ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第一章 梟雄割拠<11> 


 キュロスが馬上の人となった。むろん体つきが変わるわけではないが、まるで別人の雰囲気を醸し出した。眼光鋭く前方を見つめ、手綱を引き絞る。馬が嘶き、両前足を高く掲げ棹立ちになる。ケペウスとコカロスの顔に緊張の色が走った。
 ケペウスが自慢の強弓で鏑矢を放った。戦闘開始の合図だ。
 戦場に風が舞っている。短槍を小脇に抱えると、キュロスは一気に駆けだした。遅れじと左右を挟むように、二人が従う。左翼の騎兵五百の隊列が崩れ出す。先頭の三人は、槍の穂先のように城門に向かう。騎馬隊が遅れじと後を追って駆け出す。砂塵の中、さらに、蹄が砂煙を挙げる。
 右翼の騎兵も、正面の歩兵も動かない。ただ弓箭隊だけは、騎馬隊を援護をするようにいっせいに矢を放つ。
すべてがキュロスの指示通りだ。敵の前面を攪乱するのは、左翼の騎兵、すなわちキュロス自身なのだ。

 キュロスは手綱を緩め、前傾姿勢になりながら駆け続ける。首に絡んだ、黄色いクラミスが風を孕んで、狂ったようにたなびく。敵の城壁の上から放つ矢が足下に落ちる。そのうち、耳の側を矢が掠めるようになった。
キュロスは薄い唇の端を吊り上げ、不気味な笑みを漏らす。まるで、弓矢の穿たれるのを望むように、敵に突っ込んでいく。ケペウスとコロカスに取っては無謀としか思えないことだろう。どのように考えようと、最高指揮官が攪乱戦の最前列にたつ必要は全くないのだ。

 キュロスの身体で血がたぎっている。耳元でヒューヒュー、矢の風切り音が唸りをたていく。背筋から熱いものが細胞の端にまで伝わっていく。心は軽い。羽のついた心は、何処までも広がっていくようだ。矢が腕を掠めた。ひやりとした感覚がある。(傷ついたな!)またもや笑みが漏れた。
 城壁がぐんぐん近づいてくる。視界を砂埃がさえぎるが、キュロスは馬の速度をゆるめない。十メートルの高さはゆうにある日干し煉瓦を重ねた城壁の繋ぎ目が見えだした。弓矢はあたかも、キュロスの肩掛け、クラミスを狙うかのように雨のごとく降り注ぐ。
 ケペウスとコカロスが、長槍と長柄の長刀で、彼の頭上を犯す矢を必死に払ってくれる。馬上に踊る蒼と黄と黒の色彩が、戦場を駆け抜ける。後続の騎兵は少し遅れながらも必死に後に続く。

 矢がキュロスの胸を掠める。兜の端にあたる。突然、馬が棹立ちになり悲鳴をあげた。馬の臀部を矢が射たらしい。
 その時、キュロスは何とも言えぬ浮遊感を覚えた。まわりの景色がスローモーションのように、移り変わる。自分の身体が落ちていく。ゆっくりと奈落の底へと。胸は高鳴り、なんと恍惚とした感覚が、身体中に拡がるではないか。意識が遠のいていく。
 気が付いた時には、太い、がっしりしたものに掴まれ、抱え上げられていた。ケペウスの腕だ! 身体の自由が利かない。手足は動く。キュロスの身体は二つ折りになって小脇に抱きかかえられていた。
(そうか、落馬したんだ! 頬に砂がこびりついている)
「王子!」
「コカロス、王子は大丈夫だ!」
「解った! このまま行くぞ」
「おお!」
 うつつの状態で、キュロスは二人の会話を聞いている。コカロスは先頭を駆け続ける。ケペウスが、華奢なキュロスの身体を小脇に抱え、その後を追う。
 城の城門の前を通過した。頭が下になった体勢のまま、キュロスの紅褐色の眼球は、後続の騎馬兵が、もうもうと砂塵をたてて後を追って来るのを映していた。
 しばらくたつと、右側を騎馬隊が反対側に駆け抜けていくのにすれ違った。左翼の騎兵が城門を通過するのを合図に、右翼の騎兵が反対側から行動を起こしたのだ。右翼の騎兵は、それぞれ馬の鞍に、紐で木の枝を結わえ、引きずりながら走る。砂塵はさらに舞い上がり、視界をさえぎる。
 正面で対峙している味方の前衛も、この間に城門に迫ったはずだ。そして、歩兵に警護された工兵隊も前に押し出す。
(すべては、予定通りにいっている。あとは工兵隊の働きを見てみよう)
 キュロスの明晰な思考は元に戻った。ただ、二つ折りに抱きかかえられているのだけが予定外であった。

 巨大な弓から火矢が次々に打ち出された。城内の方々から煙が上がり始めた。台車の乗せられた巨大な丸太の激突に、城門が鈍い音をあげる。軋み音を挙げていた城門が破壊されるまでに、それほど時間を必要とはしなかった。
 城内の兵士の気持ちが、キュロスには手に取るように解る気がする。彼は、新たな馬に乗り換えて騎馬隊の先頭に位置していたが、城門の破壊とともに一気に駈け出した。ケペウスとコカロスが後に続いた。
 小振りの台車が連なって、岩と土を運んでいる。三カ所で、城壁を乗り越えるスロープがもうすぐ出来あがりそうである。
 敵の兵士が、武器を捨て両手をあげて、徒歩で城門から出てきた。降伏してきたのだ。キュロスが頭上に手をかざすと、太鼓の音が戦場に二度鳴り渡った。戦闘中止の合図だった。

「ケペウス、コカロス、後の始末はいつもの通りだ」
「はっ、城内に入城したあとの略奪は、絶対禁止であるむね、兵士に厳命致します」
 ケペウスが返答をしたことは、キュロスの軍隊においては当たり前のことであったが、この当時の戦闘のありかたからすれば非常識なことであった。城を落とした兵士が占領した城内において、殺戮、略奪、強姦するのは極めて自然の行為であり、それは兵に対する報償であったのだ。
 キュロスの軍隊では、これをきつく戒めた。最初の頃は、たかをくくり禁を破る兵士が続出した。その彼らを、キュロスは占領した城内の広場で、容赦なく首をはねた。百人を超えることもあったが、彼は躊躇しなかった。
「近頃は、王子の威令が行き届き、略奪を行う兵士はほとんど居なくなりました」
「そうか、ではあえて用意する必要がある」
「はっ、・・・・・?」
 ケペウスは瞬間、キュロスの言葉が理解できなかった。
「兵士の中から適当に罪人をでっち上げ、首を刎ねるのだ。まだしばらくは、その行為を続けねばならぬ」
 キュロスは穏やかな顔で言い放った。ケペウスとコカロスの表情は引き吊った。
「城内の指導者の首を数個刎ねよ。しかし、その妻子は鄭重にあつかえ。治安の維持については彼らに任せよ。この方針は今まで通り変更はない。ケペウス、コカロス、この策略を続ける限り、我らの侵略はますます容易になって行くことであろう」

 キュロスの軍隊は略奪を決して行わず、治安の維持、風俗習慣に手を出すことがないという噂は、カルマニア地方一帯に広まっていた。それは、攻撃した城塞が降参するのをうながす、強力な後押しになった。
 馬上のキュロスは、その紅く見える褐色の瞳で、遠くを見つめている。黄色いクラミスと、蒼いチュニックが時に突風に煽られ、ひるがえった。
彼の眼は、城塞の背後に拡がる、赤茶けた果てのない大地を見据えていた。

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