ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第一章 梟雄割拠<5> 


 紀元前六世紀の末、アルメニア西部、カッパドキアに近いところに、エルズルムという城塞都市がある。メディア王国にとって、常に動静の監視を必要とする、リディア王国の都サルデス、新バビロニア王国の都バビロンとも等距離にあり、地政学上重要な拠点である。それとともに、この地域一帯の交易の中心地でもあった。
 物資が集積し、人の行き交うところには情報も集まる。
 この拠点に、メディア王国、第一軍管区司令官、クレオン将軍の指揮する軍本部が駐留していた。この地は、アルメニア地方には珍しく水量豊かな川が流れ、農業も盛んである。緑に覆われた草原を望む高台の、二重の城壁に囲まれた都市の中に第一軍指令本部があった。
 この時代に於いて、都市が立派な城壁を持つのはごく普通であった。城壁は交通、人の出入りには障害になるが、略奪から身を守るのには絶対必要なものである。
 略奪行為は悪でもなんでもない。生命の営みであり、遊牧民にとっては生活そのものであった。城壁を持たない都市は、あたかも乙女が全裸で市場を歩くほどの、非常識なことである。

 第一軍はメディア王国に置ける最も精強な部隊で、独立国家の呈をなしている。この地方一帯に散開している三万人の正規軍の頂点には、『隊長』と贈り名され、パルコス将軍に次ぐ名望をそなえたクレオンが位置していた。
 クレオンが執務する部屋は、フェルトが敷き詰められ、荘厳な調度品に囲まれている割には、採光もよく爽やかな雰囲気である。
 椅子にもたれて安らいでいる彼の耳に、まるで地響きでも起こしそうな低い足音が近づいてきた。
「将軍、ネストル様からの使者が、書状をもってまいりました」
 注進に及んだのは、クレオンの腹心ドリオスであった。身の丈はクレオンよりも高く、立派な顎髭を蓄え、その巨体はパルコスを彷彿させるものがある。ドリオスは書状を恭しく差し出した。
「なに、ネストルとな! 待ちかねていた」
 クレオンは椅子の上で姿勢を正した。ネストルという名前に、ドリオスですら正視できない、猛禽類のような鋭い眼光を放つクレオンの眼が緩んだ。ネストルはクレオンにとって、ともに伝説の『朱の獅子の爆走』を行った盟友であり、クレオンの最も信頼する男でもある。
「ドリオス! エウピテスを呼んで参れ」
「はっ、承知いたしました」
 そう言うと、ドリオスはクレオンの前から引き下がる。ドリオスはクレオンの信頼する武闘派の戦士であり、馬上で長い槍を構えた勇姿は、それだけで敵の戦意を挫いてしまうほどであった。 
 エウピテスは、クレオンの配下で軍師の役目を仰せつかっている、イオニア出身の三十代半ばの男である。

 半月前にも、ネストルからの書状が届いていた。エクバタナの宮廷内部に関する情報であり、挙動を慎むむねの懇願であった。ネストルをパルサの地に追いやり、最重要拠点の秩序を維持するとの理由で、クレオンをアルメニアとカッパドキアを管区とする、第一軍の将軍に据えたオロデスの陰謀についての、詳細な便りであった。
 その書状が届いた直後に、クレオンはパルコスの訃報を聞いた。メディア王宮のオロデスからの報告では、犯人はアッシリア残党と断定していたが、前もって、ネストルからの報告を受けていたクレオンは軍を動かすことをひかえ、情勢を見極めることに心を砕いていた。そのクレオンにとって、ネストルからの書状は、まさに待ち望んでいた情報であった。

「将軍、ネストル様から連絡があったそうでございますね」
 エウピテスがクレオンの前に現れた。イオニアの文人のように、ドレーパリーを羽織り、金髪を肩まで伸ばし、痩身は軽やかに身をこなす。碧眼は人を小馬鹿にしたような天衣無縫な感じをあたえ、とても軍人とは思えない風貌であるが、これで天才的戦術家なのだから恐れ入る。
「おお、エウピテスか、ずいぶん時間が掛かるではないか、お主何処にいたのだ?」
「将軍、野暮なことは言わないで下さい」
 クレオンの眼光にも、エウピテスは気圧されることがないらしい。
「また、女か・・・・・仕方のない奴だな」
「えっ、将軍、他に何があるんですか?」
「そんな事はどうでもよい。ネストルからの手紙だ、読んでみよ」
 クレオンに渡された書簡を、エウピテスが顎に手を添えながら、首を心持ちかしげて立ったまま読み始めた。側では、ドリオスが大股を開き、後ろ手のまま視線を上にあげている。
「なるほど、そう言うことですか。アリウス様までが亡くなられたのですか・・・・・」
 アリウスという言葉を発したエウピテスの声には、驚きではない、ある種の感慨が込められているようであった。
「エウピテス、儂はネストルの考えが納得出来るのだ。おそらく彼の考える通りであろうと思う」
「将軍、確かにそうでしょう。オロデス閣下の仕組んだことに相違ありません。宮殿よりは、アッシリア残党の背後にリディア王がいるとの報告がありましたが、あの狡猾なダイダロス王は、慎重な男です。現時点では、たとえパルコス閣下を倒しても、メディア王国を牛耳ることが出来るとは考えないはずです」 
「フラーテスも死に、アリウスも死んだらしい。残る執政官はオロデス一人になった。彼はアステュアゲス王子の伯父にあたり、王子はダイダロス王の娘を正室に迎えておる。彼に敵対出来るのは今や儂だけになってしまったか・・・・・おい、ドリオス、お前も何とか言ったらどうだ」
「ご勘弁下さい。自分は戦うだけの男であります」
「分かった、分かった、お前は立派だ。皮肉ではない心底そう思うぞ。そして、エウピテスは享楽か・・・・・」
「将軍は何ですか?」
 エウピテスにとっては、今ひとつクレオンが理解できないようである。
「パルコス将軍は、アッシリア帝国を滅ぼすことに人生を賭けられた。儂は将軍に従うことだけしか考えておらなかった。それがもっとも自分を生かせると思っておった。ある面で言えばドリオスと同じかも知れない・・・・・しかし、儂の人生は大きな曲がり角に来ていると思える」
「将軍、いまやオリエント世界ひろしと言えども、将軍をしのぐ総帥の器は見あたりません」
「エウピテス、やけに褒めるではないか」
「そりゃ、飯の種ですから・・・・・それはともかく将軍、今やあなたの立場は極めて重要になって参りました。ネストル様の仰るとおりに、動かない方がよろしいかと。メディア、いやオリエント世界第一の精鋭を率いる将軍が、でんと腰を据え泰然としておりますと、廻りが恐怖に駆られ右往左往することになるでしょう」
「分かった。むろん儂もそのつもりである」
「自分は、戦いたいであります。先ほどリディアに潜伏中の密偵より、またあらたな情報が入って参りました。リディア軍がシワスの近郊に集結しつつあります、既に一万に近くなって居るようであります。我が軍は、三千の正規兵と五千の傭兵、農兵を配備しておりますが、増員の必要があるかと考えます」
 ドリオスの顔色が紅潮してくる。クレオンが命ずれば、すぐこの場から戦場に駆けつけかねない勢いであった。

「シワスの近郊か・・・・・あの一帯を一度見ておく必要があるかな。どうだエウピテス」
「将軍、それは良いお考えだと思います。カッパドキアの複雑な地勢は、一度見るにしくはござりませぬ。後日、必ずや役に立つと思われます」
「後日とな・・・・・そういえば、今日は何日だ!」
「五月二十日でございます」
「エウピテス、確か、五月二十八日であったな」
「左様でございます」
「ダイダロス王も、なかなか侮れぬようだ」
 クレオンは背もたれに身体を預け、顎髭を撫でながら頷いた。
「いかにも、リディア王国にもイオニアの人間が、仕えておることは間違いありませぬ。最初から戦う意志はなく、オロデスに対する演技の筈です」
「お二方は、何を話しているのでありますか。自分にはさっぱり理解できませぬ、今、集結中のリディア軍には、戦う意志はないと言うことでござるか・・・・・五月二十八日とは?」
 大股を開き、後ろ手に組んだままドリオスが言った。
「おっ、ドリオスには話しておらなかったか。エウピテス、お前から説明せよ」
 金髪を掻き上げ、ドリオスを見上げるようにしてエウピテスは話し出した。
「私の出身地は、イオニアのミレトスです。栄えていると言っても都市国家で小さな国と言えるでしょう。先ほど亡くなったと報告にあった、アリウス閣下とも面識がありました。彼が死んだとの報告には、それほど衝撃を受けはしませんでした。いつ死んでもおかしくはないほどその存在感は儚げでした。それだけに、類い希な美貌とプラチナブロンドは人を惹き付けてやまないものがありました。私の友人であったパライモンという男は、アリウス様に魂を抜かれ狂死してしまいました。私は心を揺さぶられ、破滅する危険を感じ、遠くから見るだけで近づけなかったのです。この気持ちは二十歳前のアリウス様を知る、ミレトスの男子には解るはずです」
「エウピテス殿、アリウス閣下とは面識があったのでござるか?」
 驚いたようにドリオスが言った。
「これは失礼、話しが少しそれました。そのアリウス様の養父がアナクシマンドロス様です。この方と、タレス様、アナクシメネス様の三人、ミレトスの・・・・・いや、ギリシャ世界至宝の三人の哲学者が共同で、天体の観測をし、複雑な計算をなさいました。そして、それを年長であるタレス様の名前で発表なさいました。すなわち今年の五月二十八日にカッパドキア地方で皆既日食が起こるというのです」
「皆既日食? 何ですそれは」
「月が太陽の光を遮るのです。ドリオス殿はご存じないかも知れませんが、月が光るのは太陽光線を反射しているのです。そして月は太陽より遙かに地球の近くにあります。太陽と月の運行を観測することにより、月によって太陽の光が完全に遮られる時間と地域を彼らは計算したのです」
「月が太陽を反射しているのだと? では夜光るのは?」
 ドリオスは理解できないという顔をするものの、いたく興味を持ったようだ。
「そうです、夜は太陽が丸い地球の反対側に位置した時に起こる自然現象です。地球は太陽の廻りを回っているのです」
「な、何と申す! この大地が動いて太陽の廻りを回ると言われるのか!」
「ドリオス殿、五月二十八日にはそれが証明されるのです。正午過ぎに太陽が欠け始め、そのうち日中にもかかわらず真っ暗になり、闇に閉ざされることでしょう」
「ドリオス、儂はエウピテスの言うことを信ずるぞ。なるほど、儂も今までお前と同じように考えていたが、エウピテスの予言はいままで全部当たっておるのだ」
「将軍、予言ではございません。天体の運行は自然現象であり、哲学者には計算できるのです。いわば、ごく当たり前のことなのです」
「ドリオス、ダイダロス王はそのことを十分承知していると思われる。ゆえに、戦闘は起こらない。もし戦闘が起こるとすれば、皆既日食を片方が知らなかった場合だ、知らない方は恐怖におののき、壊滅するだろうが、よもやそのようなことはあるまい。リディア軍の集結の様を見れば多分間違いがなかろう。ドリオス、お前には皆既日食の話しを幹部連中に徹底してもらわねばならない」
「私にはとうてい納得が出来ませぬ。しかし、将軍のお言葉ですから全軍に徹底させます。それと、リディアに対抗する為にも、増員の手配を致します」
 一礼し部屋を辞去しようとするドリオスに、クレオンは声を掛けた。
「おい、待て。少し話していかぬか」
「急ぎの手配もございます。自分はこれにて失礼いたします」
 
紀元前五八五年、五月二十八日に皆既日食が起こることを、タレスが指摘したことは記録に残っている。またその時、戦闘状態にあった、メディア国とリディア国が急遽兵を引き和議を結んだことは史実である。
その後、明確に地動説を唱えた事が記録に残っているのは、紀元前三百年頃のアリスタルコスを待たねばならない。しかし、筆者はタレスを筆頭とするイオニア学派はその事実を理解していたと思う。

「誰かおらぬか!」
 クレオンが割れるような大声を出すと、はじかれたように衛兵が部屋に飛び込んできた。
「はッ!」
 身の丈の大きな若者であったが、頭を下げたままクレオンの顔を見ようともしない。
眼光鋭いクレオンの眼を正面から見つめられるのは、この地ではエウピテスだけであった。
「隣の部屋に、葡萄酒を用意しろ。エウピテスと少し話しをする」
「はッ!」
 弾かれたように、衛兵は飛び出していった。
「し、将軍・・・・・」
「なんだ、女でも待たせてあるのか。そんなもの待たせておけ」
「・・・・・朴念仁・・・・・」
「何か申したか」
「いえなにも・・・・・お付き合いさせていただきます」
 クレオンは颯爽と立ち上がると、エウピテスを気にすることなく隣の部屋に向かった。エウピテスは首をかしげながら後に従う。

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