ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第一章 梟雄割拠<7> 


 エルズルムは二キロメートル四方はある城塞に囲まれた大きな都市である。宮殿はないものの、神殿を有し、交易とこの地方の行政の中心地であった。
 物と人の溢れる市街地をエウピテスは歓楽街の方へ歩いていた。第一軍管区司令官の威令は行き届き、街を歩く者の顔には緊張感は窺えず、おだやかな顔をしている。
 しかし、この街には有史以来、度重なる侵略を受け、略奪と灰燼に帰した歴史がある。悲劇の上を土が覆い、またあらたな都市が形成される。
 エウピテスが歩く街路の下にも、幾層にも悲劇が階層をなして埋もれている。略奪、殺戮がごく普通の生の営みであるならば、悲劇とは何の変哲もない日常的な出来事なのであろう。
 色鮮やかに塗られた日干し煉瓦の建物。その一画は、色彩に溢れていた。微かに楽曲の音も流れてくる。 
 とある遊郭とおぼしき二階建ての建物の中にエウピテスが入っていった。建物は大きな中庭を囲んで建てられていた。もうすぐ初夏を迎えようとする庭の緑は、度重なる悲劇を養分としたかのように、色を濃くし、生命の勢いに溢れている。
 エウピテスは二階の中庭沿いの回廊を歩いている。先ほどの軍司令部における話しが終わった後、彼は気持ちが沈んでいるようにみえた。金髪に碧眼の秀麗な顔が俯いて歩を進めている。

「待ったかい! ごめんよ」
 エウピテスはドアを開けると明るく内部に声を掛けた。なかで人の動く気配がする。彼は、ドアの入り口に掛けられた布を手で払うと中に入っていく。
「お帰りなさい!」
 妙齢の娘が二人、立ちあがった。絨毯が敷き詰められた内部は大きく、椅子の影はない。そのまま絨毯に座って過ごすようになっていた。
 長い栗色の髪と、褐色の眼をした艶やかな姿態をした二人はよく似た顔立ちである。しなやかな身体を薄い巻布で覆い、肌が透けて見える。薄い布の他には何も身に着けていない。艶めかしい動作で、エウピテスに寄り添う。
 女が男に欲情を感じせせるのは、明らかに裸ではなく計算された演技であり、衣服での隠し方にある。本人が、それを意識しようとしまいと。
 男女間の性欲は、はたして本能と言えるのだろうか。
「寂しかっただろ」
 エウピテスは、優しくそう言うと、二人の肩を軽く抱き寄せた。
「・・・・・ええ」
 先ほどまでの沈んだ表情は、何処へ行ったのだろう。彼は幸せそうな目つきで二人を交互に見つめる。
「えっ、そんな・・・・・」
 エウピテスの手が、薄い布越しにあらぬところを撫で始める。
「ちょ、ちょっと待って下さい・・・・・」
「良いではないか」
「でも、エウピテス様は、今日はなんだか変です」
「どこが、変なんだ?」
 彼は、着ていたドレーパリーを脱ぎ捨て、下帯も取ってしまった。
「どうだ、見てみろ。いつもと何処が違うというのだ」
 エウピテスはおどけた顔をした。心中にある、自分の拘りを吹っ切るためか、いささかの無理がある。
「そういう、ことではなく・・・・・」
 彼は、突然、二人をかき抱くと何かに取り付かれたように戯れ始めた。
「いいから・・・・・いいから」
「ち、ちょっと」
 二人の娘の戸惑いはすぐに終わったようだ。
 じゃれ合う三人の嬌声が部屋から漏れ出していった。
 
 まだ陽日は高い。痴態と快楽の時が過ぎると。エウピテスは、かるくドレーパリーを身に羽織った。仰向けになった彼のうえを、戯れ終わった虚脱の時間が流れる。快い疲れを愛おしむかのように、彼の顔からは、うっすらと笑みがこぼれている。
「どうなさったのですか、今日は・・・・・」
「いつもと違うか?」
「何かに取り付かれたようですもの」
 二人の女は、汗に濡れたほつれ毛を掻き上げ、衣をなおす。
 エウピテスが、エルズルムに来て一年が過ぎるが、彼の住居はこの部屋である。最初にこの遊郭にあがり、案内された部屋にそのまま居着いてしまったのだ。女性もその時のままである。彼は、二人を身請けして屋敷を構える気は全くないらしい。気ままに世間を渡り歩く、この三十過ぎの男には、家族、家庭といった概念は存在しないようだ。
「先ほど、懐かしい人の名が出て、思い出していたんだ」
 彼の話しぶりは、客と遊女という関係とは言えず、あくまで友人感覚に見える。
「どういう方ですの?」
「アリウスという男だ」
「アリウス様・・・・・それは、ひょっとして、この国の偉い方ではございませんの?」
「そうだ、執政官という最高の地位につかれておられた。まだ、公にはなってはいないが、すでに亡くなられた」
「執政官ともうしますと・・・・・」
「そうだ、クレオン将軍よりも上のお方だ。そして、今までの人生に於いて、私が本当に恋した人だよ」
「えっ、そんなに偉いお方! でも・・・・・いま、恋したと言われましたが、アリウス様というお方は、男性ではございませんの?」
「そうだ、素敵で魅惑的な男性だ。おまえたちは噂で聞いたことがないかい? 真っ白い肌、プラチナブロンドの髪、細身の身体を白いドレーパリーに包んでいる。薄蒼い瞳は、現実を見ることはなく、どこか遠くを見つめているという風貌を」
「いえ、そこまでは、でもそんなに綺麗な方だったんですか」
 二人は横座りになり、一人はエウピテスの腕を取り優しく撫でている。もう一人は、彼の頭を膝の上に乗せ、髪を撫でる。
「ミトレスの港にたたずみ、髪をなびかせエーゲ海の彼方を見つめる十七歳の頃の彼に、私は恋したのだよ。しかし、私は声も掛けることは出来なかった。ただ彼を眺めていただけだった」
 エウピテスは、遠くを見るような眼で訥々と話し出した。二人の女性は、思いにひたる彼を邪魔しないように、相づちを入れる。
「港にたたずむ彼の姿は、周囲の熱い視線を浴びていた。しかし、誰も話しかけるものはいなかった。清浄で硬質なガラスを思わす雰囲気は、人をして熱い想いをぶつけるには躊躇させるものがあった。ここに一人、パライモンという私の友人がいる。いささか軽薄な彼は、魅入られたまま、臆することなく眼に見えない空気の幕を切り裂き、アリウスに生身でぶつかっていった。そして、砕けた・・・・・一年後に彼は、恋情の果てに狂死してしまったのだ」
「まあ、恐ろしい! 男の人の恋とは、それほどまでにも激しいものですか?」
「彼だけではない、私は苦しみ、パライモンを嫉妬し、呪った。眠れぬ夜の連続だった。私に限らず、当時のミレトスの若者達を襲った伝染病であった。ミトレスは小さな都市国家だ、罹患しない者はあまりいなかっただろう。そして、今、私はここにこうしている。ミレトスを後に長い放浪の生活を続け、あらゆる出来事に出くわした。自分では治癒したと思ってはいるが、人と同じ生活が送れないと言うことは、あるいは病の後遺症のせいかもしれない」
 二人の遊女は、微笑みながらエウピテスを慈しむ。おぼろげながら、彼の言う言葉が理解出来ているようだ。
「私たち姉妹は、エウピテス様とこうして過ごすことが出来て幸せです。いつまでもこのままで居れたらと思うばかりです。でも、恋情とは申せません。そうだわよね・・・・・」
 姉は妹に同意を求めるように、言葉を投げかけた。
「お姉様の仰る通りでございます。あとどのぐらいかしら・・・・・私たちの容姿が殿方の気持ちを誘うことが出来るのは? 違った意味で私たちは、人々の生き様をみてまいりました。思いもしなかった帝都ニネベの陥落。裕福な商人の娘として過ごしていた私たちは、陵辱を受け、売られてしまったのです。それ以後は転々として、庇護者が変わり今に至っております。庇護者には見返りとして、私たちは提供できるものを提供して参りました」
「・・・・・おまえたちは、現実の世界で地獄を見てきたのだな。私は観念の世界の・・・・・」
 エウピテスの瞳に真摯な輝きが宿った。
「地獄? 私たちは人間の本当の姿を見て参っただけと思います。庇護を必要とする女の生き様を・・・・・。妹の申すとおりでございます。ニネベの時とは、保護して頂ける人が変わっただけだと思っております。見返りとして、提供する奉仕内容が多少異なりますが、たとえば、子を産み育てる。あるいは殿方の食事の世話をするなどは、私たちは致しません。期待されていないのです。私たちは私たちに期待されることを、まっとうすることが人生だと思っております。あと何年出来るでしょうか・・・・・遅まきながら、楽曲を身に着けるべく努力は続けておりますが・・・・・」
「他に生きるすべは無いのか?」
「殿方に頼らず、女はどうして生きて行けましょう。あるならば、お願いです教えて下さい・・・・・」
 うつむいた二人の遊女の瞳は潤んでいた。
 エウピテスの享楽的な生き様は、あるいはこの二人の女性と重なるところがあるやも知れぬ。享楽的に生きるということは、人には理解してもらうことが難しいある種の孤独を背負って生きることではあるまいか。
 彼もまた、人間の実相を見続け、絶望という救済を経て、癒された側の人間なのだろうか?
 会話がとぎれた。わだかまった何ものかを吹っ切るように、三人は再び互いを狂おしくまさぐりあい、淫らな呻き声をあげ始めた。
肌と肌の接触。嬌声の響きは、これだけが実在なのだとの悲鳴にも聞こえて来る。

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