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「維摩詰(ユイマキツ)外伝」 第一部 古代オリエント世界
第四章 救済の劫火<17> 「・・・・・という事情で、オリオン殿を含めた三人は出かけていった」 アリウスは、二人の男に昨日からの経緯をかいつまんで説明した。先ほどまでの夢のような時は過ぎ、彼は現実世界に引き戻されていた。 「サティー様、アッシリアの残党・・・・・大変なことではありませぬか、我らも今すぐ駆けつけます」 「駆けつけると申しても、場所が分からぬであろう」 「アリウス様のお話を伺い、だいたいの見当はつきました。その近辺を探せば解るやもしれませぬ。分からずとも、異変に気づけばすぐに駆けつけることも出来ます」 男はそう言うと、腰の短剣に手をやった。すでに戦闘意識なったらしい。 「そちたちの行動については、オリオンは何も言わなかった。思うようにいたしなさい」「はッ、ではさっそく」 二人の男が、椅子から立ち上がりかけた。 「待ちなさい。私も行こう」 「えッ、アリウス様がですか? 危険ですおやめ下さい」 「いや、危険に近寄るつもりはない。ただ、少し市場を見てみたいのだ」 「なにを悠長なことを申されるのですか、今やあなた様は!」 二人の男が、とんでもないとばかりに眼を剥いた。 「手配でもされていると申すのか」 「いや、そうではありませぬが、危険です。ましてや、アリウス様は目立ちます」 「この家で、頭巾でも貰おう。いや布きれでもよい、顔を隠せればよいであろう。先ほどお主たちを、引き留める権利は私にはないと言った。私を引き留める権利も、お主たちにはあるまい」 アリウスの真剣な目つきに、二人の男は返す言葉もなかった。 三人の乗り込んだ馬車は走り出した。アリウスは頭巾を被り、顔をかくしている。 振り返ったアリウスの眼に、農家と心配そうに見送るテルミの姿が眼に入った。つかの間の安らぎをアリウスに与えてくれた、光景が遠ざかっていく。馬車は、馬が悲鳴を上げそうな速度で疾走していた。 アリウスは、馬車に揺られながら感じていた。この揺れは、あの時と同じだと。ミトレスの郊外を、マンドロスに抱かれながら駆け抜けたあの時と。 アリウスの心に、オリーブ畑の光景が浮かんできた。暑い昼下がりであった。幼い心は、今から展開されるであろう恐怖の予感に震え、自分の心をいかに守るかで必死であった。マンドロスのいたわりの言葉も、耳に入りはしなかった。 今、彼の眼に映っているのは、波うつ大麦畑だ。まだ昼前だが、陽射しは同じように強い。先ほど清めたアリウスの身体に、若い麦穂のむせかえる匂いが風に運ばれて届く。頭巾で顔を覆った彼の眼前には、猛々しい二人の男の二の腕がある。一人が、鞭を振るった。馬が悲鳴を挙げると速度を増した。あの時と違うのは、側に抱いてくれるマンドロスがいないことだ。 二人の男は、アリウスにとっては無縁の人である。アリウスは一人で、何処へ行こうとしているのだろうか。彼を待ち受ける現実はどのようなものであろうか。 「ここで、止めてくれ」 「ここで宜しいので?」 「良い」 男が力一杯手綱を引いた。二頭の馬は前足をかかげ急停止した。アリウスは馬車が急停止したため、前のめりになった。 「アリウス様、此処はまだ市場の外れですが?」 「少し、歩こうと思う。世話になった」 そう言うと、アリウスは頭巾を押さえ、馬車を降りた。 「アリウス様、どうかお気をつけられますよう。もし、助けが必要になった場合は、名乗りを上げて下さい。『アリウスだ!』と、仲間がそこかしこにいるはずです。必ずや駆けつけるでありましょう」 「分かった。心に留め置こう」 「では、我々はこれにて」 「世話になった」 男が馬に鞭を入れ、馬車は走り去っていった。アリウスは見えなくなるまで馬車を見送った。それほどの接触もない二人だったが、彼らが去っていくのに言いしれぬ寂しさを感じた。アリウスは自分を繋ぎ止めていた何らかの絆が、馬車と供に去って行く気がしたのだ。 アリウスが降りた場所は、奴隷市場の前であった。煉瓦造りの高い壁が周囲を取り囲んでいる。壁に隠れて建物は見えない。見栄え、美しさを一切配慮しない、ただ機能的であるばかりの無機質な煉瓦の壁は、アルウスの心を落ち着かせた。 今日は、市場が開かれているらしい。大きな入り口から、馬車が出入りし、人々の出入りもある。 アリウスは入り口の側に立つと、頭巾を目深に被り出入りする人々を見続けた。アリウスは、建物の中には入らない。しかし、内部は手に取るように浮かんでくる。建物の中は、円形劇場のようになっており、廻りのベンチに商人が腰を下ろしている。 広場の真ん中に一人ずつ裸に引き剥かれた奴隷が引き出され、競りにかけられている。そして、湿った空気に包まれた回廊を行くと、部屋がある。陰気な部屋だ。天井に小さな明かり取りの窓が開いいている。 ここは、ユイマとの出会った去勢の部屋だ。両壁の棚には鎌形の小刀が並べられている。暗い部屋だ。 大男が大股で突っ立っていた。袖無しの貫頭衣を身に着けた男の二の腕には、逞しい筋肉が貼り付いている。 窓から射し込む青白い光が、奇妙な椅子を照らし出す。その椅子は頑丈な木で出来ており、背もたれが後ろに極端に傾斜していた。 側の長椅子に黒い服を着た男が座っている。表情のない白い顔に眼だけが光る。その黒い服の男が、大男に声をかけた。黒い服の男の、薄い唇の端が吊り上がり、ニタリと笑った。 青白い光が眩しい。 「あッ!」 アリウスの喉から声がもれた。奇妙な椅子に拘束されているのは、ユイマではない。彼自身ではないか! 四肢を革帯で椅子に拘束され、動くことが出来ない。全裸の白い身体が引き延ばされ完全に無防備な状態だ。 大男が、アリウスの股間に左手を延ばす。右手には、鎌形の小刀が光を放っている。 「おじさん」 「・・・・・え!」 「おじさん、やっと気づいてくれたね」 アリウスの眼の前に、小さな男の子が立って話しかけている。年の頃は十歳ぐらいだろうか。アリウスは小さく息をついた。鳥肌が消えていく。徐々に現実に戻ってきた。 「私に、何かようか」 頭巾越しに小さく返事をした。 「おじさん、アリウスさんだろ?」 「そッ、そうだが、どうしてだい」 「ラオメドンさんから頼まれたんだ。白金の髪をした綺麗な人で、布か頭巾で顔を隠しているはずだって言われた。かならずここに来るから、見つけたら自分のところへ案内するようにって」 「それで私と分かったのか?」 「そうだよ、ラオメドンさんの言うとおりだった。布で顔を隠しているところも同じなんだから。さあ行こう」 そう言うと、少年はあたかもアリウスが後に続くのは、当然とばかりに歩き出した。物怖じしない活発な少年だ。 「君は、ずっとあそこで待っていたのかい」 並んで歩きながらアリウスは言った。 「そうだよ、今日必ずあそこに来るはずだって、ラオメドンさんが言うんだから、朝から待っていたよ」 「君は、ラオメドンとはどういう知り合いだい?」 「近くにすんでいるのさ。時々用事を頼まれて、お小遣いを貰っているんだ」 アリウスは、昨日オリオンの手の者を、アッシリアの残党のところに案内をした子どもは、この少年だろうと思った。 「どこまで行くんだい?」 「ラオメドンさんの寺院までさ、そう遠くはないよ」 アリウスはごく自然に、何の拘りもなく当たり前のように、少年についていく自分を少し不思議に思った。 少し歩くと建物が、疎らになってきた。道の脇には空き地も見られる。少年は足取りも軽くアリウスを案内する。青空の下、爽やかな風がアリウスのドレーパリーの裾を揺らす。少年が屈託ない声で、明るく話しかけてくる。 更に歩いていくと、建物が殆ど見られなくなった。 「あそこだよ!」 少年が指さした方向には、茫々たる草に囲まれた大きな建物が見えた。更に近づくと明らかに普通の住居とは異なっていることがわかる。 その時、ふとアリウスは思い立ち、足を止めた。 少年も習って立ち止まった。 「君に、頼みたいことがあるんだ」 「なんだい?」 アリウスは、帯に挟んである、金貨を一枚、少年に渡した。 「おこずかいだ」 「えッ! こんなに貰っていいの。何をすればいいんだい?」 少年が眼を丸くした。たんなる小遣いとは云えない、大変な価値である。 「今日、君とあったところに明日も行ってくれないか。もし私を捜す素振りの人がいたら、 今から行く寺院に、連れていって欲しい。探しに来るとすれば、オリオン、ユイマと言う名で、どんな感じの人かと言えば・・・・・・・・・・一日だけで良い。どうだ、頼まれてくれるか?」 「それだけで良いの? よし、引き受けた。一日だけでいいんだね」 「ああそうだ」 少年がうなずき、足取りも軽く歩き始めた。 アリウスは、自分は何故その様なことを、頼んだのだろうと思った。 「ラオメドンさんの寺院だよ、先に行ってラオメドンさんに知らせてくるね」 そういうと、少年は駆け出していった。 建物までの道は草に覆われ、僅かに一人が歩けるほどの道幅しかないようだ。一部が崩れかけている建物は、全体が蔦に覆われ、縛められ草原に放り出されているようにアリウスには思えた。 アリウスは歩を進めた。背の高い草が、足から腰にかけて絡んでくる。草いきれが鼻孔を突く、息苦しくなって、頭巾を外すと大きく息をした。 首筋を爽やかな風が吹き抜けた。 アリウスの行く手に突然、大きな木製の扉が出現した。一部は腐りかけている。この建物は最近、補修管理をした形跡が見当たらない。 道が石畳に変わった。アリウスの足元からカッ、カッという乾いた音が聞こえてくる。 アリウスが、今にも入り口にたどり着こうとしたその時、扉がギィーという音をたてて外側に開いた。建物の内部から、僅かに空気が漏れ出た気がする。 アリウスは立ち止まり、カッと眼を見開いた。空気と供に薄暗い内部から、痩身で背の高い男が出てきた。光沢のある黒づくめの衣服を纏っている。ラオメドンだ。 胸騒ぎを押さえ、平静を保とうとするアリウスの眼前に、先ほどの少年がラオメドンに挨拶をすると外に駆けだして来た。少年がアリウスの側を通るとき明るく言った。 「じゃあね! 約束は守るよ」 ラオメドンにも、小遣いを貰ったのだろう、嬉しそうだった。走り去っていく少年の足音がアリウスの背後から聞こえる。 ラオメドンが腕を組んで立っている。瞬間、アリウスの心は、この場から逃げ出したい気持ちに囚われた。今ならまだ間に合うと。しかし、アリウスの足は逆に、吸い寄せられるようにラオメドンに向かっていく。
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