故、アッシリアの残党と解ったのだね」
アリウスはユイマを引き留めた。
「ハイ、男がそう申したのです。『我らは怪しいものではない、実を申すとアッシリアゆかりの者である。パルコス様、殺害に関しては我らのあずかり知らぬことである。信じて欲しい。サティー様の身は我らがお守りしている』と」
アリウスはオリオンの方を向いた。オリオンはしばらく考え込んでいたが、アリウスをキッと見つめ、言い切った。
「アリウス様、その男の言うことは取りあえず信じていいと思います」
「オリオン、そう言いきる根拠があるのか?」
「具体的な根拠はございません。私の直感がそう思わせるのです。パルコス閣下、殺害事件について、調べておりましてもアッシリア残党の影があちこちに出てくるのです。しかし、決して具体的な事実には行き当たりません」
「それは、むしろ作為的に流された策謀だと思うのか?」
「左様でございます」
「アリウス様、サティーが私に会いたいと言っているようです。ぜひ行かせて下さい」
ユイマの手が、握りしめられワナワナ震えている。
「アリウス様、私からもお願いいたします。ユイマに付き添い決して危ない眼にはあわせぬ所存であります」
「よし、分かった。私も行こう」
「お待ち下さい。アリウス様はこちらで待機願います。今やメディアの執政官は、オロデスと、アリウス様の二人だけです。貴方はメディア王国にとってかけがいのない方で在らせられます」
オリオンの必死の説得にアリウスの心は動いた。執政官、メディア王国という立場を考えての事ではない。オリオンの熱意に動かされ従う事にしたのだ。
「サティーは、私でなくユイマを指名したのだ。そこには何らかの考えがあるに違いない。
オリオン、私はここで待つことにしよう」
「おい、明日の昼前と申したな」
オリオンが報告をした男に言った。
「はッ、確かに男はその様に申しました」
「よし、明日は案内を頼む。人を集める必要はない。三人で行くことにする」
時代は、急激な展開を見せようとしている。リディア王国、新バビロニア王国、リディア国境のクレオン、都市スーサのキュロス、パルサのネストル、そしてエクバタナの地に於いても。
時は、アリウス、ユイマ、オリオン、サティーを、捕らえて離さず、翻弄していく。
「エクバタナの春」は、新たな体制に変革するつかの間の休息か。それとも新たな時代を創立するために必要な培養期間だったのだろうか。
「エクバタナの春」を象徴する人物は、あるいはアリウスかもしれない。颯爽と白いドレーパリーを翻し、薔薇の花園を吹きすぎていく風であった。
時代の重鎮、パルコスの死と供に、オリエント世界は激動の渦のなかに巻き込まれていった。
新たな時代の寵児は、都市スーサの粗末な隊商宿で、密かに自らの出番を窺っているに違いない。歴史の重圧を身に背負う覚悟を決めた、若き英雄がそこにいる。
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