ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第一章 梟雄割拠<6> 


 絨毯が敷き詰められ、木製の華奢な台の上には葡萄酒の壺と、グラスが置かれていた。椅子は頑丈そうなもので、クレオンがドンと腰を下ろしても軋みすら立てない。
 大きな窓からは光が射し込み、台の足にまで届いていた。窓からはエルズルム市街が見渡せる。治安の維持が出来ている都市には、人、物が集まり、猥雑さと華やかさに溢れた光景が現出する。秩序が保たれることは人間活動にとって、最も望ましいものだと言えるだろう。そして、秩序こそ人間を自由にする。 

「将軍、何か大切な話しでもおありですか」
 座った身を乗り出すように、エウピテスは両肘を台の上に置いている。
「まあ、葡萄酒を飲め。嫌いではなかろうが」
 クレオンはそう言うと、グラスに葡萄酒を注いだ。
「お主と、出会って一年半になるか。シリアのカデシュの古戦場であったな」
「正確には、一年と四ヶ月になります。まさか、メディア国のクレオン将軍とはつゆ知らず、いにしえのヒッタイトとエジプトの戦いについて講釈をしてしまいました」
「恐縮することはない。いやお前が恐縮などするはずがないか・・・・・しかし、なかなか大した戦闘の分析であった」
「戦史を研究することほど、軍師として大切なものはありませぬ。個々の戦闘を頭脳に焼き付け、それをもとにあらゆる場面を想像するのです。想像力こそ戦いを勝利に導くのです」
「そして、お主の活躍する場を儂が与えたことになるのだな」
「いかにもそうです」
 一応の敬意を表してはいるが、エウピテスとクレオンの間には、主従を越えた不思議な感覚があるように見える。

「今回のリディアとの対峙は、おそらくお主の言うとおりに運ぶだろう。しかし、以前から聞いてみたいと思っておったが、エウピテス、そちにとっては戦争とはいったい何なんだ? ドリオスにとって、戦争とは身命を賭した戦いである。全勢力を傾注する自己表現だと言える。確かに知謀に置いてはそちに比ぶべくもないが、軍人としては非の打ちどころがないと儂は思う」
「私も同感であります。彼は軍人の鏡でしょう。命令されたことに何の疑問も持たず、死地に赴くのですから、敵にとってはこれほど怖い者はないでしょう。しかも、戦場において部下を統率する能力は、持って生まれたものとしか言い様がありません。しかし、戦争に身命を賭すのは彼だけではありません。私もそうです」
「なんと、お前らしくないことを言うではないか」
「そう言われると困ってしまいますが、私にとっては戦争は遊技であります。そして、その遊技に、脳髄を絞れるだけ絞り、命懸けで謀をしています。過去の戦闘のモデルを記憶から探り出し、地形を考え、人を配置し、戦端を開く機会、部隊の移動そして補給・・・・・正直申せば、これほど興奮し胸躍ることは他にはありません」
「女よりもか?」
「いやー、それはそれで素晴らしいんですが・・・・・」
「エウピテス、お前が図上で動かす、一つの点、その一つ一つが、耐え難い苦難、重い人生を背負っている人間なんだぞ、それについての引け目はないのか?」
「考えないことにしております。想いをそちらに馳せるならば、作戦は失敗し破れぬまでも、味方の損害、つまり死者が多くなるでしょう。人を人とも思わぬ事によって、味方の命を救うと信じております」
「お前が命がけで作戦を練り、そのことに興奮し、満足を感じていることは理解できる。最初の頃は、人の命を弄ぶのかと、いささかしっくりいかない部分もあったが、今は、真に類い希な才能だと思っておる」
「将軍にとって、戦争とはなんですか? 権力や地位、富貴を獲得するためとも思えません。ドリオス殿、いや私自身が何故無条件で従うのかと思うことがあります。将軍には軍人、参謀と役割では説明できない、人間的魅力があります。将軍の命令一過、将兵はためらうことなく死地に赴く、これは余人を持って出来ることではありません。何故なんですか?」
「エウピテスよ、褒めてくれて嬉しいが、儂はパルコス閣下に心酔し、一所懸命真似をしている。これで答えにはならぬか」
「今ひとつ納得出来かねます。まあ、納得出来ようと出来まいと、どうでもいいことかも知れませぬが」
「お前はけっこう冷たい奴だな」
「冷酷と言って頂きたいものです」
 エウピテスは、金髪を掻き上げ、微笑みながら言い放った。
 クレオン将軍は、人の身体を突き刺す鋭い眼光と、獣の筋肉を持ちながら、心の中はおおらかで人を包み込む器を持っているようだ。それは単に、パルコスの真似をしているとはいえない何ものかが、有るはずだった。

「すこし待っておれ」
 そう言うと、クレオンは席を外し、暫くすると一人の精悍な男を伴って戻ってきた。部屋に入ってきた男は、クレオンにも見劣りしない体格である。
「エウピテス、紹介しよう。ネストルからの書状を届けてくれたメムノン殿だ」
「初にお目に掛かります。メムノンと申します」
 右頬に刻まれた深い傷を引きつらせるように、彼は微笑んだ。
「エウピテスでございます」
 エウピテスは椅子から立ちあがり挨拶をした。痩せてすらりとした体つきだが、背の高さは他の二人とほとんど同じである。
「メムノン殿も掛けてくれ。一緒に葡萄酒でも飲みながら語ろうではないか」
 そう言いながら、クレオンはいつのまにか用意して来たグラスを、台の上に置き腰を下ろした。
「二人とも、掛けなさい。エウピテス、メムノン殿はパルサから来られた、ネストルと同じくキュロス王子の臣下である。なかなか油断ならぬ男だ」
「将軍、ご冗談を」
「いや、冗談ではない。お主はキュロス王子の眼であり耳である、そうであろう。今回はどちらに行かれるのだな」
「カッパドキアでの、リディアとメディナの戦いを見物させていただこうかと」
「ほーっ、儂がそちの見学の計らいでもすると思うのか」
「パルサは、メディアの属国ではござりませぬか」
「属国? もっとも、危ない関係だな。身内が一番危険だ」
 クレオンの鋭い眼差しに、おどける感じが混じった。

「ならば、将軍が最も警戒せねばならぬのは、メディア国、内部の人間と言うことなってしまうのではありませぬか」
「そうかも知れぬ。そしてお主にとっても、本当の敵は、パルサ内にあるのだろう」
「まいりましたな、廻りは敵だらけですか」
「廻りだけならいいんですが、意外に一番の強敵は、自分の内部に存在すると言うこともできましょう」
 今まで、話さなかったエウピテスが入ってきた。
「最大の敵は自分ですか? いかにもイオニア学派の人ですな」
「私が、イオニア出身と言うことが、お分かりですか?」
「自分の特技は、人の出身地、民族が解ることです。各地を巡りあらゆる人々と交わってきました。秘訣は、言葉遣いと風貌といえばいいのですが、本当のところは直感です」
「メムノン殿、直感というものは、自身に於いて自覚していない論理ではありますまいか?」
「エウピテス殿は、まさにイオニア人ですな、確かにそうかも知れません。自分の直感による判断は、臭いと色ということが出来ます。人はそれぞれ雰囲気というか色彩をまとっています。人種、民族にもそれがあります。そして、それぞれに臭いを持っています。嗅覚の感知する臭いではなく、感性に染みこんでくる臭いとでも申せば良いのでしょうか」「ほぉー、貴殿もエウピテスと同じ哲学者にみえるぞ」
「とんでもございません」
「謙遜することはない。してそれが当たるのか?」
「まず間違うことはございません・・・・・一度をのぞいては・・・・・」
「間違ったことがあったのか?」
「間違いと言うより、解らなかったのです」
 メムノンは顎を上げ遠くを見る眼つきをした。
「メムノン殿が解らなかったという例外とは?」
 エウピテスもメムノンの話しにいたく興味を感じてきたようだ。
「臭いも色彩も無かったのです。将軍はご存じでしょう、アリウス閣下です」
「おお、アリウス殿か・・・・・」
「そうです、無臭で透明、たおやかで類い希に綺麗な人でございました。その存在から、雷光のような鋭い知性の光を放つという感じでありました」
「うーん、その、アリウス殿も亡くなられたか・・・・・」
「我が殿、キュロス王子はそのことを予言しておられた。近づくな、あの男は近々滅亡すると・・・・・」
「その感じは儂にも解る。この若造がと彼を睨みつけたとき、儂の眼光をあの薄青い瞳で吸い込みおった。そのとき儂の背筋を冷たいものが走った。ああ、これが人の言う恐怖というものかと解った。以後なるべく避けるようにしておったのだが・・・・・破滅ではなく滅亡か・・・・・王子はなかなか適切なことを言うではないか」
 クレオンは、何回かキュロスにあっている。何れもキュロスの方から、エルズルムの軍本部に訪ねてきたのだ。メムノンが常に付き添っていた。華奢で少年の面影を残したような青年であったが、その尋常ならざる人となりについては、クレオンは初対面の時に感ずるものがあった。『これが、英雄の資質か!』という思いが閃いたのだった。

「将軍、もはやメディア王国は、パルコス閣下、アリウス閣下と国家の重鎮が次々になくなり、キュアクサレス王が執務をとることがかなわぬ状態です。国家の命運はオロデス閣下に握られていると申しても過言ではありますまい。いまや、オロデス閣下に対抗できるのは、クレオン将軍以外はございますまい」
「貴殿は、儂の腹を探るつもりか? もっとも、それは当然のことであろう。しかし、儂は今は動かぬ。儂が動かぬ事により、メディア宮殿内部は疑心暗鬼にかられ、自家中毒をおこすであろう。そうであろうエウピテス」
「さようでございます」
 エウピテスが短く同意した。
「儂のもとに参ずる兵が増えてきておる。各軍管区の将軍からの連絡も繁くなった。どうだ、これでキュロス王子への土産が出来たであろう」
 クレオンは頬をゆるめながら、メムノンの顔をのぞき込んだ。
「いえ、そのような・・・・・大国、メディア第一の将軍が・・・・・」
 メムノンは、クレオンの意外な問いかけに、さすがに動揺を隠せない。
「良いではないか、キュロス王子・・・・・何度かお会いしたが、あの方は、あるいは時代を切り開く、英雄になられる資質が有やに思える。その資質を開花させるのがメムノン殿、貴殿の役目であろう」
「キュロス殿下は、すでに自分の手の届かぬところに行かれました。あとは従うのみです。殿下に必要なのはさらなる大きな人格です。たとえば、クレオン将軍のような・・・・・」
 クレオンとメムノンの話しは続いていくが、エウピテスの口から漏れる言葉は少なくなり、ついには黙りこんでしまった。アリウスという名前が出てから、彼の態度に明らかな変化が顕れた。

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