ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第一部 古代オリエント世界






   第四章 救済の劫火<19>

   
 アリウスの視界が変化した。廻りの調度品、壁に貼り付けられた色彩が、今までとは全く異なり、輪郭がはっきりし鮮やかに網膜に映る。心を覆っていた薄い膜が消えていく。意識が鮮明になり、身も心も軽くなり、拘っていた強固な塊が溶け出していく気がしてくる。
 扉が開いてラオメドンが入って来た。ひるがえる黒衣服の足下から、わずかにのぞいた素足は異様に白く、黒いサンダルに編み上げられている。彼は先ほどより少し大きい木の箱を携えている。
「この中には、まだ色々な薬草が入っている。私は薬物に関しては、マゴイの間でも名をはせている。薬物の研究と人の心を操る幻覚については特に心血を注いだものだ」
 そう言うと、ラオメドンはそっと褐色の箱を台の上に置いた。
「何故その様なものに心血を注ぐ。麻薬など一時の快楽に過ぎないではないか、人の心を蝕み、操ってどうしようというのだ。貴殿の行為こそ人を堕落させるものではないか」
 アリウスはラオメドンに問いかけた。
「異な事を申される。アリウス殿、貴殿の好まれる葡萄酒も麻薬ではないか」
ラオメドンが不敵に笑った。
「葡萄酒が麻薬? そのようなことはありえない。葡萄酒は安息をもたらし、頭の働きを活性化するではないか、古より好まれ人体に悪しき影響をもたらすこともない」
「アリウス殿、聞いてほしい。確かに葡萄酒は効力が弱い。しかし、今、吸っている大麻と何ら変わることはない。たとえば、貴殿は知らぬだろうが、大麻は、芥子の花より抽出する薬よりも、確かに習慣性がないとは言える。しかし、それは程度の差に過ぎず、葡萄酒は薬効も薄く、酩酊するに量を必要とし、習慣性が弱いだけだ」
「ある意味では、ラオメドン殿の言うこが解らぬではない。しかし、程度の差は、おろそかにできないであろう。善と悪、いや社会に置ける事象の大部分が程度差異として分析出来るのではあるまいか」
「アリウス殿の仰るとおり、程度の差、これが本当に重要なことだと私も思う。葡萄酒も飲み過ぎると、身体に害をおよぼす。本質的には麻薬と同じなのだ。薬草に関してはすべて同じ事が言える。私は今まで心血を注いで薬草の研究を重ねてきた。その結果気づいたことがある。安らぎ、癒し、酩酊、恍惚を目的とした物が、今後、色々発見されるに違いないが、そのほとんどは、植物をもとにした物であるはずだ。植物のエキスだと言い切ってもよかろう。例外的に、馬乳酒があるが・・・・・」
「ラオメドン殿、なぜそこまで拘るのだ。葡萄酒が希釈された麻薬だと認めることはやぶさかではないが、なぜもっと強い効力を持つ麻薬を開発する必要があるのだ。人体に悪影響を及ぼすと知りながら」
「人体に悪影響? 確かに言われることも一理ある。しかし、何をもって悪影響と申されるのだ。私はマゴイだ、苦しみに満ちた現世で、呻く人々を癒すのが本来の役目である。病気で苦しむ人、心に傷を負った無数の人々がいる。貴殿は貴殿の方法があろう。私は私の方法でなんとか役に立ちたいと思い、また役に立ったと自負している。薬物も幻覚もそのために、用いる。しかし、私には暗黒の世界を漂い続ける、おぞましい性がある。自らの悦楽のためにも、それを使用する。この点は私の同類の貴殿にはよく理解できるはずだ」
 ラオメドンがアリウスの眼を正面から見つめ、白い顔を崩すことなく淡々と話す。彼特有の斜に構えた歪みはまったく伺われない。
「確かに、ラオメドン殿の言うように私の心には闇が存在する。決して誰にも語ることの出来ない闇だ。それを人に知られることは恐怖であり、私の人格は崩壊するであろう・・・・・」
「アリウス殿は私に、なぜ話そうとするのだ・・・・・言わずともよい。貴殿は解っておられるのだ。我々は同じ闇を共用することが出来ると」
「ラオメドン殿、私は思うのだ。この闇は誰の心にも存在しているはずだと。そして、人々は押さえ、飼い慣らしながら生きて行く他はないのだ、人の欲望を無制限に解放すれば惨劇がおこるのは間違いがない。薬によって人々の闇を解放して良いとは決して思わぬ」
「アリウス殿の言われることはもっともである。その普遍的心の闇を、私は体験を通して骨身に刻み込んでいる。少し語らせて貰うことにしよう」
 そう言うと、ラオメドンが大麻を入れ替えた。新たに火を着けると、大きく吸い込み椅子にもたれ話し出した。

「まず、私の話を聞いていただける人間、つまりアリウス殿に出合う機会を戴いたマゴイの神に感謝する。詳しいことは退屈であろうから要点だけにしよう。私は十四の時に拐かされ売られた。丁度、ユイマと言う少年と同じく。だだ違うのは、私にはアリウス殿のような救世主は存在しなかった。市場の中のあの部屋で去勢されてしまったのだ。終わった後、耐え難い苦痛が私を待っていた。去勢手術を受けた者は、鎮痛と消毒の為、三日三晩土に中に首まで埋められるのだ。食物は与えられない。僅かに夜になると水が与えられた。炎天下日光に晒され続けた顔面は、水疱が出来、皮が破れついにはひび割れた。意識は朦朧とし、動くことも出来ず感覚も奪われた私は、現実感覚を喪失し何も解らなくなった。幸いに生き延びた私は完全切除、つまり陰茎と睾丸を取り除かれた嗜好品として売買される運命がまっていた。幸か不幸か、確信は無いが、私はマゴイに買われた。そのマゴイは、今、マンダ本山に住する五人の長老の一人になっている」
 アリウスは、ラオメドンを見つめた。話す声は甲高く、身体は全体に曲線を帯び、女性のよう、いや、女性より艶めかしく感じた。十四歳で男性機能を失い、男でも女でもない存在として生きてきた。その妖しさは倒錯に通ずるものであろう。
「そして私は、二年に渡り長老による調教を受けた。性を超越した、つまり生殖を伴わない有りとあらゆる性技を仕込まれた。仕上げはマンダ本山における六ヶ月の嵐の日々だった。卑猥で淫靡、性倒錯の暴風雨に弄ばれ私の心は崩壊した」
 ラオメドンの語る言葉に、アリウスの双眸は見開かれ、妖しい光を放ちだした。ラオメドンがアリウスの様子を探りながら話しを進める。
「しかし、不幸にも私は、程なく正気を取り戻してしまった。現世に帰って来てしまったのだ。そして下山し、マゴイとして生きることとなった。淫靡な楽園の住人ままであったなら、マンダの神々の生け贄になるか、本山の性奴隷になるかの道を辿ることになる。以後、なぜ私は正気を取り戻してしまったのだと、いくど嘆いたことだろう。アリウス殿には私の気持ちは分かるはずだ」
 突然、名を呼びかけられて、アリウスは驚愕した。言葉が出ないのだ。震える指で、グラスを掴むと葡萄酒を喉に流し込んだ。ラオメドンの言葉はアリウスの心の闇に直接突き刺さり、心を揺らしてしまう。
「悲しいことだが、私には貴殿の気持ちが理解できる。もう少し話しを続けては戴けまいか」
 やっとの事でそう言ったアリウスの眼は、かすかに潤んでいた。
「私は、マゴイの職務に邁進した。マゴイがなぜ存在するのか? 人々の支持があるからだ。先祖供養、冠婚葬祭はもちろんのこと、下層の見捨てられた人々の間をはいずり回り彼らの救済を計る使命もある。劫病を患い見捨てられた人々の世話は今もしている。見捨てられた孤児は延べ百人は育てたと思う。病を治すための、薬の研究には没頭した。その副産物として秘薬、催淫薬も出来た。苦痛をやわらげることと、快楽を増進することには因果関係がある。私の調合する薬で、いかに多くの人々がすくわれたことか。のたうち回る、末期の患者の苦痛を和らげ、安らかな死を迎えた者も数多い」
 ここまで一気に言うと、ラオメドンは、大麻を大きく吸って。また話しだした。その瞳は真摯に何ものかを見つめているようだ。
「そして、新たなマゴイを育てることも重要な役割であった。生殖機能を失わせた少年、少女を十数人調教しマンダの本山に送り込んだ。現在、六人はマゴイとして活動していると聞く。少年少女の調教は、私の淫靡な楽しみであったことも事実である。私の心に巣くう嗜虐性をそれなりに満足させもした。そして私の献身にたいし、マンダの本山は、聖職者として最高の地位を約束してくれた」
 いつも、冷笑的な微笑みを漏らし、表情を変えないラオメドンの眼が、アリウスを直視する。必死に訴え掛けるような褐色の瞳は微動だにしない。
 アリウスもラオメドンの話しに引き込まれていった。

「・・・・・しかし、私はどうしようもない喪失感に常に囚われ苛まれていた。失われてしまった男性を取り戻すことは出来ず、女性にも成れない絶望感に苦しんできた。そんなとき貴殿に出会ったのだ。アリウス殿、貴殿にだ! 私はマンダの神々に感謝した。弄ばれた私の運命は完結すると、感動に身が震えた!」
 ラオメドンが興奮を抑えるように、大麻の煙を深く吸い込んだ。
 アリウスも彼に習い大麻を立て続けに吸い込んだ。心臓がドキドキ鼓動を打つ、身体中の血液が逆流する感覚に襲われたアリウスの細い指先は、机を細かく叩いている。
沈黙はしばらく続いた。

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