ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第一章 梟雄割拠<4> 


 点在している十数個の幕舎の中でも、もっとも大きなものにオリオン一行は案内された。五〜六十人は楽に入れる広さがある。骨組みは材木で造られ数十本の丸太の柱もある。天幕はフェルトに獣皮を被せてあり、床も又、フェルトで敷き詰められていた。
 ユイマとダハイからきた出迎えの人々を残し、オリオンとサティーは、カストルに案内され別の幕舎に行ってしまった。
「アレス、こんなに大きな幕舎は初めて見たよ」
 ユイマは、あたりを見回しながら言った。
「ユイマ、ダハイにもこのぐらいの幕舎はあるが、こんなに手の込んだ装飾のある幕舎は、初めてだ。フェルトでもこんなに立派な物は見たこともないよ」
 そう言いながら、アレスは床を撫でている。
 他の面々もそれぞれ、話し合っている。彼らも大まかなところは、オリオンより聞いてはいたが、よもやこの様な集団であったかと、驚きを隠せないようだ。
「ユイマとやら、これは一体どういうことだ。これがアッシリアか?」 
 ビーマが、ユイマに問いかけた。
「彼らは、アッシリアの軍人です」
「なんと、アッシリアの軍人とはこのような者であったか!」
 ビーマをはじめ全員の顔つきが変わっている。アッシリア帝国は滅びたが、その名前は恐怖と共にダハイ族には伝わっているのだ。彼らの風貌は、ビーマたちを畏怖させるに十分な、威圧感をそなえていた。
ユイマから説明を受けたいらしく、十数人がユイマを取り囲むようににじり寄る。ユイマは、今までの経緯を掻い摘んで話した。
「僕の知る限りでは、大体こんな所です。あとは、オリオン様から詳しい話が有るでしょう」
「そうか、それにしてもサティー様が皇女とは・・・・・」
「さすがは、オリオン様だ・・・・・」
 皆は、それぞれの思いを話し始めた。国元で、冷遇されていた彼らに取っては、オリオンの帰還と共にアッシリア軍は、心強い限りであるように映ったはずだ。

 別の幕舎に、なにやら用意がされているらしく、ユイマたちを案内する者がやって来た。連れて行かれた幕舎の半分の天幕は、開け放たれており、外で兵士が整列している。中に入ると、入り口から一番奥に、段が造られ、長椅子のようになっており、サティーを真ん中にオリオン、カストル、タンタロスが並んで腰を掛けていた。その他の者は、彼らに向かい合って勢揃いをしている。
 この一事をもってしても、カストル、タンタロスの両名は、かなり高位に在ることが伺われる。もっとも、二人の呼びかけに応じて、三百数十人の騎馬兵と、工作兵が集まったのだから当然だとも言えた。
 ユイマたち十数人は、最前列の席に導かれた。 
 サティーの高貴さは、明らかに他を圧していた。ドレ−パリーの上には、アッシリアにおいては地位の象徴である、房の付いた紫色の長いショールを身にまとっている。豊かな金髪は、ミトラで一つに結わえられていた。
「綺麗だ!」
 思わずユイマは呟いた。側のアレスは口を半開きにして彼女を見つめている。
 サティーが立ち上がった。全員が黙したまま彼女の言葉を待つ。
「私は、ダハイの地に参ります」
 暫く間をおき、彼女が述べたのはそれだけだった。
「我らは、今日からダハイ族になったのだ」
 カストルが、大声で宣言した。
「オーッ!」
 全員の声は、幕舎を揺らすほどに響いた。幕舎の外でも歓声があがった。カストルとタンタロスにより、細部の打ち合わせはすでにすんでいた。今行われているのは、最終的なセレモリーといえる。
 この当時、種族、民族という概念は、今日と違ってそれほど強いものではなかった。民族意識に自らの誇りと生命を掛け、他民族を殲滅するという野蛮さが一般的になったのは、十九世紀になってからのことである。
 今日における民族意識は、言語、宗教がその基礎をなしている。ある意味で言えば、この時代はまだ、それらが未分化の単純な幸せな時代だったと言えるかもしれない。少なくとも観念を研ぎ澄ました先鋭化はみられない。


 アトラク川の流れは決して速くはない。ヘザルマジェト山から源を発し、東へ流れカスピ海へ注ぐ水量豊かな川である。ダハイとヒュルカニアを隔てる天然の要害でもある。とても騎馬で渡航できるものではなく、渡し船に頼らざるをえない。
 しかし、遙か上流のボジフルドまで行き、コペトダク山脈の麓を走れば、騎馬での渡航は可能である。
「さあ、このままボジフルドまで行くぞ」
「オリオン様、渡し船はいくらもあります。このぐらいの人数の渡航など、すぐに渡ることが出来ます」
 オリオンの指示に、ビーマは不服らしい顔をする。彼は一刻も早く帰還したいように見えた。
「ビーマ、そう言うな。川沿いの二昼夜の旅もいいもんだぞ」
 たしかに、ビーマの言うごとく三〜四百騎の渡航は、簡単だろう。しかし、三千騎になるとどうであろうか。オリオンは騎馬での渡航の経験はなかったのだ。
「そうですね、川は進軍の大いなる障害になります。逆に防御側にとっては、天然の要害になってしまいます」
 カストルの言葉に、ビーマはハッとした表情になった。オリオンはごく当たり前のように続けた。
「三年、いや二年以内に、向こう岸からこの川を渡ることになるだろう・・・・・」
 オリオンが未来に関する思いを、呟くように語っていたとき、タンタロスが馬を走らせ並びかけた。
「オリオン殿、人数が増えましたぞ。よほど警戒しているようです」
「警戒するがよかろう。今はむしろ警戒して、下手な気を起こさないようにして欲しいものだ」
昨日から、ヒュルカニアの兵士と見られる者が、オリオン一行に、付かず離れず後を追っていた。

「すごいなあ、カスピ海か」
 ユイマの後方には、まだ湖が陽を照り返し、キラキラ輝いている。彼が振り返れば、常に湖が眺望できる。ユイマはカスピ海を見た感動にまだ浸っているのだろう。真っ青な湖面が、茶色の大地から突然出現し、見渡す限りに広がっていた。海を知らないユイマにとって、これほどの圧倒的な水量は初めてであり、恐怖すら覚えるほどであった。
 湖沿いに一昼夜、馬を走らせても景色は変わらない。果てもない青い水が続くばかりであった。
「すごいだろ、カスピ海は」
 アレスはまるで自分のことのように、嬉しそうに、ユイマに誇ってみせる。
「ヒュルカニア人は、この湖のことをヒュルカニア海と言うらしいが、奴らは何にも分かっていない。ここから北へ、遙か、遙かに遠くまで湖なんだ」
「えっ、そんなに・・・・・」
「そうだ、ここから七日間北に行ったところに、俺の故郷、カラボガズゴル湾がある。それよりも遙か北・・・・・果ては誰も見たことがないんだ」
「君の故郷って、どんなところなんだよ?」
「ユイマ、そのうち案内するよ。各地から交易商人が集まって、凄く栄えているんだ。カラボガズゴルの特産物は塩だ。浅い湾内で良質の塩が取れるんだ」
「塩って、あの白い結晶の塩なのか?」
「そうだ、それも無尽蔵に取れるんだ。その塩を支配する有力者の一人が、俺の親爺なんだぞ」
「そりゃ凄いや! エクバタナでは塩は高価だよ。無駄に使うとサティーに怒られるんだ。でも、何故そんな豊かな故郷を後にして、ネビドダクに出てきたんだい」
「偉大な勇者になるんだ。何と言っても、ダハイの中心は、族長ディオン様の居られるネビドダクで、さらにその中でも勇敢なオリオン様について立派な男になるんだ。ユイマはどうなんだ? オリオン様に従っているのは強くなりたいからだろ」
「僕か・・・・・そうだな・・・・・」
 ユイマには明確に答えることが出来なかった。アレスには、溢れる希望と強い意志がある。彼の身体中から精気が湧き出て、溌剌とした声、動きとなってユイマを圧倒するものがある。
 しかし、ユイマは三年前、十四歳のとき草原で拐かされて以来、彼の意志としての行動は取れなかった。忌々しい思い。屈辱の経験。優しく差し伸べられた手。すべてに於いて彼は受け身であった。拒否することも望むことも出来なかった。自分の意志? 希望? ユイマには解らない。ただひたすら、人に望まれるレールの上を走り続けるのが彼の人生なのだろうか。

「ユイマどうしたんだ? 虚ろな眼をして・・・・・」
 アレスの言葉にユイマは現実に引き戻された。
「な、なんでもないよ」
「そういえば君のこと何も聞いてないよな。君の出身は何処なんだ? 金髪、碧眼で女のように白い肌はこちらではあまり見かけないからな」
「僕はウクライナというステップ平原の生まれなんだ」
「ウクライナ? 知らないな。遠いのか、そこは」
「うん、リディアの先、遙か北の方にある草原が、僕の故郷だ」
「えっ、そんなに遠い所から何故ここまで来たんだ?」
「何故って・・・・・」
 ユイマの青い瞳が伏し目がちになった。
「ご、ごめんよ。誰でも言いたくない事情があるんだ」
 アレスはその活発な風貌にかかわらず、優しい心を持った少年のようであった。 
「俺たち、友達だぜ!」
 そう言うと、アレスは手綱を取るユイマの手を掴んだ。ユイマの二の腕があらわになった。
「な、なんて、白くて細い腕なんだ! お、お前、本当に男だよな!」
「あ、当たり前だ! 侮辱すると許さんぞ」
「ご、ごめん。だけどホントに綺麗だな・・・・・」
 アレスはウットリするように、この地方では珍しいユイマの蒼い瞳を見つめた。
 ユイマの身体は、オリオンに武道を習い鍛えているにも関わらず、筋肉が付かない。特に腕は細いままであった。

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