ガンジス河のほとり

「維摩詰(ユイマキツ)外伝」


第二部 ステップ平原





 第一章 梟雄割拠<12> 


 「グライコス様、報告によりますとキュロス王子は、攻城の新たな部隊を編成し成功したとの報告がございました。工兵隊と名付けられ、土木建築を専ら行う部隊のようであります」
「さようか、次は輜重隊について学ばねばならぬだろう」
 パルサの城壁の中だった。城壁は、次第に外に発展し、三重にもなっている。既に巨大な都市になろうとしていた。ここは、カンピュセス王の支配する王都である。
 カンピュセス王の統治は極めて上手くいっている。彼は内政に力を注ぎ、豊かな富と、精強な軍隊を生み出していた。その国力は、大国メディアも無視することの出来ぬ勢力になっていた。カンピュセスは后に、メディア王キュアクサレスの娘を迎えた。その娘こそ、キュロスの母、マンダネであった。

 先ほどから、一軒の民家の中で二人の男が話をしていた。一人はネストルであった。彼がこの地に赴任して何年になるであろうか、相変わらず端正な顔に、口髭を蓄えていた。時の流れは、ヤクシーとの間に、二人の娘を持つ父親に彼をしていた。
 ネストルがグライコス様と呼びかけたのは、年齢の想像も付かない老人であった。七十と言えばそのように思える。九十と言えばなるほどと思う。白髪の頭髪は、腹部にまで垂れ下がり、顎髭との区別がつかない。白っぽく濁った眼は、視力を疑うほどであった。

「ここのところ、王子の日常は戦闘に明け暮れておりますが。いかように思われますか?」「これは、ネストル殿ともあろうお方がされる質問とも思えぬ」
「からかわれては困ります。たしかに自分はパルコス閣下の薫陶を受けましたが、軍人の才は無いように思っております。ましてや、グライコス様を前に致しましては」
「貴殿に軍人の才が無いとは思わぬ。しかし、貴殿の才はむしろ、まつりごとに用いるべきであろう。キュロス王子は、以前は旅に明け暮れた、今は戦に明け暮れている。王子は必ずや大業を成し遂げるであろう。それは、生まれ持った資質というもので、努力して手に入れられるものではない。なにしろ、この儂を現世に引き戻したのだからな」

 グライコスがキュロスの再三による要請をうけ、パルサの地を踏んだのは一年前のことであった。キュロスがグライコスの存在を知ったのは、メムノンの情報網のなせる技であった。
 グライコスはアッシリア帝国最盛期の偉大なアッシュル・ハンバル皇帝の軍師であった。知謀神をも凌ぐとすら言われたほどである。その彼が、ハンバル皇帝の死とともに忽然と姿を消したのだ。アッシリアを挙げての捜索にもかかわらず、ようとして行方が掴めなかった。まるで皇帝の死後の十五年間の内乱をあたかも予期したかのように。
 彼の隠遁場所をメムノンが掴んだのは、ほとんど偶然であった。知らせを聞いたキュロスは、隠遁場所のカッパドキアにすぐに向かった。
 キュロスは礼を尽くして、グライコスに招聘のことを懇願した。数ヶ月におよぶ懇願であった。グライコスはかき口説くキュロスに、今は亡きハンバル皇帝の面影を見たのかも知れない。遂に極秘の内にパルサに移ることを承諾した。

「キュロス王子は、今、貴重な体験をしている。机上で儂の戦術論を聞いたところで実際に用いることは不可能だ。軍を動かすには骨身に染み、血肉となった体験をすることが不可欠である。刃に、弓矢に身を晒す必要がある。恐怖を覚え、身体が畏縮するのも知る必要がある。そして、恐怖を突き抜けたところに広がる、狂気と快感を含めてすべてを体験せねばならぬ」
「狂気と快感・・・・・」
「ネストル殿は当然ご存じでおられよう」
 ネストルの脳裏に、ニネベの都の攻城戦の思いがよぎったのだろうか。
「はっ、確かに。恍惚とい言おうか、心の高揚はございました。しかし、言葉にて聞いたのは、今が初めてです。言葉にて表現出来ないものは存在しない・・・・・」
「ほぅ、イオニア学派ですかな」
「これは、お恥ずかしいところをお聞かせ致しました」
「こちらこそ、失礼致した。いずれにせよ、最前線の兵士の気持ちが解らぬものには、軍団の指揮はまかせられぬ。それは、兵士を甘やかすと言うことではない。限界まで鍛え抜き、危機にさらすことを意味する。それによってこそ、兵士の生命が守られることもあろう」
「軍師にも体験は不可欠でしょうか?」
「あった方がよいが、軍師の命は、論理である。水も漏らさぬ精密な分析である」
「そして、現実の戦闘に当たっては、出たとこ勝負ですか」
「さすがは、ネストル殿。パルコス将軍の懐刀だけのことはある。ぎりぎりに煮詰めた作戦を頭に叩き込む。そして、いざ戦闘となるとすべてを忘れて状況に対応する。貴殿の言うとおり、出たとこ勝負である」
 グライコスとクレオンの会話は続いていく。グライコスの望んだパルサでの住まい、質素な民家の一室であった。



 新バビロニア王国の首都バビロンはこの当時、ペルシャ湾と地中海の海路、そしてメソポタミア地方を結ぶ陸路交易の中継点であり、世界最大の人口を擁する都市として、栄華を誇っていた。
 これほどの都市の出現は、世界史をひもといても六百年後まで待たねばならない。すなわち、それは最盛期のローマ帝国の都、ローマとビザンチウム(コンスタンチノポリス)である。
 バビロンの中央をユーフラテス川が流れており、川を挟んで西側が新市、東側が旧市と呼ばれていた。旧市のさらに外側に長大なネブガドネザルの城壁が築かれ、バビロンはさらに倍近くの新市街を有することになった。城壁の高さは三十メートル、総延長は六十キロメートルとも推測されている。

「おおっ、久しぶりだが、元気だったか!」
 バビロン城内、ユーフラテス川の東岸、旧市内の石畳の路上であった。この街の街路はすべて石畳が敷かれている。しかも主要な街路は道幅が広く、物資を運ぶ馬車、四頭立ての戦車が、十輌平行して走れるほどであった。
 頭に布を巻いた、精悍な四十過ぎの男が、大声を挙げた。髭を蓄え、赤銅色に日焼けした顔から、白い歯がのぞいている。褐色の瞳が優しそうに青年を見つめた。
「デモレオン様もお元気そうで何よりです」
 強い日射しを避けるように、深めに布を被った二十代半ばの青年が、頭を下げると、デモレオンと呼びかけた男に駆け寄った。手を取り、懐かしそうに見つめる青年の碧眼には、旅の疲れもものともしない、活力が溢れていた。
「おい、アイアコス、儂はお前の主人ではないぞ、『様』は照れるじゃないか」 
「いえ、いいんです。貴方は私の師匠ですから、そう呼ばせて下さい」
「そうか、そう思うならそれでいいが、また会えるとは嬉しい限りだ。儂も東方のバクトリアまで脚を伸ばして商売をし、先月この街に来たところだ。カルタゴ商人が来るという噂を聞きもしやと思って待っていたんだ」
「私も、楽しみにしてました。アラム人のデモレオン様と言えば、交易をする人間にとっては、調べればすぐに所在が掴めるのですから、苦労はありません。デモレオン様が、バビロンに居られる事は解っていましたよ」
「ほんとに久しぶりだ、まあ宮殿まで歩いて見ようじゃないか。しかし、来るたびにこの街には驚かされてしまうわい。建物が増え、新しい城壁も出来ている」
「まったくそうです。新城塞の最北部のユーフラテス河畔には新しい美麗な夏宮殿が新築されたばかりです」
「夏宮殿を見たのか」
「見ました、その近くに私どもの隊商が寄留しております」
「そうか、儂の方は、新城塞の南側だ・・・・・おい、あれを見てみろ」
 デモレオンは指さした。その先には巨大な塔が築かれつつあった。バビロニアには二百を越える尖塔があったが、その塔はあまりに巨大だった。南門から王宮へと向かう大路の側にその塔はあった。 

「な、何ですか、あの巨大な建物は」
「エテメンキのジッグラト、通称、バベルの塔と言うそうだ」
「バベルの塔ですか・・・・・凄いものですね。完成したらどの位の高さになるんでしょうか」
 アイアコスは、塔を仰ぎ見ている。
「人は、権勢を得ると、例外なく巨大な建造物を造りたがる。信仰のためじゃなくて、ネブガドネザル二世は、自らの権威を誇るためにこの塔を建造しているのだろう。アイアコス、お前はエジプトを知っているだろ」
「はい、こちらに来る前は、エジプト王国の都、サイスにて商売をしてまいりました」
「サイスから、ナイル川を遡ったギザというところに、複数の巨大な建造物が砂に埋もれるように建っている。あれもまた、今を遡ること数千年昔の、誰からも知られることのない王権の象徴だろう。このバビロニアもいつかは砂に埋もれてしまうのだろうな」
「この街が砂に埋もれる。そんなことが、あるのでしょうか?」
「間違いなくある。いずれは、サイス、スーサ、エクバタナも砂に埋もれるだろう。そして、また新たな、都市が繁栄する。アイアコス、お前の故郷のクレタ島もそうだったろう」
「クレタには、確かに宮殿の廃墟があります。遠い遠い昔に繁栄をしていた聞いてもおります」
「領地を治めることもなく、国も必要としない我々商人は、何を目的として隊商を組んでいると思う?」
「そのことは、我らが主人、ペリウスから聞いております」
「ほぅー、カルタゴきっての豪商であり、貴族でもあられるペリウス様は、どのように申しておられたかな」
「はい、商売は人を自由にするのが目的だと申されました」 
「人を自由にするか?」
「そうです、必要なところに必要な物と人を運び、人々の欲するものを提供する。物資と人の移動は、知識とともに、人に自由を運んでいるのだと何度も申され、口調まで覚えてしまいました」
「ペリウス様・・・・・偉大な先輩だな、アイアコスは良い主人をもって、幸せだな。私も以前、ペリウス様には世話になった。メディア王国の執政官アリウス様宛の紹介状を頂き、エクバタナの宮殿でお会いしたことがある。おかげで、私の商圏はバクトリアにまで延びることが出来た」
 ペリウスとは、ミレトスの波止場で毎日のように少年のアリウスと語らっていた、あのペリウスであった。彼はカルタゴに帰国後、有力者を糾合し指導力を発揮して、フェニキアの植民地であったカルタゴを独立させ、サルジニア島、コルシカ島、シシリア島の西半分を植民地として開発の途上にあった。 
 さらに、ペリウスの商圏は、イベリア半島から、ジブラルタル海峡を越え、大西洋にも延びている。

「おい、ちょっと避けよう。邪魔になってはまずい」
 そう言うと、デモレオンはアイアコスの手を引き、道の端に導いた。街路を埋めた人々も道の端に移動した。
「あっ、あれは!」
「ネブガドネザル二世の親衛隊だ」
 騎馬の軍人が、行進してくる。長槍を立て、深めに被った兜には鳥の羽が付けられ、革製の胸当ての下には緋色の衣服を着けている。何百という騎馬隊の行進は石畳に響き、威圧的な音をたてる。
「どのぐらいの数でしょう」
「五百騎は間違いないだろう」
「歩兵も続いてきますよ」
 歩兵の行進は、途切れることもなく延々と続いていく。
「二千人はいるな」
「何事でしょう?」
「毎日、決まった行進だよ。親衛隊は一万五千人、治安だけを担当する警務隊が一万人、その他に城内には、四万人の守備隊が常時駐留していると聞いている。新バビロニア王国全体の軍人動員力は百万人になるそうだ」
 長い隊列は王宮の門内に消えていく。

「アイアコスあれが王宮だ、いつ見ても、まったく素晴らしい建物だな」
「デモレオン様、あの空中庭園は以前とは、少し変わった感じが致しますが」
「全体を、最高級の白い大理石で化粧をしたんだ。我々の足下の広場も大理石で敷き詰めるようだぞ、ほれ、あそこで工事をしている。職人の大多数が、エルサレムから連れてこられた、捕囚だ。その為にエルサレムを攻略したというバカな噂もあるが・・・・・」
「いったい、この国にはどの位の富があるのでしょうか」
「膨大な富が集まっていることだろう。そして、それを生み出しているのが我々と言うことかもしれない」
「あの、空中庭園はネブガドネザル二世が、愛する王妃アミテスの寂しさを慰めようと造られたそうだと聞いておりますが」
「俺もそのように聞いた。王妃は故郷のメディアの緑豊かな野山が忘れられず、寂しい思いをなさってたのを見かねて庭園を造られたということだ」
 王妃アミテスはメディア王、キユアクサレスの三女である。次女はリディア王ダイダロスの嫁いでおり、長女がキュロスの母親マンダネである。
 メディア王子、アステュアゲスは、ダイダロスと側室の間に出来た王女を、嫁にしている。この極端な政略結婚政策を遂行したのは、メディア国執政官のオロデスとフラーテスであった。
「アイアコス、あの空中庭園は、七段になっていて一年中花が咲いていると言われているが、どうやって一番上まで水を運ぶか分かるか」
「水を汲んで、桶で運ぶんじゃないんですか」
「あんな広い庭園に、桶で水を運ぶとしたなら、運搬人が数珠繋ぎになろだろう。いま、水を運ぶ人足が見えるか」
「確かに見あたりませんね。デモレオン様、ではどうやって水をやるのでしょうか」
「俺にも分からん」
「えっ」
「どうなっているんだろうな?」
 アイアコスは、デモレオンの顔を怪訝そうに見つめた。笑うべきかどうかを、確かめるかのように。

 バビロンの石畳の街路に沿って、椅子を並べた休息のための店が多くある。この街は散歩を楽しむようにもなっているようだ。美麗な白亜の建物が続く街角は、ひっきりなしにやってくる旅人には驚きである。
 二人は、椅子に腰を下ろした。店員がやって来て注文を取る。彼らは果汁を注文した。席には親子連れも歓談している。
「アイアコス、商売の方はどうだ」
「はい、相変わらず、金、銀、壺、ガラス細工が中心ですが、最近はちょっと変わったものが高く売れるんです」
「ほぅ、それは何かな。差し支えなかったら教えてもらえぬか」
「全然、かまいません。実は木材なんです」
「・・・・・木材?」
「ええ、木材です。さすがにバビロンまで運ぶのは無理ですが、ギリシャの海岸部や、島嶼でいくらでも売れます」
「木材は、どこで切り出すのか?」
「はい、カルタゴの遙か西のアトラス山脈からです」
 この当時は、北アフリカの降雨量は今より遙かに多く、緑も濃い大地であった。
「デモレオン様の商売の方はいかがですか」
「綿や小麦を扱うことは今まで通りだが、最近割の良いものを見つけた。今後はそれに力を入れようかと思っている」
「何でしょう?」
「塩だ」
「塩・・・・・それは高価だ。どこぞに良い岩塩を見付けられたのですか」
「岩塩ではない。海水からの精製塩だ。いろんなところに持ち込んだがこれが、すこぶる評判が良いんだ。大々的にやって見ようかと思っている」
「デモレオン様が大々的に扱うとなったら、塩の流通に大変な影響を及ぼすのではありませんか」
「それには、気を配っている。交易商人に大きな打撃を与えるわけにはいかないからな。相身互いということもある。相手の立場を尊重してこそ我らがあるのだから」
「それが、アラム商人の強さの秘密ですか・・・・・ところで塩の産地はどちらで?」
「カスピ海のカラボガズゴル湾だ。取りあえずの販路は、地理的にパルチアとバクトリア地方をと考えている」
「カスピ海は知っています。巨大な内陸の湖で魚影が豊富だとの話しですが、カラボガズゴル湾とはどんなところなのですか」
「カスピ海の西岸でサカ族の居住地にも近いところだ。大きな浅瀬の湾で、いまでも多くの塩田があるが、仲間が集まり資金を投入すれば、広大な塩田地帯になることは間違いない。どうだ、遠すぎてカルタゴ商人にも手が出せないだろう」
「出せるわけがありませんよ。さすがのデモレオン様も、アトラス山脈の森林伐採には行けないでしょう」
「もっともだ」
 当時のオリエント、地中海世界においてアラム人が陸路、フェニキア、そしてそこから独立したカルタゴ商人が海路を支配していた。そこには、領土も国境もない自由な交易と経済価値観のみが支配する、政治とは別のネットワークが張り巡らされていた。

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