第四章 救済の劫火<16>
爽やかな空気が肌に快い。農家の食堂で朝食を済ませると、ユイマ、オリオン、その配下の男の三人は、下見の必要があると言い、急ぎ慌てるように早々と農家を後にした。
アリウスは、小さな部屋の寝台に腰を下ろしていた。微かに枯れ草の香りが、彼の鼻孔を撫でていく。枯れ草の香り、緑色を帯びた農家を包む大気は、アリウスに心地よい生命の息吹を感じさせた。
アリウスの心は、めずらしく平静を保っている。薄水色の双眸も穏やかに、何も考えずに呼吸をし、休息を取っているのだろうか。
ふと思い立ったように、アリウスは部屋を後にし、台所へ向かった。
朝の光の差し込む台所では、この家の主婦が酢漬けを作るのであろうか、洗った野菜の下ごしらえをしていた。
「忙しい時にすまぬが」
アリウスが声を掛けた。
「ハイ、何でございましょう?」
品の良い、いかにも善良そうな主婦はニコリと微笑み面をあげた。
「じつは、水浴びをしたいと思うのだが、場所を教えてもらえまいか」
「とんでもございません。案内させていただきます」
そう言うと、主婦が布切れで濡れた手を拭いた。
「いや、それには及ばぬ。場所さえ教えて戴ければ結構です」
作業の手を止めたことを、気にする素振りでアリウスは言った。
「アリウス様は本当に良いお方ですね。私なんかにも優しくして下さって」
「良いかた?」
アリウスは、その様に言われたことは初めてだった。
「そうです、そしてとても綺麗であられて」
子もいない三十過ぎのまだ若い主婦は、話し好きらしい。しかも、言葉の端はしに、おおらかな教養の面影をアリウスに感じさせるのだった。
「どうか、ご案内させて下さい」
「では、ご厚意に甘えることに致そう」
アリウスが着替えを持って、戻って来ると主婦は、桶と布を用意し待っていた。早速二人は外に出た。
「少し歩きますのよ、あそこに見える小高い丘の茂みのところです」
大麦畑の若い穂が、整然と敷き詰められたように並んでいる。緑の葉は勢い良く天を突く。
「この辺りは、水脈も豊かでいい水が湧きます」
足元の土も湿り気を帯びているように、編み上げのサンダルを透して、アリウスは感じた。
「名前は、何ともうされる」
アリウスの言葉は穏やかだ。
「えッ、名前ですか・・・・・」
高貴な人に、庶民が名前で呼びかけられると言う習慣は、この地にはない。
「良いではないか」
「はい、テルミと申します」
主婦が、恥じ入るばかりにうつむいた。
「テルミか、いい名だ・・・・・」
二人は、麦畑の畦を歩いていく。こんなに穏やかな気持ちになったことが、はたしてアリウスにあったのだろうか。
「テルミ、貴方は生まれついての農民ではないな?」
「えッ、どうしてです?」
「その様に感ずるのだ、別に答える必要はない」
アリウスを見つめるテルミの瞳が、キラリと光った。おそらくアリウスの指摘はただしいのだろう。
「出来得るなら、私もテルミのようにこの地に根付きたいものだ」
「アリウス様がですか? 無理でございます」
「テルミはハッキリものを申すな。確かに私には無理だ、でも出来うるならばと切に願う気持ちもある。テルミに出来て、私に出来ぬはずが・・・・・駄目だな」
テルミは口をおさえ、アリウスに気づかれぬように小さな声で笑った。
話を変えるように、テルミが言った。
「オリオン様に頼まれました時は、正直うろたえてしまいました。この国で最も地位の高い方が来られると言うので、掃除をするやら大わらわ。アリウス様の謦咳に接した時は、緊張いたしました」
「ほー、謦咳に接するとな」
とても、農家の主婦の口から自然に出てくる言葉ではない。そして物怖じしない態度、言葉使い、すべてがアリウスにとって心地よく響く。出自は相当の階級であろうと、彼は思った。
「でも、本当にお世話させて戴き、良かったと思います。ユイマ様もよい少年ですし」
「ほー、ユイマのことはどう思う」
「少年は、失礼ですね。でもまだ青年とは言えませんものね。あの子は立派になられますよ、澄み切った瞳に力があります」
「・・・・・力があるか?」
「ええ、なんとなく感じるのです。外に放つ力ではなく、吸い寄せる強い力です」
ユイマが不思議な力を持っていることを、アリウスも感じていた。彼はユイマと眼が合うと、心が動揺してしまう。最初は恋慕の気持ちかと思っていたが、そうではないと、今はいいきれる。
アリウスは、心が丸裸にされる恐れを感じていたのだ。人をして、その本性を引き出してしまう力。テルミの無垢な瞳は、早くもそれに気づいたのだろうか。
丘の麓、湧き水が音をたてて流れ出る場所についた。木が生い茂っている。水量豊かな湧き水は小さな泉を作っていた。泉を溢れた水は川となって流れていく。
泉の側に水くみ場が造られていた。泉から川になった部分が洗い場であろう。その横に石で敷き詰められた囲いがあった。
「ほォー、これは!」
「お気に召しましたでしょうか」
アリウスの頭上に木が大きく葉を拡げ、木漏れ日が、透き通った水に反射してきらめく。
プラチナブロンドの髪も、陽を照り返す。
「アリウス様、こちらが水浴び場になります。家にも貯め置いた水を浴びる場所がありますが、こちらの方が、お気持ちがよろしかろうと、ご案内さしあげました」
「ありがとう」
「では、私は失礼いたします。ここの水は傷に良く効き、身体が休まりますので、どうぞごゆっくりなさって下さいませ」
テルミが深くお辞儀をし、来た道を帰っていった。
アリウスは、腰を折り編み上げのサンダルを外すと、肩よりドレ−パリーを外し、下帯を取った。風が涼やかに肌を撫でていく。
アリウスは濡れた敷石の上に立った。ためらいがちに足先を水につけると、ゆっくり石囲いの水中に身体を浸した。穏やかに流れる冷たい水が心地よい。
エクバタナの人々の間では、水浴びを尊ぶ気持ちが少ない。しかし、アリウスは毎日のように水浴びをする。二日ぶりであった。心まで洗われるような気がした。
肩まで水につかると、長い髪の毛が浮び、水面に乱れた。疲れた心の傷も癒されるような気がする。うっすらと眼を閉じると、自分の呼吸が聞こえる。心臓の鼓動を感ずる。
どの位、水に浸かっていただろうか、少し寒くなって水からでた。
平らな石の上に、全裸のまま仰向けに横たわった。木漏れ日が少し眩しい。アリウスは眼をとじる。小川のせせらぎが耳にはいる。
よほど心地良いのだろう、アリウスの口元がほころんでいる。そのまま彼は浅い眠りに入っていった。
緑あふれる木々の中に、アリウスの白い肌が横たわっている。横には着替え用の純白のドレーパリーと下帯が、丁寧に折り畳んであった。
「アリウス様!」
農家に帰るなり、二人の男が駆け寄ってきた。オリオン配下の者である。
「オリオン様とユイマ様が、揃って出て行かれたと言うことですが何事でしょう」
「説明申し上げよう。その椅子に座って待っていて下さい」
そう言うと、アリウスは食堂の椅子に二人を待たせたまま、台所の裏に回った。テルミは、先ほどと同じように野菜の処理をしている。
「今、戻りました」
背後からアリウスは声をかけた。
「あッ、お帰りなさいませ。いかがでしたか?」
作業の手を止めると、振り返ってテルミが言った。
「たいへんに、素晴らしいところでした」
「そう言って戴けると、ご案内申し上げた甲斐がございます」
「癒されました。あんな素敵なところは初めてです。ウットリして、眠ってしまいました。あのまま眠りから醒めなければと、思いましたよ」
「まー、ご冗談を・・・・・でもそう言って戴けて光栄です」
農作業衣を身に着けているだけ余計に、テルミの話す言葉の気品が際だって見える。
言葉使いはサティーを彷彿とさせるものがあった。
「私もあの場所は大好きです。凛とした大気、清らかな水の流れ・・・・・アリウス様の雰囲気と通ずるものを感じますわ。あッ、失礼を申し上げました」
テルミが深く頭をさげた。無礼だと思ったらしい。
「いや、本当にありがとう。生涯忘れられない思い出となることでしょう」
「また、ご冗談を!」
テルミの言葉にアリウスは、返事をせず静かに頭を垂れた。彼の長い髪は、まだ少し濡れている。
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