第四章 救済の劫火<20>
「私の今までの人生は、ひたすら耐えることだったのだろうか・・・・・」
アリウスが、うつむき加減に抑えた声で話し出した。
「私は只ひたすら怯えていたのだ。ラオメドン殿のような、男性機能の喪失という直接的な経緯ではない。あるとすれば、無惨に死んだ母の事件と言えるだろうが、それは違う。もしそうであるなら、どれほど楽であっただろう。先ほども少し話したが、私の恐怖は、無惨な母の死の光景ではない。母から私に伝わる血の遺伝である。母の血にまみれた死体を見たとき、なんと私は興奮していたのだ! 当時は解らなかったが、今はハッキリ解る。あの興奮は性交の時の快感と同じものだ。私は性的倒錯者としての自分を呪いながら生きてきた。他人には決して気取られぬように、細心の注意を払いながら」
アリウスは愛おしむようにグラスを撫で、赤い葡萄酒をいわくありげに、一口含むと、ゆっくり飲み込み話しを続けた。かすかに指先が震えている。
「奴隷市場でのユイマとの出会い。去勢部屋の光景。あの時私は、性交時の絶頂と同じ快感を味わっていたのだ!」
アリウスはプラチナブロンドの髪を苦しげな表情で掻き上げた。ほんのり紅みがかった頬に涙が一筋伝わった。
「まだある。私はユイマを犯した。犯しながら私はユイマの心に憑依し、犯されていたのだ。ユイマに加えられた痛々しい苦痛、屈辱、羞恥は私のものだったのだ! そこに、底知れぬ快楽を感じ、恍惚となっていた倒錯者が私自身なのだ。つまり、私は、他者ではなく自分の感性のみに興奮するのだ。僅かに私が安堵するのは、私には、子孫を残すことがあり得ず、呪われた血は私限りで途絶えることである」
額に手を当て、アリウスは俯いたまま面を上げない。
アリウスは、誰にも語ることなく秘めていた心情を、吐露したせいか、微かにため息を吐くと、おだやかな顔になった。他者に話した事による心理的浄化作用のせいで、気が楽になったのだろうか。
「我々の血は途絶える。滅びに向かって進んでいくしか残された道はない。観念に犯された魂にとって他に安らぎはあり得ない。その事はアリウス殿は十分解っておいでの筈だ。私は一度として、貴殿をお誘いしたことはない。にもかかわらず貴殿は、一人で私の元へやって来られたのが、何よりの証拠である」
そう言うと、ラオメドンが遠くを見つめるような目つきで天井を眺めた。彼の胸中には何が去来しているのであろうか。
「何故ここに来たのだろう? きっと私は疲れたのだ。ひたすら学問に励んだミレトスでの日々、呪われた血を克服し出来得れば何とか人の役にたちたいと切に思っていた。詩と戯曲を私は好んでいたが、もっとも力を注いだ学問は、政治、物流、通信等々、実利的なものであったのはその故である。そしてその機会は、このエクバタナで与えられた。私は我が身の利害を顧みず国家統治に全力を注いだ。それこそが人々の役にたち、共感し、ともに生きることが出来ることだと信じていた。幸いパルコス閣下という庇護者にも恵まれた。そのパルコス閣下が、何ものかの手によって殺害されてしまわれたのだ」
アリウスは歯がゆかった。自分は何一つ成し遂げてはいない。ラオメドンの言うとおりパルコスを失った自分にはもはや、このメディア国において職務を継続することは不可能なことは明らかだった。
「パルコス閣下が亡くなられたことは、返す返すも惜しいことである。しかし、アリウス殿、貴殿は素晴らしいものをこの国に残されたではありませんか」
「ラオメドン殿、何と言われる」
アリウスはラオメドンを見つめた。すがるような目つきであった。
「いや、メディア国のみではない。貴殿の構想はいずれオリエント世界全体を覆うであろう。駅伝による通信網、物流経路、貨幣導入、軍管区制、どれ一つ取っても、大変な功績である。そして、天才アリウスによって初めて提示された、地縁、血縁、民族、言語を止揚した連帯感、共通観念。貴殿は共通観念をゾロアスター教をもって成そうとした。いや、決して責めるわけではない。貴殿にあっては、絶対観念をゾロアスター教としただけだ。出来うるならば、イオニア学派の哲学であっても良かったのだ」
「貴殿は何故にそこまでご存知なのだ」
アリウスの眼が大きく見開かれた。
「アリウス殿、私は貴殿にのみ興味があった。他の何ものも私の興味を引かなかった。貴殿の、一挙手一投足を見つめ続ていたのだ」
「それは・・・・・」
「残念ながら、貴殿は道半ばにして、望みを実現する手だてを失ってしまった。しかし、確実に後に続く者がいる」
アリウスの構想実現を阻み、挫折に導いたのは、他ならぬラオメドンであった。すべては、ラオメドンの恋情のなせるわざか。
「後に続く者とは・・・・・」
「ネストル、オリオン、ユイマ・・・・・そして、偉大なる若獅子、パルサのキュロス王子だ」
「キュロス王子?」
アリウスは、ネストルからの便りで、英傑であると聞いたことはあったが、人となりについては殆ど知らないと言って良い。
「キュロス王子は、英雄のなかの英雄だ! アリウス殿の理想を実現出来る者は、彼より他にはあり得ない。必ずや成し遂げるであろう」
ラオメドンが、これほど無条件に人を賛美するのは初めてのことであった。
「話は尽きない。そろそろ行こうではないか、我々の安らぎの世界へ。私は解っておる。その為にこそアリウス殿は、私を訪ねられたのだ。私は貴殿が来られやすいように、只それだけの為に、お会いして以来、今日まで全精力を費やしてきた。ハッキリ申しておこう、私はアリウス殿のしもべだ。貴方の望むことを、切に望まれることを実現していただくことこそが、私の願いである」
そう言うと、ラオメドンが木の箱をあけ、小さな壺をとりだした。彼は、二つのグラスに葡萄酒を少し注ぐと、壺より粉をグラスに入れた。
「アリウス殿、ほれこのように混ぜるのだ」
そう言うと、ラオメドンが黒くマニュキュアされた、人差し指の爪先で、グラスの中の葡萄酒をかき混ぜた。アリウスもラオメドンに習い、白く細い小指で葡萄酒をかき混ぜる。
「ラオメドン殿、この粉末は何の薬であろう」
「媚薬でござる。催淫薬でござる。さァ、一緒に飲もうではないか」
アリウスは暫し躊躇したが、意を決したごとく一気に飲み干した。粉っぽい気がしたがべつに変な味はしない。
ホッとしたようにラオメドンが大きく息を吐き出すと、満足そうに笑みをたたえ、グラスの葡萄酒を飲んだ。
アリウスの喉の奥で、破裂がおこった。閃光と高温が一気に身体中の細胞に拡がった。「あッ!」
アリウスの口から思わず小さな声が洩れた。電流が背筋を駆け上がり、脳内に達するとまたもや、小さな爆発を起こした。淫らな快感の破片が飛び散り、頭より液体となって染み通るように降りていく。喉まできた。気管を通り胸に達するとにわかに拡散し、上半身が朱色に染まった気がする。あたかも、溶けたバターが流れるように、朱色の液体は更に下降していく。
その液体は、アリウスの身体を快感となって包んでいく。
「どうかな、アリウス殿」
「・・・・・」
「この媚薬はまだ、希釈したものだ。それほど強烈なものではない」
朱色の液体は、細胞を犯しながらアリウスの股間にまで降りてきた。
「うッ!」
またもや、アリウスは声をもらした。
「その感性こそ、私の求めていたものだ!」
そう言う、ラオメドンの瞳も妖しく潤み、アリウスを崇めるように見つめた。
ラオメドンが立ち上がり、アリウスの座る長椅子に席を移した。横に座りアリウスに密着すると、奴隷市場の去勢室の長椅子の時と同じように、アリウスの膝を撫で始めた。ゆっくりした動きである。次第にラオメドンの手は股間の方に伸びていき、大胆にまさぐり始めた。
アリウスの双眸は虚空を見つめている。けだるくラオメドンの肩に頭を預けたアリウスのドレーパリーが乱れる。そして、時々、呻きを漏らしのけ反る。
異様な光景であった。黒と白が混ざり合おうとするごとくに、蠢いている。二人の瞳は淫らな光を放つ。すでに、この世を離れ別の世界へ旅だっているのであろう。
どのぐらい時間がたっただろうか。二人は寄り添うように長椅子のうえでぐったりしている。この建物のなかの時間は、あるいは歪んでいるかもしれない。空間もしかり。二人以外の何者もこの中には入ることは出来ない。
黒と白は、あたかも磁石のN極とS極が引きあうように、お互いを求め続けていたのだった。彷徨の果て、やっと邂逅を果たした今、もはや決して離別することはないだろう。
さらに時間は経過した。
少しずつ薄れていく、快楽の余韻のなかにアリウスは漂っている。何かが唇に触れた。押しつけてくる粘膜に口を塞がれた。滑った熱く柔らかいものが、口の中に侵入してきた。 新たな快感が背筋をはしる。その時、ラオメドンは唇を離した。今まで閉じられていたアリウスの瞼が僅かに開き、薄水色の瞳が現れた。
「アリウス!」
そう言うと、ラオメドンがゆっくり立ち上がり、アリウスに手を延べた。
アリウスは、褐色の瞳で誘いかけるラオメドンに手をあずけ、もう一方の手で椅子を押さえ立ち上がった。足がフラフラし、身体を支えるのが苦痛であった。
ラオメドンが、アリウスを抱きかかえながら歩き出した。扉を開け、回廊を奥に向かって、歩いていく。長い回廊だ、所々に扉があり部屋になっているようだ。アリウスは足取りもおぼつかなく、ラオメドンに支えられながら歩いていく。
回廊の突き当たりの壁には、大きな顔のレリーフが施されていた。正面と左右を向いた顔が一つになっている。正面の顔の両眼はアリウスの眼と同じ高さにあり、笑い掛けているように見える。口は大きく両端は頬に吊り上げられていた。
その横の、頑丈そうな扉をラオメドンは開けた。部屋に入って直ぐに又、扉があった。その扉には、鍵が着けられていた。鍵を外し、ラオメドンはその扉を開いた。ズッシリと重量を感じさせる扉であった。中の空気が、アリウスの鼻孔の粘膜を刺激した。あの匂いだ! 生臭く、鉄の錆びた匂い。血の匂いだ!
「声が、外に漏れないようにできておる」
独り言のようにラオメドンは、呟いた。
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