第四章 救済の劫火<18>
「ようこそ、待ちかねていた」
ラオメドンがアリウスに声をかけた。今までとは異なり、へりくだった言い方ではない。アリウスもそれを不自然には感じない。アリウスは何も言わず、立ち止まると、ラオメドンの褐色の眼を見つめた。乱れた栗色の巻き毛で片方の眼が隠れ、青白い端正な顔には表情がない。アリウスを見つめるラオメドンの隻眼は紅く充血している。
「やっと踏ん切りがついたようだな。いや、貴方だけではない、私自身、迷いに迷っていたのだ。今日来ていただき本当に嬉しくおもう」
ラオメドンには珍しく饒舌である。
「私は、自分の気持ちを確かめる為に参ったのだ」
アリウスの口から初めて言葉が漏れた。
「ここまで来られたのだ。これ以上確かめることもあるまい」
艶のある声でそう言うと、ラオメドンが振り返り建物の中に入っていく。アリウスは引きずられるようにラオメドンの後を追った。
背丈はアリウスと同じぐらいだろう。黒い衣服から外気に晒された細い首筋から肩に掛けての曲線は、薄く脂肪が掛かり、艶めかしくアリウスの眼に映った。
建物の中は以外に明るかった。窓は閉められているが、燭台という燭台にはすべて炎が灯っていた。外見とは異なり内部の装飾には、贅沢の粋が凝らされている。
いや、凝らされていたと言うべきだろう。回廊には、天井から吊された数多くの黄金で出来た円盤。デフォルメされた動物の彫像、それらが埃を被っていた。
ラオメドンは扉を開き部屋に入った。アリウスも黙って後に続く。大きな部屋であった天井まで極彩色の模様が施され、立派な会議机には椅子が十脚備え付けられている。その側に、方卓と豪華な長椅子が向かい合った形で配置されていた。
ラオメドンが黙って一方の長椅子に腰を下ろした。アリウスも向かいに座った。絢爛たる部屋で在ったらしく思われるが、全体にくすんだ感じを抱かせる。所有者の興味が他に移ったことを思わせた。
「この日を待っていたよ。貴殿が来られやすいようにと、随分色々働きかけたが、やっと報われた」
ラオメドンが穏やかに話しかけてきた。少し甲高い女性的な声であった。
「随分働きかけたと申されるのか」
アリウスは問いかけた。
「いかにも、随分苦労いたした。まあ、いささか面白くもあったが。それは良いが少しくつろがれてはいかがかな。飲み物でも持って参ろう」
そう言うと、ラオメドンが席を外し、部屋から出ていった。どうやらラオメドンは、アリウスが屋敷を訪れるのを当然と思っていたようだ。しかし、その事はアリウスにとって、それほど気にはならなかった。
ラオメドンが部屋に戻ってきた。
「貴殿は葡萄酒を好まれると聞いている。イオニア産の物を用意いたしておいた」
そう言うと、ラオメドンが葡萄酒の壺とグラスを二つ台の上に置いた。そして、ふたたび彼が席を外した。部屋の奥の扉を開け、彫刻の施された木製の箱と、小さな燭台を手に持ってきた。
「私はこれを吸うことにする。大麻という薬草である。アリウス殿は、吸われた経験がおありかな」
「話しには聞いているが、まだ吸ったことはない。私は葡萄酒をいただこう」
ラオメドンが、壺から二つのグラスに葡萄酒を注いだ。
「私もせっかくだから少し戴くことにする」
とラオメドンが言った。二人は、グラスを掲げ一口飲んだ。
「何年ぶりだろう、葡萄酒を飲むのは。しかし、相変わらず、あまり旨いとは感じない。甘さと濃厚な味が少し嫌みだ。血の匂いに似ているのは悪くはないが」
という、ラオメドンの言葉にアリウスはハッとした。先ほどから、気になっていることがあったのだ。
血の匂い! アリウスは心にわだかまっていたことが解けた気がした。アリウスは建物に入った時からこの匂いを感じていたのだ。少し生臭く、鉄の錆びたような微かだが気になる匂いが、壁から床から少しずつ浸みだしアリウスをとらえていた。
「葡萄酒は血の匂いがするのか!」
そう呟くと、アリウスは白く長い指を掲げ、グラスの葡萄酒を見つめた。少し黄みがかったグラスに赤い液体が揺れている。
「ほォーッ、貴殿は今までその様に感じたことは無かったのか。赤い色は血へのこだわりの象徴だと思う。ただし、意識しているかどうかは別だが」
「では、紅薔薇もそうだと・・・・・」
アリウスは、あたかも問いかけるようにラオメドンの瞳を覗いた。
「しかり、赤い色は無意識に人の心を揺さぶる。女性が赤い色を好む傾向があるのも、定期的な出血の補完ではあるまいかとさえ思う。男性にとって赤い色は、非日常性を象徴している。意識の底にしまい込んでいた欲情に繋がる何かを引き出す」
ラオメドンがアリウスの反応を確かめながら、誘導するように話す。アリウスを何処へ誘導しようと言うのだろうか。
「アリウス殿、貴殿には血が似合う。その白い透き通る肌には」
「・・・・・」
アリウスには返事が出来ない。ラオメドンが更に続けた。
「アリウス殿、心を解き放とうではないか、恥じることも恐れることもない。私も今、自分の心を解き放つ」
アリウスはラオメドンの話しに強く引き寄せられた。未だかってこのような会話は誰ともしたことはない。いや、することさえ想像出来なかった。少年時代より心に秘めてきたことに通ずる感性、彼の魂に直接触れる何ものかを感じた。
「私にとって赤い色は、過去の記憶に繋がる恐怖の色だ。幼き日、母の胸に突き立てられた鋭い剣。そこから沸々とあふれ出る血痕・・・・・」
アリウスは操られたように話し出した。誰にも話したことのない記憶を。
「私の恐怖は、その悲惨な事件そのものではない。その光景が私を興奮させるのだ、胸を締め付けられる痛みの中に、チラチラ燃え立つ淫らな自らの感性に恐怖するのだ」
アリウスの瞳は次第に焦点がぼやけてくる。
「なぜ、恐怖する。なぜ恥じる。それこそが貴殿の本質ではないか。認めるのだ、自らの性を」
ラオメドンの眼が光る。
「駄目だ! 認めることは出来ない。それを容認することは滅びることを意味する。なぜ私は生まれてきたのだ。私の人生の目的とはなにか、それを探し続けて来たのだ」
「アリウス殿、人は生まれたから生ある限り生きるだけのことだ。人生に目的や価値があるわけでは断じてない。認めようではないか、お互いに己のすべての性を」
「私には望みがある。虐げられた人々を解放したいという」
「そして、宇宙の真理を求め、政治、経済で人々の救済を計ろうと言うのであろう。無駄なあがきだ」
「何故だ! なぜ貴殿はそのようなことを言うのだ。私があの日以来、十五年間に及ぶ、必死に続けてきた努力を無意味だとでも言うのか」
アリウスは、問いつめるような勢いでラオメドンに言った。
「人々という無数の他人に取っては、確かに無意味ではない。貴殿の努力により救われたものは多かろう。しかし、貴殿はどうだ、現実と観念に引き裂かれているではないか。そして裂け目は開くばかりではないか、しかしそれも終わりだ」
「何が終わりだ! 私のせねばならぬことはまだまだ多くある。やりかけた仕事も多い」
「現実を見よ、今のメディア王国に於いて、貴殿に何が出来るというのか。何も出来はしまい、他人の為には・・・・・終わったのだ貴殿の役割は。今こそ、隠し通してきた本来の自分に帰るのだ」
「何故、ラオメドン殿はすべて解ったようなことを云うのだ。貴殿に私の気持ちの何が解るというのだ」
「解る。解るのだ。アリウス殿は本質的に私と同じだ。同類なのだ。それは初めて会った時に確信を持って感じた」
アリウスは鳥肌が立った。奴隷市場でのラオメドンとので会い。それは衝撃的なものであった。自分の心のざわめきを否定しようとするのだが無理であった。ラオメドンも同じように感じていたのであれば、あのユイマの姿は自分の心の投影だあったことまでも、ラオメドンに見抜かれているでもいうのか。
アリウスは胸が締め付けられ、心が上擦っていく。ラオメドンとの会話はアリウスをして、本来の性を表出させてしまうのだった。
ラオメドンが木の箱を開き、木製の細い管を取り出しその一方に枯れ草を詰めた。反対側を口にくわえると台の上に置かれた小さな燭台の炎に枯れ草を近づけると深く息を吸い込んだ。枯れ草に火がついた。
「ふゥーッ、やはり私にはこれがよい。アリウス殿、これは大麻の葉を乾燥させたもので、吸うと心が軽くなる。一口どうだ」
ラオメドンが、管の吸い口をアリウスに差し出した。アリウスはためらうように手を出し受け取った。火のついた草から紫の煙が細く薫っている。微かにかれた匂いがする。決して不快な香りではない。
アリウスはゆっくり管を口に持っていった。
「口ではなく、胸まで深く吸い込むのだ」
とラオメドンが声をかけた。
吸い口はうっすら唾液で光っている。アリウスは口にくわえると静かに吸い込んだ。煙が気管に入り、それを抑えようとするアリウスの眼が潤んできた。
しばらくして落ち着いたアリウスは、溜息をつくと再び管をくわえて大きく息を吸い込んだ。
煙が血管から細胞に染みわたる。意識が浮き上がる。心が解放されるようにアリウスは感じた。
「どうだ?」
「悪くはない」
そう言うと、アリウスは再び吸い込む。
「まだ、色々な薬草はある。ゆっくり時間を掛けて試して見ようではないか」
そう言うと、ラオメドンは黒い衣の袖を翻し部屋を出ていった。巻き起こったわずかな空気の流れが、立ち昇る紫煙を揺らした。
アリウスは大麻の煙を慈しむように吸い続けた。
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