ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第一章 梟雄割拠<9> 


 メムノンは、ダマスカスの中心部に近い、二階建ての酒場のベランダに腰を下ろし、雑踏を見下ろしていた。人群れを注意しながら、荷馬車がラクダが途切れることなく通りを行き交う。リディアとメディアが対峙したカッパドキアの平原の戦場からは、隊商路を利用した七日間の旅程であった。
「約束の時間まで、まだ暫く間があるな・・・・・」
ぼそりとつぶやくと彼は、葡萄酒の満たされた酒杯を傾けた。ここで配下の者と落ち合う約束になっていたが、刻限はまだきておらず一人でたたずんでいるのだ。
 メムノンは、クレオン将軍の面影をたどっていた。将軍は彼に畏敬の念と、親近感を感じさせる存在であった。命を落としていった仲間の匂いを感ずるのだった。

(出自が似ているせいかもしれぬ・・・・・。将軍も俺も父母の顔を知らない。将軍は少年の頃、エクバタナの街角でパルコス閣下に拾われ、親衛隊の雑用係として世話を受けたと聞いた。俺も同じように、パルサでカンピュセス王に拾われた。最初は騎馬隊の馬の世話係だったが、とても馬には触らせて貰えず、毎日毎日、飼い葉と糞の始末をしていたものだ。そして、同じ境遇の少年が多くいた。先輩もいた、後輩もいた。強い絆で繋がれた連帯感が我々の間にあった。我々はその集団にのみ属していた。唯一の世界であった。戦士として鍛えられた俺は戦場で戦った。同じ年代で生き残っている者は誰もいない。命令は絶対であり、黙って従うように骨の髄まで仕込まれた。今でもそうである。俺の人生はキュロス王子について行くことしか考えられない。クレオン将軍はどうなのだろうか? パルコス閣下が亡くなられたときは? 今の将軍にとって望みとは何であろうか? 将軍は表の世界で輝いており、雷名はオリエント世界に轟いている。一方の俺は、知る人ぞ知る裏の世界の住人である・・・・・あ! そうだ、家族を持たないのも共通点だ。将軍は考えあって家族を持たないのだろうか? それとも俺と同じく持てない・・・・・)

 メムノン、クレオンのように孤児を拾いあげ、戦士として育て上げる制度は、この当時どの国の軍隊でも行われていたことであった。彼らは、雑用をしながら組織になじんでいく。外部からは孤絶した閉鎖社会を形成していた。
 命令への絶対服従を強いられ、叩き込まれた。それゆえ、仲間内の連帯感は異常なほどに強かった。他の世界を知らない身よりのない孤児が、戦闘集団として日々命を賭して戦っているのだ。その絆の強さは尋常ではなかった。そして、彼らは四十歳前にはほとんどが死んでいった。
「メムノン様・・・・・」
 おそるおそると言う感じで声が掛かった。メムノンは声を掛けづらい雰囲気で考え事をしていたのだろう。
「おお、来たか」
「お待たせ致しました」
 いつしか刻限になっていた。四人の男がひかえている。二十歳代の若者から、六十代の老人もいた。服装は砂漠を渡る隊商隊のものだ。ザックリ着込んだ貫頭衣の背にはフードが垂れ下がっている。
「おお、まあ座れ、そちらの台もこちらに付けろ。狭いベランダだ、他の人間は入って来られないから丁度いい」
 店員は追加注文された、葡萄酒の壺を台の上に置くと下がっていった。懐かしそうな顔をして五人の男は葡萄酒を飲み始めた。
「まあ、報告は一息入れてからでよい。しかし、このダマスカスは、いつ来ても活気ある都市だ」
「左様でございます。何と言っても、アラム人の本拠地でございますから」
 アラム人は紀元前十一世紀、こつ然とシリア高原に現れた。ラクダの遊牧という革命的な技術を伴って。それ以前は、ラクダの遊牧など考えられもしなかった。
 ラクダは、砂漠、ステップを踏破するには最適な交通手段であった。それ以後、オリエント世界の隊商交易はアラム人に負うところが大きく、隊商路はアナトリア、バビロニア、エジプト、ペルシャ高原のはてにまで張り巡らされている。

「メムノン様、各地に張り巡らされたアラム人の情報網は、凄いものがあります。本来は交易上の情報ですが、パルコス閣下の死去の情報など、メディア国の駅伝による伝達よりも早かったといわれております。まったく考えられないことですが」
「俺もそのことは十分に承知しておる。キュロス王子が、アラム人に意を尽くす優遇するのは間違いないわけだ。おまえたちに言っておく、情報収集の為にもっとも必要なことは、相手に情報を与えることだ、十分腹に収めておけ」
「では、秘密を教えるのですか?」
「そうだ」
「でもそれでは、敵にも情報が漏れることにも・・・・・?」
「その辺の判断が、良き密偵かどうかの分かれ道になる。心しておけ。そして同じ事は手下の者に対するときも言えることだ」
 メムノンは自戒するように言っている。そして、この場に会する四人も、それぞれ十人以上の手下を持っている。

「誰か、この中でアルム人について、簡単に説明してくれぬか」
「はっ、ではアラム人である、自分がさせて頂きます」
 年の頃は、四十に近いだろう。黒い髪に、知性的な黒い眼の男が手を挙げた。
「ご存じのように、アラム人は商業の民であります。この地に本拠を構えてずいぶんになり、莫大な富は蓄えておりますが、領土的な野心を持ったことはありません。各地の物産を移動させ、自由に動き回ることを好みます。よって、大きな権力も望まず、貴族の合議制による都市国家の形態を取っております」
「その最大のものが、このダマスカスであるのか」
「さようでございます。ダマスカスこそ、アラム人にとっての、人と情報の集中するところで、かけがえのないところであります。エジプト、メディアの内情はその地よりも、ダマスカスの方がはるかに解ります。よって、新バビロニア王国をはじめ、各大国はアラムの商圏を利用することにその価値を見いだしておるのでしょう。したがいまして、新バビロニア王国の属領であり自治を与えられていることに、アラム人は満足をし、商業に精を出しております」
「一度も、国家を形成したことがないというのか?」
「いえ、以前、このダマスカスを忠心に王国を打ち立てた事もございますが、アッシリアに滅ぼされてしまいました。以来、王国は成立したことが無く、以前の王国も国家連合というものでした」
「なるほど、隣のフェニキアが地中海交易を支配し、合議制による自治を行って居るものの、地上版というわけか」
「さようでございます」
アラム人は交易とともに、文化の伝搬者の役を担っていた。バビロニア、ペルシャの文化を西方に伝え、ギリシャの文化を東方に伝えた。後に成立する、アケメネス朝ペルシャにおいては、ペルシャ語と共に公用語とされた。

「次ぎに、カナンの地はどうなのだ」
「それについては、わたくしめが」
 六十を過ぎた老人が、ポツリと発言をした。
「ハビル人の生業は、もともと砂漠でロバを扱う隊商でした。また、定住地に侵入する盗賊か略奪者でした。その彼らが、カナンの地にて定住し農業を始めたのです。何故あのような痩せた大地に定住したのかは、他の肥沃な土地を占拠する力が無かったからです」
「ハビル人とは、あまり聞かぬ民族だな」
 メムノンもハビル人に対する知識は無いようだ。
「定住してからは、ヘブライ人と称しております」
「おお、ヘブライ人なら知っておる」
「ヘブライ人は、アラム人のような得手とするものもなく、民族の力も弱い。しかも、痩せた土地で農業を生業としたため、領土的野心は強いものがあります。以前に、ダビデ・ソロモン時代に領土を拡げたこともございますが、しょせんそれを基盤とする経済力がなく、すぐに潰えてしました。さらに、不幸なことにカナンの地は強国、以前のアナトリアのヒッタイトを含め、メソポタニアとエジプトを繋ぐ回廊に位置しているのです。常に両勢力の狭間に置かれ、翻弄され続けた歴史を持ち、現在もそれは変わりません」
「おぬし、もしかしてヘブライ人ではないのか?」
「メムノン様、その通りでございます。ヘブライ人の悲しさと狡さを、身をもって感じております」
「つらいかも知れぬが、もう少し続けてはくれぬか」
「メムノン様、そのつもりでございます。もう少し話させて下さい。貴方ほどの方を、これほどにまで心服させた、キュロス王子になにやら微かな光明を見いだしたいのです。遙かに遠くですが・・・・・」
 老人の眼は微かに潤んでいるようだった。後年、老人の希望は叶うことになる。キュロス大王は、バビロンを攻略したとき、ヘブライ人捕囚の前に、解放者、救世主として出現するのだった。
「自治州として、どちらかの勢力に組みするのが良いか、これが生死を決めると言っても過言ではありません。普遍の巨大勢力があればよろしいのですが、そう言うわけにはまいりません。一方が強くなればそちらに、もう一方が強くならば・・・・・これの繰り返しでした。地政学的にそうならざるを得ないのです。そして、それは我ら民族の内部を分断してしまい、内紛が絶えることはございません。痩せた土地にへばりつくように生きるヘブライ人。我らの民族を消滅させることなく、連帯感を持つために我らは一つのものを持ちました。それは『神』です。それによって我らはヘブライ人であり続けることができました。しかし『神』を得たことはさらなる不幸の始まりでした」
「信ずるものができたことが、不幸を呼んだと申すのか」
「そう言う見方も出来るということです。私もヤハウェの信者でありますが、ヘブライ人はむしろ、他民族の中に混じり込み、民族としては消滅した方が幸せだったと思うことが、しばしばございます。さきほど申しました、我らがハビル人であったころ、各地を転々とする集団でございました。そのとき、エジプトにてアナクトン王の宗教改革の影響を受け、唯一神、創造神を知りました。我らはヤハウェの神を創造したのです。カナンの地はもともと多神教の世界でしたが、度重なる悲劇の度にヤハウェの信仰が浸透していきました。そう、悲劇と殺戮のたびにです。瓦礫の荒野を、祈りを捧げながら種を蒔き、わずかな実りに生命を繋いだのです。信仰こそが救いでした。現実からの逃避できるすべでした」
「信仰とは、それほど強いものなのか?」
 クレオンをはじめ、席に座ったもの達は、老人の口からほとばしり出る言葉に聞き入っていた。
「そうです、これほど強いものはございません。とくにヤハウェの信仰についてはそれがいえます。ヘブライの民は信仰を捨てて生きることは出来ません。そして、信仰を捨てない限り悲劇の終わることはないでありましょう。永遠に・・・・・」

「お前の話で、カナンの歴史についてある程度知ることが出来た。しかし、疑問がある。お前は、ヤハウェの信者と申したが、俺にはそのようには思えない」
「メムノン様の申されることはよく分かります。あるいは私は純粋なヤハウェ信者とは申されぬかも知れません。しかし、私のような考えを持つ者も少なからずおります。敬虔な信者の中にです。神とも距離を置いた分析的考え方は、ギリシャ的かも知れませぬ。でも、私は、カナンを、ヘブライの民を愛して居るのでございます。ヤハウェの神学自体のなかに、私には理解することが難しい、難解な分析的論理体系もあるのでございます」
「辛いであろうが、昨年のエルサレムの攻城戦で、都は完全に破壊されたと聞いておるが、話してはくれぬか」
「その通りでございます。エルサレムの都は廃墟となりました。エジプトの庇護をもとめ、また時には新バビロニアにくみしておりましたが、ついにネブガドネザル二世の怒りを買い新バビロニア軍に席巻されたのでございます。カナンの地は貧しく収奪する物もすくないからという見込みのうえに、あぐらをかいていたのかも知れません。新バビロニアは二十万の大軍で攻め立てたのです。そして、彼らが得たものは、五万の捕囚です」
「捕囚とは、奴隷ではないのか?」
「奴隷に近いかも知れませぬが、バビロンの隔離された指定の地域の中では、あくまでも自由人です。宮殿、建造物の造成、その他生活用品の製造などを担当する作業員として遇されております。自らの神殿を建てることは認められませんが、信仰は黙認されています。ヘブライの民は、ますます信仰に拠り所を持たざるを得ません。悲劇もまた続いていきます、信仰の続く限り・・・・・」
 この三年後、紀元前五八二年にもまた、新バビロニア王国により、カナンの地は壊滅的打撃を受けることになる。

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