第一章 梟雄割拠<8>
奇岩が連なるカッパドキア地方、後年、メディアとリディアの国境となるハリュス川からほど遠からぬところに、シウスという都市がある。その近くの丘陵に囲まれた平原に、リディア王国軍とクレオン指揮下のメディア軍が対峙していた。
時は、紀元前五八五年、五月二十八日の明け方であった。先日来、集合しつつあった軍勢は両軍合わせて数万を数えている。本来ならば歴史に残る大会戦が行われても不思議ではないのだが、兵士の間にも今ひとつ緊張感が伺われない。
小高い丘の上に陣取った、クレオン将軍の野戦本部からは、平原の全貌を見渡すことができる。敵であるダイダロス陣営も、眩しい朝日を通して遙かに望める。
「将軍、やはりダイダロス王は、ギリシャの軍事顧問を雇ったと思われます。リディア軍の陣形はアカイアのテーベの影響が見て取れます」
エウピテスが、眼下の軍勢から目を離すことなく、クレオンに話しかけた。戦場にもかかわらず、ドレーパリー姿のままであった。足下は革のサンダル履きだ。
「なるほど、あの陣形は敵を包囲殲滅する構えであるな」
リディア軍は前列に弓箭隊を並べ、その背後に歩兵を配置している。左右両翼は騎兵、最後尾に槍部隊が整然と並んでいる。
二万を超えようかという、大編成であった。
床几に腰を下ろした、クレオンは伝説の朱の兜を被って、眼下の光景を睥睨している。革の胸当てを着けた姿は戦闘態勢にあることを窺わせる。
「将軍ならばどのように戦われますか」
エウピテスが爽やかに声を掛けた。
「敵の罠に乗ったようにみせ、中央突破を計る。そして・・・・・いや、今はここまでにしておこう。敵になるやも知れぬ御仁がおるでな」
「いやいや、わたくしごときは気にすることもございますまい」
メムノンが、右頬の傷を引きつらせ笑った。
「お主こそが、最も油断がならぬわ」
「将軍もお人が悪い。わたくしごときに何が分かるものですか。しかし、なるほどあれがテーベの陣形ですか」
「しっかり学んでおるではないか」
「いや、それは・・・・・ところで、ドリオス殿の姿が見えませぬが、どちらへおられるのですか」
メムノンは先ほど到着したばかりであった。それを聞くと、黙ってエウピテスが平原の一部を指さした。
騎兵の間を、縫うように駆けめぐる大きな馬と巨体が眼に入る。頭上に長槍を掲げた彼は、何か咆吼しているのかも知れない。彼が動くと人並みが崩れ、兵は道を空ける。
「勇者、いや彼こそ、戦の神と言うべきかも知れない。たった一騎で数千の敵陣に切り込み臆するところが全くない奴だ。味方にとってこれほど頼もしい男も居るまい。まったく呆れた奴ではあるがの」
「まったくでございます。まさに若い頃の将軍のようで」
「メムノンは儂の若い頃は知るまい。儂にはもう少し知性があったわ」
「そうでも、ございませんでしょう。パルコス閣下が申されておられました」
メムノンには珍しく悪戯っぽい眼をしている。
「おお、そう言えば、お主は閣下と面識があったのだな、うかつなことは申せぬわ」
「ふとした縁で、リディアの都、サルデスてお会いしたの初めです・・・・・しかし、あの、ドリオス殿の武者ぶりはたいしたものです」
「お主でもそう思うか。お主も武勇ではまず人に引けを取らぬと見えるが」
「正直申しまして、いささかの自惚れはございます。出会った中で兜を脱ぐのは、パルコス閣下、クレオン将軍、そして、ドリオス殿でしょうか」
「パルサではどうだ」
「パルサにはおりませぬ。新バビロニアにおいても出会ったことはございません。しかし、所詮個人の闘争技術など世を動かすことはかないません。むしろエウピテス殿の知謀の方が遙かに影響を及ぼすことでしょう」
「やっと、私の名が出て参りましたな。メムノン殿の言によれば、私は将軍よりもうえですか?」
エウピテスが明るく言葉を挟んだ。
「いや、そう言うわけではござらぬが」
メムノンが少し困った顔をした。
「二人とも、今日にも会戦が行われるかも知れぬのに、随分余裕があるではないか。エウピテス、お主が戦場に出て来たのは、初めてではなかったかな?」
「左様でございます。一度リディアの陣形を、この眼に焼き付けて於きたかったので、あえて出て参りました」
「お前らしいところは、その服装だな。女と会うときと同じ格好ではないか」
「他の格好をしたことがございません」
戦場の本営とは思えぬ、くだけた会話が交わされている。しかし、数万の人馬が会しているのである。地響きのような足音と、馬の鳴き声はやむこともなく一帯を覆っていた。
蹄の音が、本営の幕舎の前で止まった。地響きを立てて人が降り立つ音が響いた。幕舎の薄暗闇の中では、クレオンを中心に十数人が集合していた。第一軍管区の幹部である。
むろん、まったくこの場にはそぐわない格好をしたエウピテスの姿も見える。隅の方では部外者である、メムノンも控えていた。
「お主、待って居ったぞ、まあ掛けよ」
クレオンが席を勧めた。長槍はさすがに入り口の衛兵に渡したらしいが、殺気だった巨漢が皆の目の前に現れた。ドリオスであった。
「ハっ、失礼致す」
椅子が、悲鳴を上げるように軋んだ。さしもの豪傑もクレオンの眼光の前ではおとなしくなる。
「よいか、まもなく陽は天中に至るであろう。指示したごとく、焚き火は隊ごとに用意したであろうな」
この時点で、隊という編成は既に成立していた。以前であれば隊長とは、騎兵隊、歩兵隊の隊長を意味し、クレオン隊長はメディア国の騎兵隊の最高責任者を意味したが、いまでは、隊長は五百名の部下をもち、隊が十集まって、大隊となる。よって、大隊長は約五千人の部下を率いることになる。ドリオスは大隊長であった。古代ローマ帝国の軍編成上と比較すれば、メディアにおける大隊長は、ローマでは連隊長になり、同じく隊長が大隊長と称された。
「ハっ、用意できました」
「こちらもであります」
隊長が次々に返答する。
「よし、次は、松明を各陣営になるべく均等に配るのだぞ、二千本はある。太陽が欠け始めると、順番に松明に火を着け、高く掲げるのだ。そのうち太陽は隠れ闇に包まれる、決して驚き、慌てふためくことの無いよう徹底させるのだ。特に馬には注意しろ、手綱をゆるめず、興奮させるでないぞ」
「本当に闇に包まれるのですか」
首を傾げながら、不審がる者もいる。
「間違いございません。必ずや太陽は隠れ、暫くするとまたもとに戻ります」
エウピテスが自信ありげに答えた。
「たとえ間違おうと、用意に越したことはない。もし我らが知らず、リディア軍が承知しておった場合は、壊滅的敗北を被ることになる。逆も言えるのだが、おそらくそうはならず、互いに兵を引くことになろう」
「左様でございます。ダイダロス王は、オロデス閣下の依頼に沿えればよいだけですから、兵を引くはずです。そしてこちらも・・・・・」
「なっ、なんと! エウピテス殿は、リディア軍の出兵は、オロデス閣下の謀と申されるのか?」
「いかにも、口にこそ出さねど、皆様も十分そのことは想像しておられたと思います」
「うーん・・・・・」
この場の諸将にとっても、オロデスの陰謀ではないかと、予測はしていたはずである。いまや、大きく時代は動き出してしまった。この動きが止まるのは、何時で、どのような結果になるかの予測は、誰にもついていない。
「幕舎の裏に山と積まれた松明がある。すぐに皆に配るのだ」
「はっ!」
全員が頷き大きな声を発すると、それぞれ幕舎を後にした。
「おい、ドリオス! 浮かぬ顔をしておるな」
「いえ、そのようなことは・・・・・」
「案ずることはない、戦いは今後いやと言うほどしなければならなくなる。今は鋭気をやしなうのだぞ。わかったか!」
「はっ、承知致しました」
そう言うと、ドリオスは肩を落として幕舎を後にした。この男にとっては、戦闘の場こそ充実した時間であり、生命の輝きを感じられるとでも言うのであろうか。
昼を過ぎると、風が出てきて平原のあちらこちらで砂埃が立ち始めた。クレオンは戦場を見渡せる高台に床几を置き、腰を下ろしている。時々、朱の兜に手をやる他は大きな動きはない。
側に立つエウピテスのドレーパリーが、風を孕んではためく。メムノンは後方で腕を組んでいる。三人の背後を守るように、背後には数十名の衛兵が整列していた。
「将軍、まもなく、大自然の壮大なる演劇が始まります」
「演劇か・・・・・演者は、月と太陽であるか、なるほど壮大ではあるな」
「おそらく、生ある内に、二度と出くわすことは叶いません。メムノン殿の本拠地、パルサにおいても、太陽が欠けるところは見られようが、完全に隠れる皆既日食はこの地でしか見られませぬ」
エウピテスは、日食が起こることを露ほどにも疑っていないようだ。
上空はかなり風が強いのだろう、白い雲がちぎれるように流れていく。大気も異変の予兆を、感じているのだろうか。
所定の場所に配置されている馬も、異変を感じてか嘶きの響きが、高台まで聞こえてくる。密集する兵士も何となく落ち着きが無く、ざわめいていた。
再三にわたって、説明を受けているであろう兵士だが、論理的にはむろん、感覚的に信じられず『まさか、そのようなことが』と思うのも無理はない。
迷いが生じた兵士は、厳しい軍規によって方向付けをしなければ、烏合の衆になってしまうことを、クレオンは骨の髄から承知している。
わずかに太陽が欠けてきた。兵士の一部は気づいたようだ。晴天の青空にある陽が、徐々に欠けていく。高台の三人は、片手を陽にかざしわずかな指の間から太陽を見る。背後の衛兵も習うように同じ動作を始めた。
クレオンの背後から、抑えたどよめきが伝わってくる。馬の様子も普通ではなく、落ち着きがない。
「来た、本当だった!」
「だっ、大丈夫だろうな!」
「大丈夫、エウピテス様の言うとおりだ!」
悲鳴にまがうべき声が衛兵の間に巻き起こった。平原に陣を取る兵士の間でも、同じ事態になって居るであろう。高台から眺めていても、ざわめきが感ぜられる。リディア軍も浮き足立ち、そわそわと落ち着かないようだ。
陽が欠けるのは意外に早い。曇り空から夕暮れになっていく、松明の光が輝き出す。暗くなる平原に、松明の数がみるみる増してくる。空は更に暗くなる。
リディア軍の篝火の炎が微かに見える。暗くなるに従い、数百の炎が赤く燃える色を鮮やかにしていく。皆既日食を承知した準備のたまものだろう。
メディア軍の松明も鮮明に小さな光を映し出す。千本という松明が揺れているのだ。兵士の抑えたざわめきと、怯えた馬の嘶きが暗くなった平原を覆っていく。
太陽が月の影に完全に入ってしまった。黒い大きな月が微かに漏れる太陽光でその輪郭を明らかにした。高台に陣取る、クレオンをはじめ全員が呆然として、黒い月を見続けていた。
さらに風が強く吹きだした。篝火に照らし出された、エウピテスの顔面が蒼白になっている。戦場には適していないドレーパリーが風を孕んでたなびく。彼の腕と胸、そして足下がはだけ、鳥肌が立っているのが分かる。
エウピテスの心は動揺しているように見える。論理的には誰よりも納得していても、彼の深層の横たわる感性は、知性を追いやり、身体に噴出しているのだろう。
数時間後、両軍は虚脱感に襲われたように、平原に佇んでいた。陽は元のように天にあり、何ごともなかったごとくに大地を照らしている。知識としては知り、想像もしていたが、繰り広げられた大自然の奏でる演劇は、皆を圧倒してしまっていた。
リディア軍から、騎馬が数頭武器を持たずに、メディア軍に向かって駆けてきた。迎え撃つようにメディア軍からも、三人の騎馬兵が駆けだした。休戦、和平の合図のしきたりである。
「将軍、さあ次は撤収の作戦に移らねばなりませぬ。お互いに背後を突かれてはひとたまりもありませぬから」
日食の余韻が醒めたかのごとくに、エウピテスが言った。不思議なことに、吹き荒れた風も次第に収まってきた。
「戦をせずに兵を引く、これもなかなか面白いものではあるのう。殿軍はドリオスだな。ところでメムノン、貴殿はこれからどうするのだ」
殿軍の指揮官は、最もすぐれた者であり、兵士は精鋭を当てねばならない。
「クレオン将軍、自分はこれより、ダマスカスに行き、さらにバビロンに参ろうと思います」
「バビロンはネブガドネザル王の統治下、殷賑を極めているかのごとく、聞きおよんでおるが?」
「さようでございます。経済的な富貴は他と比べようもございません。古バビロニア王国の富を遙かに凌ぐと言われております」
クレオンとキュロス王子とは、同盟に近い関係にあるが、それぞれ各地に、謀略要員を送り込んで情報を集めている。クレオンの配下にはその要員は数百人はいる。したがって、近隣の情報はメムノンに聞くまでもなく熟知している。
ナボポラッサール王は新バビロニア建国の英雄である。アッシリア帝国のくびきから独立を勝ち得たばかりでなく、メディアのパルコスと手を組みアッシリア帝国をほろぼしたのだ。彼の死後王国を受け継いだ、息子ネブガドネザル二世もまた、英傑の誉れ高く、その統治下、首都バビロンは、オリエント世界随一の繁栄を謳歌していた。
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